今週のバキ道/第17話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第17話/10万気圧の握力

 

 

 

 

 

 

オリバの拳が宿禰のぶちかましで砕かれ、肋骨をまわしのようにつかまれたところである。オリバは、筋肉信仰を貫こうと、肋骨をつかまれた状態のまま全身にちからをみなぎらせる。しかし、スクネの指はがっしりと骨をつかんで固定されたままだ。したがって、オリバのちからはそのままじぶんじしんに返っていくことになる。腐ったはしごを連続で踏み抜いていくように、オリバの肋骨は砕けていき、ついにあたまから投げられてしまうのだった。

 

 

ここで若干の解説が入る。ネズミとシロナガスクジラは、見た目も大きさもぜんぜんちがうのに、同じ哺乳類として分類される。ダニとヘラクレスカブトムシも、大きさ・見た目・パワー、すべて異なるが、同じ昆虫類であると。このはなしがどこに着地するのかというと、化学記号Cである。石炭とダイヤモンドは、ともに同じ化学記号で表現される、化学的には同一の物質なのだ。にわかには信じ難い。作中のなにものかもそういう。これは、刃牙道最終話で、相撲に切り込みたいという欲望を語った人物、つまり作者とおそらく同一人物である。

両者が異なるのは、どれだけの圧がかかったかだ。両者は、10万気圧のもとでは、同じ見た目になる。というか、石炭に10万気圧をかけるとダイヤになるというはなしだ。そう考えると、温度で水が液体になったり気体になったりするのと現象的には同じということになるだろうか。

10万気圧といってもよくわからないが、気圧は、我々の生きる空間を1気圧として考えられるようである。重さにすると100トンだという。これは、サイズを拳程度にしたときのはなしだろうか。というわけで石炭を思い切り握ってみるのだが、もちろんダイヤが生れたりはしない。当たり前である。現実世界の握力の世界記録でも200キロいかないのである。200キロといえば0.2トンだ。

だが、これは「当たり前」ではないという。広い世界、永い人類史には、それを達成したものがふたりいた。むろん、野見宿禰の初代と二代目なのである。

そんな、桁違い、というか、異次元の握力があるとなにができるか。皮膚ごと骨をつかめるのである。うーん、そのくらいなら花山やオリバでもできそうな気が・・・。というかシコルスキーとか、別の漫画だけど松尾象山とかでもできそうだぞ。

 

 

まあ、「できる」ことはまちがいない。顔面から叩きつけられたオリバは、もしかするといっしゅん意識を失っているのかもしれない。スクネはすぐに手当てをするように光成たちにいう。そして、板の間だったのは幸いだったという。地面なら死んでいたと。つまり、今回オリバが死ななかったのはたまたまなのだ。スクネは殺す気で投げたのである。

 

 

目を覚ましたのか、いまのセリフが聞き捨てならないということか、オリバが動きを見せる。しかし、背部の肋骨がほとんどぜんぶ砕けている状態だ。声を出すこともできないまま、オリバは完敗してしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

まあ展開としては、ここでスクネが負けてしまうことはありえない、ということはわかっていたが、ここまでオリバが通用しないとなると、この先どうするんだろうという不安が・・・。

 

 

とはいえ、それはちからに限ったはなしで、オリバ以上の腕力があるものとなると数えるほどしかいないが、ここからはむしろ技の領域かもしれない。達人や独歩、郭あたりの出番があるかもしれないな。

 

 

 

さて、今回の解説場面は、わりと驚きである。石炭をダイヤに変えるために、握力というレベルではない圧をくわえなければならないことはわかっていた。そのあたり、神話的な現象として片付けるのかとおもわれたが、作品はここに具体的な数量を持ち出し始めたのである。

