ボクの音楽ムシャムシャ修行 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

以下、noteに投稿したものと同一の文章です。

 

 

1ヶ月くらい前になるとおもうけど、noteで音楽のレビューなどしてほしいというリクエストをいただいた。
僕としては、書けるものはなんでも書いていきたいが、noteの性質上、ブログよりは慎重にならなければならないところがある。以前も書いたことだけど、要するに、noteは、書店でいうと実用書やビジネス書エリアにおかれている本のようなことばにあふれているのだ。だから、たとえば僕が「文章の書きかた」という記事を書くとき、それがブログに掲載されているものであれば、「“僕の”文章の書きかた」ということでみなさん了解してくださるかとおもう。ところがノートではそうもいかない。お金が発生していることもあって、やはりそこでは普遍的なものが求められるのだ。あなたがまったく本屋に行ったことのない会社員で、今度会社のウェブサイトのデザインなどを任されるようになったとき、公的な場所での言い回しがわからなくて、文章の書き方的な本を探しに本屋にやってきたとする。そこで、ビジネス書エリアで表紙惹かれて衝動買いした本の中身が「あなたにも書ける!ライトノベル超入門」とかだったら、がっくりきてしまうだろう。ビジネス書エリアにそんなものをおくなと、当然なるだろう。僕がいっているのはそういうことである。まだnoteはそこまで普及している印象でもないし、今後変わってくるとはおもうが、いまはまだ、そういう普遍的な書き物が非常に多いのだ。だから、たとえば書きかたでいえば、僕のやりかたが僕以外のひとにも有効であるということが保証されているものではないし、それを裏付ける権威的なもの(人気、売り上げ、資格等)もないとなれば、やはりどうしても慎重になってしまうのである。だから、僕としては、最初のところに「あくまで僕個人の見解ではあるのだが」などといった消極的な前置きをつけないわけにはいかなくなってしまうのだ。
書きかたはまだよい。しかし、以前はブログにもよく書いていた音楽や映画のレビューとなると、無料サイトでも猛者ぞろいということもあるし、なかなか手が出にくい。しかしせっかくリクエストいただいたのだからということで、この記事で僕がどの程度のリスナーであるのか、履歴を開いて、これから更新する(かもしれない)記事の書き手が音楽的にはどういう人物であるか、示しておきたいとおもう。したがって以下は考察的な記事ではなく、なんというか、長いプロフィールになります。要するに思い出話です。


【ジャズの時代】

僕が人生最初に手に入れたCDは、チック・コリアというジャズ・ピアニストの『リターン・トゥ・フォーエバー』という作品だ。小学5年生とかだとおもう。これは、島田荘司というミステリ作家の影響だった。島田荘司の描く名探偵・御手洗潔はたいへん魅力的な人物で、彼は楽器ならたいがいなんでもできるが、特にギターを得意としている。特に初期では、作中でも印象的な楽曲の使い方が多く、『異邦の騎士』や短篇「疾走する死者」などに流れる音楽に興味をもつことは必然だった。その中心にいたのがチック・コリアである。チック・コリアは1941年生まれだがいまも現役で、1970年代には「リターン・トゥ・フォーエバー」というフュージョングループを組んで活動していた。このグループの、特に『第七銀河の讃歌』と『浪漫の騎士』という作品を、僕がどうしても聴きたかった。そこで、はじめて出かけたCDショップで、僕はまちがえて『リターン・トゥ・フォーエバー』というタイトルのアルバムを買ってしまったわけである。『リターン・トゥ・フォーエバー』は1972年発表のチックのソロ名義の作品で、これが大成功したことで、徐々に、「リターン・トゥ・フォーエバー」じたいをグループ名として活動が始まっていき、のちに『浪漫の騎士』などがつくられていった、というわけなのである。まあ、事実をいうと、まちがって買ったというよりは、ただそこに「チック・コリア」や「リターン・トゥ・フォーエバー」という名詞が実物として存在していることに興奮してしまって、事実関係などすっかり忘れて買ってしまった、というようなところなのだが、しかしこれはいまでも愛聴している、人生最高のアルバムである。チック・コリアはラテン系の血が少し入っているようで、ジャズに独特のスパニッシュなリズム感やメロディ感を取り入れており、そういう音楽が好きなひとにもおすすめだ。
それからしばらくは、チック・コリアや、あるいはリターン・トゥ・フォーエバー(以下RTF)名義の作品ばかり聴いていた。『浪漫の騎士』がどうしても見つからなくて、観劇の帰りかなんかに、CDショップでもなんでもない、新宿の紀伊国屋でこれを見つけたときは、全身の毛穴という毛穴がどうにかなるほど興奮してしまったものである。
時期的にはどのあたりだったか覚えていないが、どこかで僕は、後藤雅洋というジャズ喫茶のマスターの著書に出会った。種明かしをすると、僕のジャズ観は基本的にこのかたの受け売りである。「聴きかた」のほとんどすべてを、このひとの本から教わったといっても過言ではない。特に講談社新書の『ジャズの名演・名盤』と講談社+α文庫の『ジャズ・オブ・パラダイス』は眼光紙背に徹し、つねに持ち歩いていた。同時期に寺島靖国というかたの本も読んでいたが、僕は後藤雅洋のほうを愛読していたのだ。そして、いまはどうなのか知らないが(最近なにかの雑誌で仲良く対談しているのを見かけたことがある)、両者はジャズ観をまったく異にしていた。ひとことでいえば、ジャズの魅力をアドリブの緊張感にみるのか、メロディの美しさにみるのか、というふうにわけることができるだろう。後藤雅洋は前者である。そして、その瞬間にしか生まれてこない音に集中する、プレイヤーとリスナーの緊張感を重視するスタイルがいまの僕の、ものを書く際の根本姿勢になっていることを考えたら、後藤雅洋は僕の師匠のひとりといってもよいのかもしれない。
こういうことはまたいつか書くとして、ともかく僕は、後藤雅洋の本を片手に、いわば教養として、基本的なジャズにどんどん触れていくことになった。むろん、小学生、あるいは中学生くらいのことであるから、限度もあるのだが、ソニー・ロリンズ、セロニアス・モンク、ビル・エヴァンス、キャノンボール・アダレイ、ウエス・モンゴメリー、モダン・ジャズ・カルテットなどなど、必聴盤といわれるものをかたっぱしから聴いていった。わかるものもあればわからないものもあったが、後藤雅洋の本がついているので、問題ではなかった。むろん、後藤氏の愛するチャーリー・パーカーにも挑戦してみたが、当時はよくわからなかった。その意味ではマイルスやコルトレーンもそうだ。大人になったら再挑戦しようとおもっていたが、気づいたら大人になってもうずいぶんたってるな・・・。


