■『カインの子どもたち』浦賀和宏 実業之日本社文庫
「数奇な絆を持つ女たち―時を超える真実を暴け。立石アキは死刑確定から40年以上拘置され続けている男の孫だ。祖父との血縁関係が原因で、子供の頃から人生に行きづまりを感じていた。しかし、彼女の運命は急転する。アキと同じく死刑囚の孫でジャーナリストの泉堂莉菜が、事件の新情報を手に突然接触してきたのだ。祖父らの冤罪を証明するため、「真犯人」を探し始めた二人だが―!?書き下ろし」Amazon内容紹介より
壮大な浦賀ワールド、UNUとでも呼べそうな世界観で展開される浦賀和宏の小説世界だが、最近は、どうも新しい展開が始まっているようでもあり、『Mの女』、『十五年目の復讐』に続いて、本作はその系譜の3作目になる。といっても時系列的には『十五年目の復讐』より前ということになり、さらにいえば、既存のキャラも登場するので、こうした括りも一時的なものである。
きわめて複雑に物語が重なり合っているもので、なにかをくちにした途端、いわゆるネタバレになる可能性が非常に高い作品でもある。というわけで、いつも以上に慎重に、これから本作、あるいはシリーズを読む可能性のあるかたやは、作品を読まれてから記事を読むことをオススメします。基本的に結末等には触れないつもりではいるけれども、ちょっと、どこがそうなるものかもうわからないので・・・。
シリーズそのものでいうと、まず『Mの女』があった。これは西野冴子という小説家の不思議体験記である。これに関与しているのが、以降続くシリーズの主人公というか、安藤裕子とか真賀田四季的な人物となる。書いてしまってもいいだろうか、それがジャーナリストの泉堂莉菜だ。彼女は、ある特殊な能力をもっている。これも、それじたい驚きをともなうもののはずだが、じっさいには『十五年目の復讐』の電子書籍版のタイトルが、すでに明かしてしまっている。「M」とは、メタモルフォーゼのことなのである。『Mの女』は西野冴子視点で書かれていたので、説明不足の箇所がかなりあった。それを補うのが、短編集的に、『Mの女』であまり説明のないまま退場した人物たちを描いた『十五年目の復讐』である。つまり、この2作は表裏となっている。だがそれだけではない。『十五年目の復讐』のラストには、浦賀作品常連のあのひとが登場する。泉堂莉菜にとっては職業上のライバルとなる男だ。といったらもうバレバレだが、このふたりのやりとりにおいて、彼がすでに莉菜によって痛い目に合わされていることがわかる。それが本作、『カインの子どもたち』である。
基本的には立石アキという女性が語り手となる。これは、すでに『十五年目の復讐』で謎めいたものとして名前が出ていたキャラクターだ。彼女の祖父は府中放火殺人事件の犯人として死刑判決が出ており、それから60年ものあいだ、刑務所で生きている。アキの両親が祖父の無実を訴え、裁判を長引かせてきたのである。アキはそのことで、子どものころには「カインの孫」というあだ名をつけられて苦しいおもいをしてきた。だから、祖父が真実犯人であろうとなかろうとどうでもいいという気持ちも強く、無気力に、消極的に生きてきた。そこへ、泉堂莉菜という美しい女があらわれる。彼女もまた新村事件という殺人事件の犯人を祖父にもち、刑じたいが執行される前に、祖父は病死している状態だ。事件としては新村事件のほうが有名であり、彼女じしん、それを端緒に死刑制度に反対してきたリベラルな知識人でもあった。ぜんぜんかんけいないとおもわれるふたつの事件。だが、莉菜はふたつは同一人物による犯行だとするのである。こういうおはなしだ。ふたりはともに死刑囚、「カインの孫」として意気投合、というレベルを超えて親密になり、一線を越えることにもなる。
カインというのはアダムとイブの息子である。彼にはアベルという弟がいた。しかし、ちょっとした嫉妬のようなものから、カインはアベルを殺害する。創世記に記された、人類最初の殺人である。こういう理屈のうえでは、人類はすべてカインの子どもたちである。アベルは死んでしまったわけなのだから、カインから広がった枝が、わが人類の系図にほかならないのである。本作タイトルには英語の題もついているが、「子どもたち」に該当するぶぶんはDescendants、末裔ということであって、必ずしも莉菜とアキのみを指示するものではない。
