今週のバキ道/第11話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第11話/相撲の領域

 

 

 

 

 

 

加納と光成が鯉にえさをやっている。

加納がなにかに気づく。鯉が大きくなっているような気がすると。

目の錯覚ではなく、光成もそのことは知っていたようだ。そして、「地鎮したから」だという。これは、光成じしんの説ではないようだ。同じようにして鯉が大きくなっていることに光成が気づき、それを受けて、宿禰がそう応えたのだ。連日四股で地面のしたに棲む「邪」を踏みつけているのだ、邪気が去れば、その地の生物は安心して成長できると。ということは、邪気に満ちた場所では、生物の成長は制限されることになる。天才児バキがいまいち強いんだかなんだかわからないのは、四六時中「邪ッッ」とかいってるあの父親が原因なのでは・・・?

科学的に根拠のあるようなことではないので、「信じるか信じないかはオマエ次第」という都市伝説的なものを出ないが、いかにも神のふところから出てきた宿禰の言いそうなことという感じもする。邪があるということは聖もある。これまでバキのキャラクターで、そういう対立概念を持ち出した人物がいただろうか。

 

 

宿禰がまた庭で四股を踏んでいる。が、四股と聞いてわれわれがイメージするものとはちょっとちがうようである。足を高くあげた宿禰は、そのままの態勢で静止している。上げた左足のあたりを蝶が飛んでいるので、てっきりそれが去るのを待っているのかともおもえたが、そうではなく、光成によれば、気をためているのだという。宿禰じしんから聞いたようだ。五体に気が満ちるのを待って、それを一気に解放するからこそ、邪を祓うことができるのだ。四股は、空手の稽古にも採用される、すばらしい足のトレーニングだ。もと地下闘技場戦士でもある加納にはそのきつさがわかる。それを、あの高さで、いつからやっているのだというほど長時間とめているのだ。

やがて蝶が足のとまる。ひょっとすると、自然と一体化するとかそんな感じの理屈で、宿禰はそれを待っていたのかもしれない。足が降下する。光成たちも、その衝撃でじっさいに館から妖気が除かれているような感じがしているようだ。ちょうちょがくっついたまま落ちなくてよかった。

 

 

 

今度はいつもの稽古場だ。バーベルがおいてある。ウェイトリフティングのスーパーヘビー級の世界記録、263キロということだ。調べたがほんとうにそうらしい。で、ウェイトリフティングというのは、要するにクリーン&ジャークのことのようだ。細部については詳しくないので、これも調べてみたが、デッドリフトの態勢でバーベルを持ち上げて、勢いをつけて鎖骨の上まであげる、これがクリーンで、そこから持ち上げるのがジャークというらしい。克巳がベンチプレス300キロとかだったから、ここで現実の世界記録を持ち出してどうなのか、ともおもったが、現実のベンチプレスの世界記録は500キロである。クリーン&ジャークは、ベンチプレスよりはるかに難しいようだ。

宿禰はとりあえずたいへんなおもさだとはいう。だが難しいとはいっていない。だいたい、「持ちやすすぎる」。光成の挑発にのったわけではないだろうが、宿禰はまずあっさりとバーベルの片側をもって立てる。このとき、小指だけをひっかけて立てている。片側だけなので重さは半分になるが、それでも小指だけで上がるものではない。

そして、リフティングは力士の領域ではないとして、宿禰はバーベルに相撲の技である「首ひねり」をかけるのであった。

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

どういう技かはよくわからんが、首をもって後ろがにからだをひねる感じだろうか。人間には使えない技だという。となると、例の決まり手四十八手には含まれていないのだろうか。でも、いま見たサイトだと決まり手に含まれていた。よくわからないが、宿禰のいっている「首ひねり」と大相撲のものがちがう可能性もある。

このバーベル投げに関しては、投げたことより、落下する直前に停止させていることのほうがすごいだろう。じぶんの投げによって生じたパワーも、引きのちからで相殺していることになるのだから。

ここでこうしてバーベルが出てきたことは、たんに宿禰の力持ち表現というだけではなくて、これからやってくるオリバを踏まえてのことだろう。オリバは重量挙げの選手ではないが、まあやっていないということはないだろう。そして、前回も書いたように、彼の特質は網羅性にある。ベンチプレスの選手は、ベンチプレスをメインにやっていくだろうし、腕相撲の選手は、懸垂とかカールとかグリップの系のトレーニングとかをやって腕相撲の筋肉を鍛えていくだろう。しかし、オリバはたぶんそうではない。もちろん、彼の初期衝動はマリアである。病気で大きくなってしまったマリアを抱えるために、彼はあの筋肉を宿した。だとすれば、たとえば押しを司る大胸筋や上腕三頭筋はそれほど発達しなくてもよいということになるかもしれないが、現在の彼にはそのような弱点はない。最初の目的はそうだったとしても、彼はそうして「昨日より」強く、重く、大きくなろうとする筋力トレーニングの虜となり、すっかり「量」に徹底する思考法になっていったはずである。そのことが、彼に全身をくまなく鍛えさせた。むろん、マリアのために審美的な面でのからだづくり、ということもあったろう。彼の初期衝動をそのままに現在彼がどういうスタンスになっているか言い換えるすればそれは、「もっとも重いものをもっとも優しくあつかう」ということなのである。