【フュージョンの時代】

それと同時か、ちょっとあとくらいに、チック・コリアに回帰するというか、あの、電気楽器でがちゃがちゃいう感じの音楽にもどっていくような時期があった。とおもう。いや、時期的には前後してるかもしれない。が、ここではそういうことにしておこう。そこで、フュージョンにはまる時期がやってくる。
フュージョンというのは、マイルスが1970年に『ビッチェズ・ブリュー』という作品を発表してから徐々に定着していったジャンルで、1980年代前半くらいまでは全盛期といっていいだろうか。即興性だとか音楽の組み立てかただとか、基本的なところではジャズだが、ロックやラテンのリズムや思考法、楽器をもちこんで、ごちゃごちゃにした、ひとむかしまえのミクスチャーみたいなものである。フュージョンの音楽家も当時はたくさんいたとおもうのだが、僕が基本的に聴いていたのは3つのグループだけ、RTF、ヘッド・ハンターズ(以下HH)、そしてウェザーリポート(以下WR)である。
HHはハービー・ハンコックというピアニストを、ウェザーリポートはジョー・ザビヌルというピアニスト、そしてウェイン・ショーターというサックス奏者を中心に結成された。チック・コリア含め、彼らは全員マイルスバンド出身でもあり、当時のマイルスの影響力がわかるというものだが、ともかく、僕はこのへんの音楽にも進んでいった。後藤雅洋の本にはフュージョンのことはあまり肯定的には書かれていないので、どこでこういうものを知ったのかわからないのだが、たぶんRTFのライナーノーツ(CDについてる解説)とかで読んで知ったのだろう。
WRはふたりを固定して、わりところころメンバーがかわるのだが、『ブラック・マーケット』また『ヘヴィ・ウェザー』というヒット作でついにジャコ・パストリアスという天才ベーシストが加入する。以後、ジャコは僕にとってオールタイムベスト的なミュージシャンとなって、どの時代でも聴いてきたわけだが、それもまた今度にしよう。
HHにも強い影響を受けた。ハービー・ハンコックじたいも、ジャズミュージシャンとして評価が高いから、そこからようやくこのひとの通常の作品に入っていくこともできた。そして、これがたぶん1998年かそのあたりなのだ。わかるひとはわかるとおもうが、このときにHHは再結成され、来日もしたのである。もちろん観にいった。ジャズのコンサートはすでに何度も行っていて、子どもが生意気にブルーノート東京などに出かけていきがっていたが、HHのようなライブは初めての経験であった。ライブの演出はいまでもかなり覚えている。最初に、ドラムスかパーカッションのどっちかが出てきたんだっけな。で、その演奏がはじまる。そして、演奏しつつ、次に出てくるものの名前を呼ぶ、みたいな感じで、ちょっとずつメンバーが増えていき、たいへんな粘度のあのファンクなリズムがねりあがっていくのである。ハービー・ハンコックが登場したときに会場の興奮は頂点に達し、僕の前に座っていた、ぱつんぱつんのTシャツを着たマッチョマンが、立ち上がって絶叫したときすごくびっくりしたのをよく覚えている。そういう感じのライブははじめての経験だったから。その男が両方の人差し指を立てて手をあげていたことまで鮮明に記憶している。
それにしても、そのライブは最高だった。特にハービー・ハンコックのあの2段キーボード。うえのキーボードで「カメレオン」のベースラインを引きながら、右手で、どうやっているのか、あのチョイチョイって感じの音を出すさまが、あまりにもかっこよすぎた。そういうわけで、僕は次に鍵盤楽器を弾いてみたくなったのである。


