今週、というかこのあいだ出たチャンピオンではバキ道が休載だった。その前は特装版収録の柳のエピソードが掲載されて、来週、というか今週発売号も載らないみたいだから、バキ道本編じたいは3週も休載することになる。休載の少ない板垣先生ではかなり事件である・・・。進めあぐねてるのかなあ、とか邪推してしまう。
とはいえ、今回と次回にかんしていえば休載といってもお休みしているわけではなく、グラップラー刃牙のセルフリメイクという、あまり聞いたことがない試みが掲載されていた。炭酸抜きコーラ一気飲みで有名な、末堂戦直前の、あの伝説の回が、前編後編にわかれて、現在の絵、現在の漫画観で描きなおされているのである。
このことそれじたいはファンとしてうれしいものである。現在の表現力の成果というべきか、当初あったあの過剰さは失われてしまっているが、そのぶんすっきりしていて、現代的だ。作家は、ネタをとっておいてもしかたがない。もっているものをすべて投入して、作品をつくっている。ぼくが小説を書いて投稿していたころ、いま考えるとアホなはなしだが、万が一デビューできると決まったときに備えていくつか構想してあったネタを温存していたりしていたのだが、当時群像の選考委員をしていた阿部和重が、選考委員のことばみたいなところで、もっているものはぜんぶ書いたほうがいい、みたいなことをいっていて、おもいなおしたのである。構想力というのは、量ではなかったのである。全体の半分つかったから、もう半分だけ使える、というふうには、残念ながらなっていないのだ。全部書いたとおもえても、必要なときにインスピレーションは訪れる。だったら、作品のためにすべてを投入すべきであり、とりわけこれから作家になろうとしているような新人賞ねらいのものは、温存なんてアホくさいのである。まあ、そうでなくてもじゅうぶんアホくさいわけだが・・・。
板垣先生はバキの前にすでに『メイキャッパー』があって、そのあたりのことは今回の本誌インタビューでも語られている。そして、板垣先生のばあいは自信がそうさせていたということもあるだろうが、やはり持っているすべてを投入している感じはあって、それが、あの過剰さにつながっていく。いま読んでも情報量がすごく多くて、セリフ運びなどに多少古さがあっても、やっぱり圧倒されてしまうのである。これが、作家じしんの手でリメイクされる。要するに、いま見ると未熟さが見えてしまう、ということのようだ。相手は若いじぶんであり、未熟ではあっても勢いや若さがある、手ごわい敵だ、というはなしだ。勢いはまさにその過剰さ、字あまりの感じにつながっているだろう。57577のルールで短歌をつくる、というところで、猛烈な勢いで字数無視の演説を開始するようなのである。だが、いまなら、57577の内側に、スマートに描くことができる、おそらくそういうはなしだ。
ただ、このことは、随筆の『檄!』などで語られ、noteの板垣恵介論では主題とさせてもらった、未来が過去を創る、という視点からするとどうなるだろうか。
これは、東日本大震災を経由して板垣先生のもとにあらわれた思考法である。といっても、それ以前から作風としてはあった。ひとことでいえば、未来が、現在を活性化し、そこに至る前の過去に価値を施す、ということである。震災の経験は取り返しのつかない悲劇だった。わたしたちがそれを乗り越えることができるのは、「そうでなければたどりつけなかった未来」に到達したときだけだと。こういう極論を板垣先生はよくいうので、誤解もされやすいが、それは過去を肯定するということではない。震災は悲劇だったし、その後の原発関連の被害も見逃すことは到底できなかった。けれども、生きていかなければならないわたしたちは、どこかで落としどころを見つけなければならなかった。どうすればそれを「トラウマ」として、読み込めない暗いファイルのようではなく、起きたこととして記述することができるようになるのか。それが、未来から遡るという思考法なのである。これは、板垣先生にはもともと備わっていたもので、震災を経由してはじめて自覚された、というのがおそらく正しいだろう。