バーベルのもちやすさは、合理性のもたらすもので、どうやって対象の筋肉を手際よく鍛えていくかということの先に出現するものだ。この思考法は、前回も書いたとおりに、こういっては単純かとはおもうが、やはりアメリカ的、オリバ的といっていいだろう。質ではなく量のひとであるオリバでは、その動作にまつわるノイズをなるべく除いて、「量」それだけと対面できるような環境を望むのである。それを持ちやすすぎるということで、やすやすと投げ、しっかりコントロールして落とす宿禰とのあいだには、パワーというより思考法の落差が感じられるのである。

 

 

宿禰の四股は邪をはらう。くりかえされるこの描写だが、これはなにを意味するだろう。これまで、正邪を問うようなキャラがバキ世界にいたかどうか、考えてみたが出てこない。いたかもしれないが、ちょっと忘れてしまった。だから、いなかったということではなしを進めよう(いたらごめんなさい)

なぜそういう人物がいなかったかというと、それはやはり範馬勇次郎がいたからだろう。

白川静の字書によれば、「邪」という字は、牙が獣の曲がった牙をさしていて、それで曲がったもの、正しくないもの、という意味になっているようである。これを祓うと、世界は正しいものとなり、歪みが是正されて、生き物は安心して成長するようになる。

範馬勇次郎は、「邪」や「凶」という形容符が示すように、露骨によこしまな存在である。ちなみに、ふたたび白川静によれば、「凶」という字は、下の箱みたいなかたちが胸をあらわし、死体の胸に×と入れ墨をいれて悪い霊が入らないようにする、ということである。これが転じて、縁起の悪いこと、わるいこと、という意味になったようだ(これににくづきなど加えて「胸」になる)。いずれにしても、勇次郎をまとうイメージはたしかに「邪」である。勇次郎は、強すぎるために、通常の「法」が通用しない。ここでいう法は、法律だけを指すのではない。一般に、広く「きまりごと」くらいの意味だ。彼には、それが通用しない。破ったところで、それをとめられるものなどいなかったからだ。そして、彼はそれをむしろ好んで破りにいく。強いことじたいはもちろん「邪」ではありえない。問題はそれをコントロールできるかどうかということである。その意味で勇次郎は弱い。これは郭海皇が指摘したことである。武の歴史とは、本能のままの破壊衝動をいかにコントロールするかということだと。その意味で弱いのだと。このとき、なぜか勇次郎は反論しなかった。ただ老人に敬意を払っていただけともおもえたが、その後の狼藉を見る限りそうともおもえない。あれは、わりと図星だったということなのではないだろうか。そのもやもや、でもじぶんのほうが正しいという感情が、かわいそうなサムワン海王にぶつけられたわけである。

ここで郭海皇がいっているのは、いわば「ひと」としての強さである。「ひと」は、共同体の単位であり、そこには「法」がある。その内側でなければ成り立たない「ひと」としての強さは、当然、本能をコントロールできるものでなくてはならない。もしそれができなければ、いくら強くても、それはすでに「ひと」であることをやめた存在なのである。

ただ、それが「ひと」の世界にとって脅威であることは変わらない。クマやライオンや台風や地震が脅威であるのと同じ文脈でだ。しかし、それでいて勇次郎はまぎれもなく「ひと」である。このことが、彼を「邪」にする。「正しくない」という印象をほどこすのである。

 

 

そして、もとのはなしにもどると、なぜこれまえ正邪の概念がなかったのかというと、それはもちろん、勇次郎に反論できるものなど存在しなかったからである。勇次郎が邪であり、正しくないからといって、それを正すことなど、誰にもできなかったのである。台風は、天災である。しかし勇次郎は天災ではなく、ひとである。常人には、台風のように、ただその場を彼が過ぎ去っていくのを待つしか選択肢がないにもかかわらず、彼は台風ではないのである。

 

 

こうしたところであらわれた宿禰は、どういう役割を果たすだろう。ふたつ考えられる。ひとつは、最強の邪である勇次郎とバランスをとる存在として宿禰があらわれたということだ。そしてもうひとつが、勇次郎がそもそも「邪」でも「最強」でもなくなったために、ようやく物語が正邪を語られるようになった、ということである。おそらく後者なのではないかとぼくは考える。武蔵篇もそうだが、親子喧嘩はさまざまな面でこの世界のしくみ変えてしまったのだ。ひとことでいえば、勇次郎の絶対性が失われたことで、ようやくファイター各自の自己同一性が確保された世界がおとずれた。武蔵はそれが正しいものだったのかを確認するために登場したのである。それは、法との落としどころ、つまりルールのある近代格闘技の正当性を検証する実験でもあったのだ。

そして次の段階が宿禰である。たぶん、超越不可能な邪が失われたことで、この世界でようやく正義が語れるようになったのであり、それが、結果としては彼を呼び寄せることになったのではないのだろうか。宿禰じしんは、初代とその相手である当麻蹴速のこころざしを継いで、ただ強きものを求めているようでもあるが、彼の本質は四股を見る限り「正」の番人という位置にある。こうなったら新キャラの悪役が登場するか、勇次郎にむかしのアウトローっぷりを復活させてもらうしかないかもしれない。む、待てよ。そう考えると、まずオリバ相手というのは、つじつまが合っている。彼は、それじたいとしてはわりと善人だが、法のもとでは服役囚なのである。オリバを悪とか邪ということばで形容するのには抵抗があるが、もしかしたら力対決以前にそういう文脈が生じてくる可能性もあるかもしれない。

 

 

 

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