手がかりはやはり作中の作者らしき人物である。刃牙道最終話でちょっとだけ考えたが、作者が作中に登場人物としてあらわれることは、作品世界を現実世界の模型(シミュラークル)であるとすることができなくなったことを示している。このことは、刃牙道における宮本武蔵の出現が自然に導いたものであると考えられた。あの宮本武蔵は、実在の宮本武蔵であって、このことは、漫画世界と現実世界のそれぞれの背後に、同一のイデアを想定可能にさせた。これは、両者が等価であるということでもあった。それが、作者じしんを登場人物として出現させることを可能にした。このはなしをするときにいつも持ち出すのは映画の『マトリックス』である。仮想世界であるマトリックスから目覚めたネオは、救世主として荒廃した現実世界を知って、人工知能とたたかうことになる。このことが示すのは、「現実」の無力化である。ネオは、仮想現実の中で言い知れぬ違和感を覚えてはいたが、みずから目覚めることはなかった。しかし、それは仮想現実だった。だとすれば、その荒廃した現実世界、機械との戦争に明け暮れて「現実」を獲得しようとすることに人間たちが注力する世界もまた仮想現実であるということを否定できなくなることになるのである。ごくたんじゅんにいって、漫画世界において、現実世界の住人である宮本武蔵がどのようにふるまうかということを追究していった結果が、それなのだ。このとき、漫画世界はただの思考実験の場所ではなくなった。バキ世界はそれまでずっと、誰某と誰某がたたかったらどうなるか、というような格闘ロマンを実現してきた場所だった。だからこそ、作風として、バキは行き当たりばったりの即興劇になっていったのである。その意味で、作品は現実世界の模型にすぎなかった。ところが、武蔵の登場は、じつは両者が等価であるということを示してしまったのである。そうしたさきに、「思考実験をしつつある作者」もまたフィクションであり、作品内にあらわれうる、という状況が生じたのである。

 

 

だから、そこには、神話的なごまかしのようなものはない。スクネが握力でダイヤをつくるというのなら、それは事実としてそうなのであり、そのために100トンの握力が必要なのだとすれば、スクネは100トンの握力をもっていることになるのである。じっさいには、100トンというのは桁違いすぎて、いまだ測定できていない、科学の外側の現象がここに関与している可能性はかなり高い。しかし、作中の作者はそう考えるほかない。“げんに”ダイヤになっているからである。今回のはなしは、そうした内容の宣言である。これは、非現実という意味でフィクションではないし、かといって現実的という意味でノンフィクションでもない、武蔵が実現した両者の等価性の先にある、現実的思考実験、思考が現実のふるまいと等しくなる世界なのである。

 

 

だが、ともあれ、ここでいう「100トン」という数字には、見た目ほどの意味はないだろう。それは要するに、「ものすごく巨大な握力」ということに過ぎない。100トンということになると、それはもう、現実感覚からするとほとんど無限に等しいだろう。要するに、スクネに握りつぶせないものはない、そういう次元である。数学的に無限と無限+1に差がないように、100トンもの握力を大きいとか小さいとかいってみても意味がないのである。

こうした絶対的握力の前で、勇次郎やバキは試される。ちからをというより、ありようをである。とりわけ勇次郎は、スクネよりずっとはやく、神話的あつかいをされてきた人物だ。彼の握力やパンチ力を「測定」しても意味はない。それは、いつでも、目の前に立つ「誰か」より必ず強いものだったのだ。神話的なのはむしろ勇次郎のほうなのである。こうしたところで、つまり漫画と現実が等価になった世界で勇次郎がどうあつかわれるかというのは非常に興味深い。ちょっと前から問いとして立ててきた正邪の問題もある。スクネは、ふりかかる火の粉として、フリーファイトを望むオリバを殺す気で投げている。彼にとってそれはどうやら正義のようだ。欲望のままに他者を蹂躙する暴力と、じぶん、あるいは神を守るためなら相手を殺すことも迷わないスクネ、両者において正邪の判定は可能なのか、そのように考えていくと、今後の展開も見通しがよくなるかもしれない。