真鍋昌平新作「東京の女」前編 感想 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

5月20日発売のスピリッツに真鍋昌平の読み切り「東京の女」が掲載されたぞ!(ちなみに「女」の読みは「コ」です。トウキョウのコ)

今週号に前編、来週後篇ということで、さらに、月末に出る短編集『アガペー』にもすぐに収録されるようす。

すぐに後編が公開され、なおかつ単行本にも載るというわけなので、まだ読んでない、読まないというひともいるだろうから、とりあえず後編が公開されるまでは、内容にかんしてはざっと紹介するにとどめておこう。

主人公は結衣というカメラマンの女の子。カメラマンの仕事だけではきついのでスナックでバイト的に接客もしている。大学卒業して3年後に父を亡くした、ということだが、いくつくらいかなあ。27くらいかな。30が見え始めている感じはする。

カメラの仕事は、デリヘルの宣材写真の撮影だ。若いころは憧れもあってカメラ片手に街に出たものだが、じっさいにはひとを撮るのが怖くて、猫とか雲ばかり撮っていた。いま見てもつまらない写真ばかり。いい写真には被写体との関係性が必要だという。風俗の写真はまあまあ評判がいいようだ。風俗嬢ともたしかにナチュラルなコミュニケーションがとれていて、そういうのが関係しているのかもしれない。

部屋もごちゃごちゃしているが、落ち着くのは安定の西荻、気取りがないぶん楽ということかもしれない、常連に誘われてそのままやっちゃったりもする。しかし、そうした性的なやりとりにスリルや快楽を期待しているかというと、そうでもない。といって、「ウシジマくん」に出てきた文香のように嫌われるのが怖いとか、その果てに不感症気味であるとか、そういうことも特段ない。だが、うつろである。からっぽで、それを規定する意味がなにもない。生活の連続のなかに無感興に性的なものが配置されて、その濃淡がかろうじて見られるくらいだ。

そういうところで、結衣はデリヘルの会社をクビになる。それを告げるフガフガした男がいうには、腕はたしかなようで、風俗嬢を魅力的に見せる役目は果たしていた。しかし、経費削減などもあって、今後は店長がスマホで撮ることにしたのだという。

男は、困ったらいつでもうちで働いてくれ、ともいう。なんでそうなるのか、というところで、彼はじぶんの三人目の奥さんの写真を見せる。元キャバ嬢の美人だが、ひとが足りなかったとき、彼はふつうに嫁を派遣したのだという。

 

結衣が別れた彼氏は晴人といって、いまでも勝手に家にあがっていたりする。別れはしたものの、別に誓約書をかわしたわけでもなく、ずるずる、いろいろ保留にされて、合鍵もそのままに、結果としては相手の自由を許しているだけのようだ。結衣にとっては少しもプラスになることはない。断っても晴人はふつうに迫ってくるし、結衣もそれを断固として拒むことはないからだ。

 

カメラの仕事がなくなったから、ということで、理解のあるスナックのママは勤務時間を増やしてくれた。またカメラが始まったら減らせばいいと、ものすごいいいひとである。ドレスの胸のところを引っ張ってしつこく誘ってくるお客さんからも助けてくれた。

 

帰宅した結衣が半生をふりかえる。また晴人がやってきて、先輩からもらったというおもちゃを勝手に試し始める。母親に否定され続けた子ども時代、父親との関係性は薄く、だが進学は反対された。それを押しきって家を飛び出し、4年生の大学に進んだが、生活費を稼ぐ日々で勉学には身が入らない。そして奨学金。公的にどこか許されているところのあるこの巨大な借金が、卒業後の生活を決める。というか、まともな就職先すらない。精神疾患、安定剤。風俗をやろうともしたが気持ちが悪くて一日でギブアップ。卒業から3年して父親が心不全で死亡。断れない母親が無理に入れられた保険金が皮肉にも彼女を救う。とりあえず奨学金は完済したようだ。そのときに、社会への借りはいちど清算された。だが、父の死に対しては悲しみよりおそらく完済に至るであろうという安堵感のほうが大きかった。両親の老後のこととかもあったかもしれない。そのことでまた結衣は自分が嫌いになる。長いスパンでものを見れないのである。

 

と、こういうふうに無表情に振り返っている結衣を延々と晴人がいじっている。バカなのかな。やがて結衣がぶちキレて蹴りつけると、晴人は「つまんねー女」といって帰っていくのだった。

 

 

 

後編につづく。

 

 

 

は・・・!しまった、ついいつもの調子でふつうにぜんぶ書いてしまった・・・。

 

闇金ウシジマくんの世界は、中心に丑嶋社長がいて、そことのかかわりにおいて、世界が、また人間が描かれてきた。ふつう、特定の人物をすべての関係性に関与させるとはなしは狭いものになるとおもうのだが、ウシジマくんではそうならなかった。なぜなら、彼が金の循環というシステムそのものに宿った存在だったからだ。そういう視点でいえば、丑嶋はかなり神出鬼没で、歌舞伎町を根城にしつつも、いきなり福島にあらわれたり、ここはどこなんだという田舎に出現したり、まあまあムチャをしていた。いくら暴利とはいっても、甲児が見つけたような大金を(あれはほんとうにすべて金だったか問題もあるが)を稼ぐのに、あの人数でどうやって、みたいな問題もある。しかし、整合性という点で意地悪につきつめていかない限り、それは漫画の展開についていえば些細な問題であった。主人公が「システム」であるということがどういうことか、作劇的な、漫画の作り方というような視点でいっても、ウシジマくんは画期的だったわけである。

