真鍋昌平読み切り「東京の女(コ)」後編。ちなみに、本作はやはり月末発売の短編集『アガペー』に収録されるみたいです。
のっぺりと起伏の感じられない結衣の生活。カメラの仕事はデリヘル嬢の宣伝写真だけだったが、それもクビになってしまった。それで、バイト的に働いていたスナックの勤務時間を増やしてもらい、なんとかやっていっている。
店にはえりという、わりと器用に立ち回っている23歳の女の子がいる。お客さんを立てるのも上手だ。閉店後、ママが呑んでいこうと声をかけるが、えりは意外につきあいが悪い。というのも、子どもが二人もいるのだそうだ。勤務中誰が子どもの面倒を見ているのかというと、旦那ではない。旦那は、いろいろあって逮捕され、離婚している。ガールズバー時代のえりのファンだったという58歳の解体業社長が、ポイント制で面倒をみているのだそうだ。えりが得になるようなことをすれば、ポイントが入って、1000ポイントたまったら沖縄旅行ということになっているらしい。
そこにえりが戻ってくる。子どもたちが寝てしまったということで、今日はやっぱり飲んでいくと。女たちの歯に衣着せぬ辛口トークである。
円満な夫婦関係にはセックスが大事、というママの持論を受けて、結婚ってなんだろうと結衣がいう。なにかの結果にセックスがあって、それが円満な関係に結びついているならいいかもしれないが、それが手段として独立して語られるからには、まず維持させようということが動機として浮上してきているわけである。その、なんとか保とうとする関係はなんなのか、ということだ。
ママのはなしを踏まえてなのかなんなのか、えりが3割くらいの子どもが父親とちがう遺伝子らしいというはなしをはじめる。妊婦から相談されるのだそうだ。まあ、この場合、心当たりのある妊婦しか当然相談はしないわけだから、そのうちで3割は、父親がちがう、というはなしである。心当たりがあっても調べないひともいるとおもうけど・・・。いずれにせよ、関係維持の方法とされるセックスが手段にすぎないということが、えりの発言によって強化されたわけである。セックスと結婚は別個に存在しているのだ。結衣は次に「幸せ」の意味を問う。
結衣の元カレの晴人だが、もとはここの客だったらしい。それが最近きていない。別れたから、だけではない。結衣は、えりが晴人と付き合っていることを勘付いている。帰り道で彼女はそのことをえりにいう。怒ってはいないが、結衣はえりの両手をとってぐるぐるまわり、放したら負け、というへんな勝負を仕掛けるのだった。飲んだあとこういうことするとすごい酒まわりそう。
次はえりの持論だ。男は追いかけてはいけない。追いかけて、好意がばれると見下してくる。男は追うのが好きなのだから、そうさせておいて優位を保ったほうがよいと。結衣からすれば、若く、職場でもうまくお客さんをいなすえりはいかにも強者である。これも、彼女は強者の発言と受け取る。じぶんは、えりのようにみずから望んで優位に立つことなどできない。結衣は、同性からも異性からも好かれる人間でいることに疲れている。周りがもとめる人格の鋳型に合わせていくうち、彼女は自分自身を見失っていった。だが、えりは、諭すのでも論破するのでもなく、周りから満たされようとしても渇いていく、という。自分で自分を満たさなければ、渇きは癒されない。強者のようにみえても、彼女は彼女で地獄を抱えているのだ。
えりは結衣の家に泊まることになった。横になり、えりは晴人が結衣を忘れられないといっていると伝える。彼はいつもカバンに婚姻届をいれているらしいが、それはえりのためではないのだ。泣いているらしいえりを見て、晴人の身勝手さをおもい、結衣は婚姻届を紙飛行機にしてとばすのだった。
子どもたちを迎えにえりが出発する。こうして仲良くなったわけで、次は子どもも、みたいなことを結衣はいうが、えりに会うことは二度となかった。面倒をみていた58歳の社長が、5歳の長女にいたずらをしていたのである。今回、気を失う事態にまでなって、それが発覚、下の男の子含め三人は街から姿を消したのである。
