今週のバキ道/第20話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第20話/肩甲骨

 

 

 

 

 

 

 

 

久々に登場した金竜山は、二代目・野見宿禰にあって、なにかをはじめようとしているようである。

そのなにかはまだよくわからないが、まず行われるのは、ストリート相撲なのであった。宿禰が、道行く大関を挑発するのである。

 

勝てる勝てないの問題ではなく、大関はプロなので、こんなところで相撲なんてできない。いくら相手が大相撲の力士ばりの体格で、しかも実力があったとしてもである。だから付け人は割って入るが、大関はやる気になってしまった。それ以前のこと、があるのだ。立法以前に不文法典としてのタブーがある、みたいなことである。こんなふうになめられるわけにはいかないのだ。

ギャラリーで接近できなかった警察がようやく近くにやってきた。警察は、宿禰に説教するとともに、大関にも、敬意を払いつつ注意をする。しかし、問題はとめられないということだ。警察が大勢きて、この喧嘩を止めようとしても、無理なのだ。宿禰はもちろん、大関だって難しいだろう。というわけで、結果として大関が出るしかない。

大関は地面がコンクリートだということをいうが、それをいったら土俵だってかたい。しかし、大関は、気遣い、あるいは言質をとる意味でそれをくちにしたようだ。ここで地面に落ちたらどうなるかわかっていっているのだなと。

 

大関が身を屈めて構える。警察が邪魔しようとしても、もうどうしようもない状況だ。野次馬は逃げ出す警察を無責任に笑っている。じゃっかん含みのある描写だ。パフォーマンスとしての相撲、ということが、ひょっとすると、宿禰の考える「きれい」ではない相撲の要素のひとつなのかもしれない。野次馬はそれを構成するものなのだ。

 

ものすごい音をたてて大関が宿禰に激突する。宿禰もこれを受けて、さすがに跳ね返すというふうにはなっていない。中腰の体勢のまま平行移動した感じだ。が、じっさいに接触した大関は、その異様な感触に驚いているようだ。

それでも移動はした。宿禰は大関を「さすが」としつつ、上から左手で大関の背中を覆う。からだのどこかに指をめりこませてつかんでいるのである。これまでの人生で感じたことのない感触に、大関はひどく戸惑う。もちろんそれじたい痛みの伴うことだろうが、まだそういう段階ではない。状況がわからないのだ。

離れてみていた付け人は、すぐにこれを理解する。肩甲骨をつかんでいるのだ。張り手で押すだけではなく、まわしをつかんで引き寄せる力士の背中は、分厚い筋肉で覆われているだろう。それを貫いて、肉ごと、骨ごとつかんでいるのである。

 

オリバのときのように、宿禰はそのまま大関のからだを振り回し、あたまから落としていくのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

ぶちかますなり大関がぽよ~んと跳ね返される感じじゃなくてよかった。

いくら大関だといっても、ふつうに相撲やってるひとと、握力でダイヤつくっちゃう神話のひとが勝負になるはずがない。チャパ王と初期ピッコロ大魔王くらいの差はあるだろう。だからこうなることはわかっていたが、宿禰がきっちり相撲として大関の攻撃を受けたぶん、なにかまともな勝負が行われたという感触はある。宿禰ではいくらなんでも相手が悪すぎるというもので、たぶんこのひとはけっこう強いのだろう。

 

金竜山の「妙案」とはなんなのかはまだ明かされないが、おそらくは、こうすることで協会の面目をつぶして、無視できない状況をつくり、「大相撲」以外の相撲的状況に力士すべてを引っ張り出すことにあるのだろう。国技を名乗って、強さを一定の枠組みのなかで表現してきた集団が、ちょっと大きくて力が強いだけ(なわけはないのだが)の通りすがりの男に負けてしまっては、面子が立たない。こういう筋書きを、金竜山が考えている可能性はある。そのときに彼が用意する文字通りの土俵がどういうものか、問題はそこである。

今回気になったのは、ギャラリーたちのなにか無責任な態度である。彼らは、喧嘩がはじまったとみるや、本来それを買うべきではない大関にもやれといい、それをとめようとする警察が逃げるのをみて嘲笑する。別にひとつひとつを取り上げるとどうということもない描写だが、どこかひっかかるものがあるのだ。警察官の立場からすれば、あんなばかでかい男ふたりの喧嘩(しかもいっぽうは有名人の職業格闘家)をとめなければならない身にもなってみろというものだ。

ヒントは「きれいな相撲」にある。八百長はなんのためにあるのか、どういう理屈で発生するのか。スポンサーや人気や、要するに大人の事情である。土俵の上での、ふたりの男のぶつかりあいとは別の、外部的な事情が、これを要請するのである。この原因を、相撲をパフォーマンスとしてみる向きに求めるのはそう不自然なことではないだろう。相撲は、力士以外のものにとっては見るもの、観戦するものである。だからこそ「プロ」が成立する。ところが、長い時間を経るうちに、その形式は腐敗を呼び込み、パフォーマンスが先行して、勝負の結果が、始まる前から決まっている、という状況が出てきてしまったのだ。

 

たとえば地下闘技場の観客もわりと無責任なことをいうが、彼らはいちおう選ばれた会員みたいなもののようである。光成は出場選手にファイトマネーを払うこともしない。だから、ある意味であそこに立つものはどこまでもアマチュアであり、ひょっとすると観戦するものからもお金をとっていない可能性がある。死刑囚篇で舘岡という、猪狩のところのレスラーがいっていたように、ファイターからすれば地下闘技場で試合をしたという事実だけでじゅうぶん、というような面もあるのだろうが、それらは二次的な効果であって、少なくとも金銭的な意味で、あの場所には外部的なものが存在しない。しかし、大相撲はそうではない。乱暴な仮説ではあるが、宿禰が、そして金竜山が、「観るもの」になったときから相撲は不純になったのだと考える可能性は、低くはないのである。

 

こういうふうに考えると、宿禰は、ギャラリーに「当事者意識」を植え付ける必要がある。彼の気性からして、勇次郎みたいに、その場にいることが危険だとおもわせる、というふうにはなしをもっていくとは考えにくい。ただ相撲の純粋さを求める金竜山としてもそんなことは求めないだろう。とすれば、宿禰はどうするか。現在大関は落下中である。オリバの例や、ふつうの漫画的表現の様式からすると、彼はぎりぎりのところで落下を掬われて、助かるだろう。しかし、これが純粋な「角力」だとしたとき、それを止める意味はあるだろうか。初代宿禰は当麻蹴速を蹴り殺しているのである。宿禰は、殺さないまでも、このまま大関を落とすのではないだろうか。当然、大関は重傷になる。そして野次馬はドン引き。だが、それは、彼らに、力士もまた人間であるという「当事者意識」を植え付けて、無責任な観客であることをやめさせるのではないだろうか。

 

宿禰が相手の骨ばかりつかむのはどうしたことだろう。彼にとって廻しがどういうものなのかは、まだコメントがないのでわからないが、彼じしんしめていたこともあるわけだし、それじたい否定されるものでもないだろう。だがこれも、既存の様式美、というか無批判に受け容れるだけになってしまった機能のようなものとして受け止めることができるかもしれない。「観るもの」としての相撲と、廻しの役割は、無関係ではないのではないか、ということだ。

 

 

 

 

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