で、こういう作風だったから、今回の結衣も、いかにもウシジマくんのキャラという感じがする。そして、その感じ方は間違っていないというか、げんにこういう子はいたような気もするわけである。が、それは順序が逆というか、結衣がウシジマくんっぽいのではなくて、ウシジマくんが世界のすべてを描きうる作風だったから、そのように見える、ということではないかとおもわれる。

 

というのもじつは意地悪な見方かもしれず、じっさいのところ、ウシジマくん完結は作者としては使命だったわけである。バキでいうと勇次郎との親子喧嘩がそうだったし、あとウシジマくんのなかでいえばマサルとの関係性もそうだった。展開を動かす爆発力になる、根本的な物語があって、それをもとに物語を動かすのはいいのだが、そうする以上、いつかそれに決着をつけなくてはならないと、こういう事情が、特に完成した状態で作品を提出するわけではない定期連載では出てくる。丑嶋社長の生を描ききることは、作品を通して世界を描ききることと同じ場所から出てくる「宿題」にほかならず、それをやりきれたからこそ、それがいままで描いてきた世界を新しく描くことが可能になった、というふうにもいえるわけである。

 

さて、今回の内容だ。読解のポイントはたぶん結衣の職業、カメラマンというところ、部屋の様子、全裸描写、新しい服、というようなところになるかとおもうが、このあたりは次回の展開もあるし、保留しておこう。今回はのっぺりとした結衣の生活である。この種の異様さというか、若者の「乱れ」のようなものは、ウシジマくんでもくりかえし描かれてきた。だから、別段それがショッキングに描かれているということもないし、じっさい、あっさりやってしまう結衣を見ても、歴戦のウシジマ読者であれば、すごく損なわれるということは(たぶん)ないだろう。ああ、こういう子っているよな・・・、というような、へんに凪いだ感想が先行するとおもうのである。作品としても、そのように比較的穏やかに描写がされている(とぼくは感じた)。しかし、そこが落とし穴なわけ。結衣は、ちょっと知り合いくらいのおじさんと、ちょっとした弾みでやって、特にそのことで傷つくこともない。酔っ払ってもハメをはずすというふうでもない。別れた晴人はふつうに家にあがりこんでいて、くちでは拒んでも、けっきょく最後までさせている。では「別れる」とはなにか? また、これは結衣ではないが、デリヘルの会社の男は、妻をふつうにデリヘル嬢として派遣する。寝取られが好きだとか、そんなことはどうでもよい。セックスや、「彼氏」、「妻」など、世界を截然と隔てて、区別する枠組みのようなもののことごとくが意味を失い、一定の動力でわずかな起伏のある道を進んでいくラジコンみたいに、ただ時間が進んでいくのである。たとえば、「若い女くん」の久美子は、展開としてはふつうのOLから風俗嬢に「転落」したわけである。だが、そもそもそれを「転落」とさせるのは、既存の価値観である。すぐやってしまう女の子の性生活を、もしわたしたちが「乱れている」と判定したら、そのとき用いられているものさしは、「ふつうはそんなふうにかんたんにやらせない」という価値観なのである。

しかし、結衣の生活ではそれらの相対的な「意味」はすべて剥ぎ取られている。たとえば晴人は、もう彼氏ではないわけだから、セックスするのはへんだし、そもそも勝手に家に上がりこんでいるのが通報ポイントである。だが、結衣はべつに怒らない。そして、このはなしで重要なことは、結衣が「怒らない」ことではない。それがへんなことだ、というふうには、特に描かれていないのである。これは、結衣の職業でもあるカメラとも接続する。というのは、真鍋先生のこの中立表現は、写真的な発想がもたらしているものだとぼくは考えてきたからである・・・というはなしは、後編の展開とあわせて次回します。ともかく、勝手にあがりこんでふつうにセックスする仲がげんに存在しており、しかしそれは彼氏ではない、ということになったとき、わたしたちはなにをもって「彼氏」を規定するのだろう。精神性や言質だろうか。ウシジマくんにおいては、作者の価値観は表明されなくても、その他大勢の人物がそこに相対評価をくだすことはできたし、もっとも大きなものさしとして丑嶋社長が存在していた。これは、その後の世界である。万物をはかるものさし、結衣にとっての晴人が「彼氏」だったときと、そうでないときで、差を見出すことができない世界なのだ。これはおそらく、結衣じしんが、じしんをあるときとあるときで区別できない、何者であるのか規定できないことの裏返しである。「彼氏」とか、あるいは「妻」とかいったことは、他者との関係性の網目のなかで意味をもつ概念だ。幻想なのである。多様性を認める社会では、この幻想を打ち砕くことは原則的に是とされる。だが、ここでおきていることはそれとは方向がちがうだろう。というのは、「彼氏である晴人」と「彼氏ではない晴人」を区別できない以上、そのかかわりのこちら側にいる結衣にも、区別はないのである。もちろん、晴人がいてもいなくても結衣は結衣である。だが、結衣はそう断定できるほどに強固な自己同一性に支えられてはいない。だから、うつろになる。そう弱い人間でなくても、ひとというものは、他者との関係のなかに決められる。「何者」であるか、というのは、そういうことだ。だが、その手つきだけはそのままに、たよりとなる肝心の他者が、まったく意味を剥ぎ取られて、のっぺりとした日常に埋め込まれてしまったらどうなるだろう。

 

結衣は唯とも通じそうだ。それを「異常だ」と感じる感受性がなくても、一方的に損なわれるだけの人生でいいはずはない。そこに、なにかこんなのはへんだ、という違和感は宿るはずである。晴人はとりあえずそのことを結衣に気づかせて爆発させてくれた。どうなるかなあ、来週。