それからしばらくたっているのだろうか、どういう状況なのか、どこかの河原で結衣と晴人がキャンプをしている。結衣は、ひとが変わったようにたくましくなっている。晴人は誕生日おめでとうという。フェイスブックみて思い出したと。もともと覚えていたとはいわないところが、この男のよくわからないところである。結衣は今日29歳になる。いまは気持ちを切り替えて写真をとりまくっているらしいが、30までに賞をとれなかったらあきらめる、だからめでたくないと。
結衣はことばを選ばず晴人をディスりまくるが、のれんに腕押しというか、晴人はノーダメージである。100歳で現役のカメラマンもいる。結衣も憧れの笹本恒子というひとだ。だとしたら、まだ70年もある。そのことばを受けて、なのだろうか、結衣の表情は少し晴れやかになるのだった。おわり。
けっきょくいつもと同じ書き方になっちゃったな・・・。もうずうっとこうやってきたから、そうしないとなにか気持ちが切り替わらなくて・・・。
結衣ののっぺりとした日常は、事物の意味が感じられなくなっていることからきていた。いや逆か。事物の意味が剥ぎ取られて、前後関係が不明瞭になっているから、日常がのっぺりとしていたのだ。だが、その自覚は彼女にもあった。結婚ってなんだろう、幸せってなんだろう、という問いじたいは、まあ凡庸といえば凡庸で、よくあるものだろう。しかしそれはことばの、文章のつくりとしてはよくあるということであって、結衣の感覚としてはもう少し深刻だ。言葉とは、差異のことなのである。「結婚」という概念を決めるのは、「結婚」以外の状況なのだ。いま、結衣には、日常の起伏が乏しいことで、いやちがう逆だ、「結婚」の概念、輪郭が不明瞭になっていることで、日常の起伏が乏しくなっている。それというのは、「結婚している状況」と「結婚していない状況」の区別がほとんどつかないからなのである。それは、ただの読み取り不足ではない。問題は彼女じしんにある。その「意味」、つまり、「結婚している状況」と「結婚していない状況」のあいだに太い線を引くのは、彼女以外の誰かである。だが、そこに合意が加わることで、ひとは「意味」を共有し、コミュニケーションをとることが可能になる。だが、そこに至る彼女じしんの存在が、このようにして稀薄になりつつあるのだ。それはなぜか。結衣じしんが語るように、周囲が求めるありようにじぶんをあわせてきたからである。むろん、くりかえしになるが、これは「意味」のことである。「意味」とは、周囲に位置する似た概念との差異によって規定されるのだ。色のグラデーションというか、移り変わる色の関係性を思い浮かべればよいだろう。ある別々の箇所を、ある言語では区別するが、ある言語では等しくあつかう、ということはふつうにある。虹の色の数も、言語によって異なる。それは、ある特定の色に、本質的に「意味」が備わっているのではないことを示している。「意味」とは、本質ではなく、関係性の結果でしかないのだ。
結婚とはなんだろう、という問いは、こうした意味の関係性の網目を通して世界を眺めたときに出てくるものだ。同様にして彼女じしんも、「結婚」が本来、語として成立するためにたどる過程と同じようにして、みずからの存在の輪郭を縁取ってきた。その結果、彼女は本質を見失う。「結婚とはなんだろう」という意味を問う口調は、翻って、「わたしとはなんだろう」という問いと同根のものなのである。くどいようだが、そこに「本質」があると錯覚するのは、「赤」という語に、語が出現する以前から意味があったと想定するようなものである。しかし、わたしたちにはこうした感覚がごく当たり前にある。というのは、げんに関係性が生じる前から、わたしという存在はたしかにそこにあったからである。ほんとうにそうかと、検証する術は存在しない。自我があらわれる前の自我のありようを、自我を経由して調べることはできないからである。しかし、そこには確信があったはずだ。