安藤直樹シリーズを追えて、幻冬舎から出すようになって以降の浦賀作品は、「どんでん返し」を惹句にすることが多かった印象がある。じっさい、それは、作風的にも理にかなったものだったわけだが、本作はそれらに比べると比較的地道というか、堅実な印象がある。系譜としては桑原銀次郎的というか、足で情報を集めて、意味のない思考も含めた、主人公たちの議論が中心になっている印象なのだ。だが、実をいうとこれは、これまで「どんでん返し」という軽い表現でなされてきたあの最終部の畳みかけを、別の読み方で下したものなのである。というのは、泉堂莉菜のセリフで判明したことだ。仲良く調査をすすめるふたりなのだが、途中、深刻に仲たがいする場面がある。莉菜は、究極、本が売れればいい。それらしいストーリーが手に入って、大衆が、あるいはじぶんや当事者でもいい、とにかくそれに触れたものが納得することができれば、それで本は売れる。彼女は「真実」を探究するものではないのである。もし調査の先にあらたな真実が現れてきてしまっても、それはそれで本にすればよい、と。むろん、これは、浦賀作品のあのやまぬどんでん返しにかかるものである。くりかえされる「真相の訂正」は、最後にある地点に着地して、読者を落ち着かせることになる。だが、結末が裏返るという経験がわたしたちに示すことは、最後のそれがほんとうに「真実」であるかどうかはわからない、ということなのだ。それを担保するものはただひとつ、「そこで本が終わっている」ということだけなのである。真実はひとつ、なのではない。いくらでもある。納得できるか、本がしっかり完結するか、そして売れるか、重要なことはそれなのだ。
莉菜と出会って以降のアキは、トラウマ的に抱えてきた「カインの孫」という称号を、むしろアイデンティティのように考えるようになる。じぶんが、莉菜のような人物とこうして行動できるのは、「カインの孫」だからである。事実そうなのだ。だが、いま記し、そしてアキじしんも語るように、じつはすべての人類が「カインの子どもたち」である。したがって、「カインの孫」であることは、アイデンティティにはなっても、莉菜と行動をともにする権利を保証するような特殊性を導くことはない。それでも、アキは特殊だった。感情がないのではないかとおもわれるほどのリアリストである莉菜とアキが親密になれたのは、そのような、出自の問題とは無関係だったのである。ぼくはここに、莉菜のリアリズムというか、真実がなんであってもかまわない、どうでもいい、という一見すると冷酷なスタンスが、むしろ人間味を帯びたものなのではないか、というふうに見る。ひとが「カインの子どもたち」である、ということは、「本質」である。その人物がどのように行動しようと、その事実は変わらない。しかし、ひとは実存的な行動がもたらすストーリーにこそ、人格を宿すのではないか。莉菜の「真実などどうでもいい」というありようを言い換えればそれは、「ひとの本質などどうでもいい」ということになるのではないだろうか。
こういうふうに思い至るのは、莉菜が想像以上に、アキに対しては人間的だからである。浦賀作品の読者なら、こういう女はどっかで裏切るだろう、どっかで冷酷な本性をあらわすだろうと、なかば期待して読み進めるはずである。じっさいそうなる。だが、それじたいもまた、心地よく裏切られる。事実の述語のぶぶんこそが重要であると、リアリストとして発言する彼女は、ひとに対してもやはりそうとらえてしまうのではないだろうか。
そう考えると、アキの結末は、自然でもある。くりかえすが、「どんでん返し」の最後の結末が、真実だと読者が判定する根拠は、「そこで本が終わっていること」以外にないのである。アキが莉菜にとって究極に特別たりえたのは、あの結末があったからこそなのだ。
シリアスな読み方はここまでにして、しかし、浦賀ワールドはここから新しい展開を見せていく可能性がある。浦賀和宏はアメコミ映画も大好きなので、そういう、ユニバース的なものも手際よくこなしていく。本作にはすでにあのひとがかかわっていることが明らかになっているわけだし、さらにいえば、その人物は、安藤直樹のシリーズにも登場している。つまり、ぜんぶ同じ世界なのだ。あの彩佳と莉菜が対決することになったら、とか、ちょっと想像しただけで鳥肌がたつ。こういうなかで、桑原銀次郎の生活感はなんというかすごい救いになる。いってみればいちばんふつうの人物なんだけど、そのぶん、超人たちのなかでは浮いてしまって、なんか感情移入してしまうのだった。これからすごいことになるかもしれない。少なくとも莉菜のシリーズはまだ3つなので、いまなら追いつけるぞ!
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