というのは、あの即興性である。読めば一目瞭然、バキは常に、悪く言えば行き当たりばったりで、その場その場の直面に応じて描かれてきた。なぜなら、バキシリーズは「思考実験」にほかならないからである。あの格闘家とあの格闘家が全盛期にルールなしで激突したらどうなるか、あの格闘技とあの格闘技が全面的に対決したらどうなるか、そういう、ある種の格闘ロマンを実現してきたのが、バキシリーズなのである。だから、どうなるかわからない。猪木と馬場が本気で対決したらどうなるかなんて、誰も知らないし、想像もできないからである。だからとりあえず向かい合わせに立たせてみる。バキシリーズの名勝負群はいつでもそうして書かれてきたのである。
そして、ぜんたいのストーリーを貫くものとして絶対者・勇次郎を想定することはできても、現実には、そのような即興的に出てきたものを積み上げるしかたで、作品は成り立ってきた。それが可能になるのは、即興的に出てきたそれらの一回的な展開を、それじたいとして認めてしまおう、というありかたがあってこそなのである。それらのバトルがどういう意味をもっているのか、トータルで見たときどういう輝きをもつのか、そういうことは、未来が決定する。事物それじたいのなかに価値は宿らない。だが、そこから先の道程が形成されて、あとから振り返るしかたで過去が目撃されたとき、はじめて、その真価がはっきりするのだ。
今回のリメイクは、そういう視点を踏まえたうえで手直しをする、というようなネガティブなものではないだろう。ただ、技術的な問題である。バキの起点となるあのはなし、いまならもうちょっとスマートに、現代的に、おもしろく描けると、まあたぶん作家なら誰でもそういうことはおもう。なにも根本的なアイデアを書き換えるというものでもない。ただ、もっときれいに書けるという、たんじゅんなはなしなのだ。ただ、それでも、ここからは、作品のコアと、表層の描写が分離している、ということだけは見て取れる。ジャズの即興演奏では、技術とインスピレーションは不可分である。湧き出てくるアイデアを実物の音楽にするためには高度な技術が不可欠であり、同時に、それらのアイデアを支えるのは、豊富な音楽的語彙や経験でもある。アイデアは素晴らしいけれどそれに技術がともなわない、ということは、例外的な天才を除けば、即興の現場では原理的にありえないのだ。しかるにリメイクが行われるということは、それが分離しているということを示すのである。
グラップラー刃牙の第1話のアイデアは、あのときの板垣先生のすべてがつまっている。むろん、技術的なものも、すべてが投入されているはずだ。今回行われたのは、そのコアとなるアイデアじたいは保存しつつ、技術面で新しく作り直そうということであって、そう考えるとそうとうアクロバティックな試みなのである。どうしてこういうことになったのか、バキ道の展開もあるだろうか。過去はあとになって評価されるもの、という哲学の作家が、過去の作品を書きなおすのだ、そこには言い知れぬ葛藤があるはずである。まあ、1話を書き直したいみたいなことはけっこう前から言っておられたけど・・・。それに、原点回帰という意味もある。これだけ長大に即興作品を鎖のように連続させてきたのだ。しかも親子喧嘩以降勇次郎という幹は失われている(絶対者ではない)。こういうところで、この、なんというかブロックチェーン的なものの最初のブロックにあたるぶぶんを見直すというのは、新しいこと(宿禰、古代相撲)に挑戦しようとしている以上、必然かもしれない。そのために、アイデアと技術の有機的結びつきをほどき、じっさいなにが描かれていたのか、コアを精査する作業が、おそらく必要になってきているのである。板垣流の自己分析といっていいかもしれない。
しかしそこは板垣先生と板垣組というべきか、コアをなぞっただけのような無機質な内容にはなっていない。というか、くりかえすが、ファンとしては非常にうれしい試みでもあったわけである。末堂出てくるのかな・・・。
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