今週のバキ道/第28話 | すっぴんマスター

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第28話/兄弟子

 

 

 

 

 

 

 

現代の格闘技が到達した「ナンデモアリ」というひとつの枠組みに、古代相撲の力士として挑む宿禰だが、その相手はいきなり刃牙なのであった。今回は前回を宿禰視点で描いたものである。

 

宿禰は涼しい顔をしながら、けっこう相手のことを批評していたようである。バキにはたしかに納得のいく威容が感じられた。圧倒的な密度の筋肉と古傷、なによりその雰囲気である。たしかに、光成がいうように、「現代の『古代相撲』」の最実力者であることはまちがいなさそうだ。顔はいかにも少年、というか女子っぽい。バキは美人のお母さん似だからな。リアルでいたらけっこうイケメンなのかもしれん。しかし肉体は並ではない。

 

とはいえ、である。バキはいかにも小さい。体重はせいぜい70キロ。打撃でも組み技でも、体重は大きな意味をもつ。プロボクシングが細かく階級を決めているのは、体重にまつわる偏りを除いて完全な技術戦を行うためである。

だが、宿禰の見立ては少しちがう。「技術」が埋められる体重差は2倍までだと。つまり、70キロのバキが通用するのは140キロまでなのだ。3倍は技術を断つと。どこから出てきた理屈なのかわからないが、彼は200キロ超なわけだから、技術は通用しないことになる。140キロを制圧できるというだけでも、けっこう甘い見立てだとおもうが、まあ3倍という事態がふつうないので、なかなか想定も難しい。成嶋竜がボブ・サップとたたかうようなものだ。成嶋竜ならポコンとやってしまうかもしれんが・・・。

 

宿禰はバキを認めつつも、体重という現実、力士の代表的形容詞でもあるであろう「重い」ということのリアリティをつきつけるつもりである。そうしてぶちかます。しかしバキは動かない。というか、なにか兄弟子のような包容力でもっておれを迎えるのである。

衝突の寸前、バキの顔がいっしゅん消える。気づくと宿禰は尻餅をついていた。宿禰はなにが起きたのか理解していない。ただ、バキの動作に蹴りの余韻を見て、蹴られたということを知った感じである。どの瞬間までバキが動いていなかったかはわかる。宿禰の突撃を上回る速度で、信じられない至近距離で蹴りを決めたのである。そこに、宿禰は「蹴速」を感じるのであった。

 

立ち上がった宿禰はバキを「兄弟子」と呼ぶ。そして名を問う。なんか知らないけど光成が誇らしげに王者としてバキを紹介。おやこれはおもしろい流れだな、とおもいきや、ただ感服しただけではないようだ。宿禰は、改めて、もういちど胸を貸してくれないかと、この場でのしきり直しをお願いするのだった。

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

これが武蔵なら、クセモノだから、明らかに二度目のたたかいはなんか仕掛けてくる、ということになるが、どうなんだろうなこのひと、いやらしいことしてきそうといえばしてきそうだし、なにも考えてないといえば考えてなさそうだし・・・。もう少し、もう少しだな。

 

今回は、宿禰にもごくふつうの人間的感性があるのだな、ということが意外といえば意外だった。空ではないのである。内面描写は、人物を地に足ついた感情移入可能なものとする。たとえば、内面描写のほとんどない花山なんかは、多少ファンタジーっぽさが強めでも乗り切れるし、感情移入がどうのというキャラクターではない。それが、こうして、視点まで宿禰のものとして描かれるということは、彼は神話の系譜に位置するものではあっても、神ではないのである。

そうしたことが、今回バキを兄弟子といわせた。むろん、このあともなんらかの考えがあって二戦目を望んでいるのだろうから、一概にはいえないのだが、いずれにしても、今回は通して、彼が絶対者ではないということが呈示された回だった。

絶対的であるとはどういうことかというと、たとえば勇次郎はバキによって相対化されるまでずっとそうだったわけだが、それは「強大」ということと同義ではない。比較の出発点にあって、それ以前には比較が始まらないようなもののことをそう呼ぶのである。たとえば地図がそうである。地図は、ある仮想の絶対点から開始して、それを縦横無尽に広げ、網のなかに絶対点まで吸収してしまうことで成り立っている。すべての地球上の位置情報が北極点から始まっているとして、もし北極点の位置が測定できなかったり、時間によってかなりずれるというようなことがあると、正確な地図は成立しないのである。xy座標とかもそうだ。あれは、座標上のある位置情報を、原点からの距離で計測して表現する方法である。もしこのときに原点の位置がころころ変わってしまうようであったら、そのたびに位置情報は変化してしまう。

まあこの議論はいまおもいついた適当なものなので話半分に聞いてもらうとして、このように考えると、絶対とか相対とかいうことは、ある瞬間を切り取って把持できるような無時間モデルなのではなく、ある有限の時間の内側での、関係性の推移だということがわかる。強さでいえば、その点を原点にして、そのほかのものの位置情報が示されるようなもののことをいうのである。勇次郎ではそれが、「誰よりも強い」というしかたで示されたわけである。であるから、彼以外のものは、彼より弱いものとして規定されたのだ。

 

そうした絶対性が、宿禰にはない。たやすく内面描写が行われ、嘘でも「兄弟子」という言葉が出てくる。これは、バキ世界ではなかなか斬新だろうとおもう。「すごく強い」ことはこれまでだと通常、絶対的であることを意味したからである。もともとバキでは、強さの不等号が成立しなかったが、それが回帰してくる可能性が出てきたように感じる。これを前回までの、宿禰が武蔵を含まない件と含めると、ひょっとして、強さを絶対点を基準に計測する方法は、武蔵を萌芽とするものだったのかもしれない。

 

 

たぶん今回のたたかいは、両者にいいところがある感じでまとまるはずだ。次回は宿禰が古代相撲の強さを見せるとおもうが、来週は死刑囚のやつが掲載か・・・。