そして、幻想であれ、後天的な刷り込みであれ、欲しいもの、なりたいもの、好きなものといった、事物を求める感覚も、そこにはあった。なぜ結衣が、じぶんを見失いつつある現状のはなしで、こうした欲望のことを持ち出すのかというと、周囲の求めに応じて変容した自我において強く抑圧されるものが、欲望だからである。わたしたちは、欲望というでっぱりをやすりでけずるようにして落とし、周囲の求める小さな鋳型におさまろうと、日々努力しているのである。常識的にいって、欲望のままに生きていく人間は、社会を破綻させるので、いとわれるわけだが、限度もある。ひとびとの欲望を抑圧することを説く法理論も、すべての欲望をコントロールするものではない。ひとは、その内側においてなら、存分に幸福を求めてよいのだ。そのはずが、じっさいにはそうならない。そりのあわないひともいれば、こちらが強いられている抑圧を超えてわがままをいってくる人物もいる。そういうときに、わたしたちは必要以上に、わたしたちの人格にやすりをかけてしまうのである。
結衣はカメラマンである。このことにはいくつもの意味が含まれている。まず、彼女の特殊性である。特殊性といっても、イチローが特殊であるというようなこととはちがって、誰もが、個人として存在しているということそれじたいにかかわる特殊性だ。アイデンティティと言い換えてもいい。人間は、たとえば仕事をしているときと、家族といっしょにいるときとで、まったく別の人格で生きているように見える。また、夢のなかでたとえば勇者になって、ゾンビどもを片っ端からやっつけていくような経験をすることもある。そのどれもが、「わたし」である。わたしたちは、いちど意識がとだえる睡眠を経てさえも、ある瞬間と、そこから遠く離れたある瞬間のじぶんが同一人物であるということを信じて疑わない。それを裏付けるのがアイデンティティである。仕事であたまを下げるわたしと家族でディズニー映画を見るわたし、夢のなかでゾンビを殺戮するわたしと電車のなかで英語の勉強をするわたし、こうした両者を接続させるよすがが、アイデンティティと呼ばれるものだ。これが、デリヘルの会社をクビになることで、強く揺さぶられる。それもただクビになるのではない。これまでじぶんがやっていたプロの仕事を、素人の店長が、しかもスマホで撮って済ませようというのである。ここに、交換可能性が顔をのぞかせる。結衣の立っている場所には、結衣がいなくてもよいと、このように、あのデリヘルの社員は無邪気に伝えているのである。結衣は、カメラの仕事を失うことで、「わたし」の輪郭になる特殊性と、社会関係の網目において交感不可能の存在であることを示したはずの技術の価値を、同時に失っているのである。
もうひとつ、カメラということで思い浮かぶのは、真鍋先生じしんの作風である。それは、価値中立性ということである。さまざまな人物のありようを描いてきたウシジマくんでは、作者の価値観を漂白する写真の取り込みという方法は非常に有効だった。くわしい分析はnoteなど読んでもらうとして、ふつうに考えたらただのなまけものでしかない者に多くの読者が感情移入してしまうのは、まずはこの価値中立性があったためと考えられる。だが、写真にも「作者」がある。ぼくは写真にはくわしくないが、たんじゅんに、そうでなければ「よい写真」というものも存在しないだろうからである。結衣は、ここに、作者と対象の関係性を持ち込んでいた。真鍋先生はこのとき、ご自身の取材体験のことなど思い出されていたかもしれない。ともあれ、ここでいう価値中立性というのは、いままでの文脈でいうと、「意味」を決定する差異の太線を、極力取り払うということなのだ。「意味」でがんじがらめになってしまったとき、ひとは、とりわけ自身の存在にかんして、むしろ意味を見失う。だがカメラは、おそらくそこに本質を見出す。じっさいにはそれは創作、捏造かもしれない。けれども、問題になっているのはわたしたちじしんの「確信」なのだ。
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