【ピアノの時代】

それが98年か99年かそれくらいだから、たぶん、それ以前にみたライブ映像と記憶がごっちゃになってるとおもうのだけど、ともかく、僕は高校にあがるときにコルグのシンセサイザーを手に入れることに成功した。僕の音楽の成績は、よくはなかった。ものを覚える能力が欠落しているからである。そのことをどうか覚えておいてもらいたい。僕は、特に深く考えず、ハービー・ハンコックが弾いてるようなやつがほしい、ということで、楽器屋さんのひとと吟味して、それを手に入れたのである。しかし、鍵盤楽器の訓練を受けているわけではない。そもそも、楽典的なものがほぼないのである。
このあたりでたぶん、同時的に、浦賀和宏の小説と出会っているはずだ。浦賀和宏の初期の小説には、安藤直樹という人物が登場するが、彼も、独学でピアノをマスターしているのだ。このことが、僕にじぶんのちからでピアノをマスターさせようとしたことは疑いない。「ハービー・ハンコックかっこいい」だけでは、あの熱量は維持できなかったとおもわれるからだ。そして、その安藤くんがなにを聴いていたか、またなにを弾いていたかというと、ジョージ・ウィンストンであり、エリック・サティであり、坂本龍一だったのである。
そうして僕は、なんの準備もないまま、とにかく坂本龍一の世界に入っていくことにした。最初は『グルッポ・ムジカーレ』というベスト盤を買ったんだっけな。また、エナジーフローがバカみたいに売れたのもこのころじゃなかったっけ。そういうわけで、タイミングもよく、楽譜もかんたんに手に入った。僕はすぐにリスナーとして坂本龍一が大好きになった。これも、次から次へといろいろなものを聴いていった。特に『音楽図鑑』と『メディアバーンライブ』は頭痛くなるくらい聴きまくっていた。当然、弾く行為も楽しいものになっていくはずである。しかし、ここで非常に愉快なことに気がつく。鍵盤がたりないのである。たしかに、冷静になってじぶんのシンセサイザーをよく見ると、明らかにピアノより横幅が狭いのだ。シンセサイザーは、ピアノの能力をすべて引き出すような音楽、たとえばショパンとか、リストとか、ラフマニノフとか、そういうものを弾くことを想定してつくられていないのである。こんなことに気がつかないのだから、音楽の成績が悪いのである。鍵盤の重さのちがいもあった。シンセの鍵盤はすかすかで軽いのだが、ピアノはきちんと押さなければならない。だから、シンセで練習したままに、アップライトピアノやグランドピアノが弾けるとは限らないのだ。場合によってひとまえで演奏することもちょくちょくあったのだが、そのときにはなにしろ鍵盤の重さにひいひいいっていたものである。
だが、機械としては当時最先端だった。かんたんに音程をかえることもできる。僕はそういう機能をつかったり、あるいは、たとえば低い音が一音だけ足りなくて出ないなんていうときはオクターブ高い音で我慢したりして、練習を重ねて言った。どうやって練習したかというと、練習曲など無視した、ごりごりの筋肉型である。ただたんに、楽譜を開いて、完全に記憶して、順番に弾いていっただけだ。最初に練習したのは音符も少ないサティのジムノペディだった。これは、安藤くんが最初に弾けるようになった曲でもあった。このジムノペディの楽譜は、坂本龍一の楽譜のなかにたまたま収録されていたものである。というのは、『メディアバーンライブ』で教授(坂本龍一)がこれを演奏しているのだ。次にあの戦場のメリークリスマスが弾けるようになった。ここまではまあかんたんだったのだが、次に挑戦したのが「黄土高原」という名曲だった。これは、もともとソロピアノで演奏するような音楽ではない。しかし、その楽譜には、誰がアレンジしたのか、その手のグループ向けの楽曲も、ソロ用の緻密なアレンジを施して掲載されていたのである。
そういうタイミングで、音楽の授業で実技の試験があった。楽器を弾けるものは楽器を、そうではないものはうた(アカペラ)を、という、なんというか、どうしてそんなひどい試験を企てるのかとおもわずにはいられないものだったのだが、とにかく僕はそこでさらにはりきることになった。僕のもっていた楽譜には「ラスト・エンペラー」の譜面ものっていた。現在流通しているラスト面ぺらーの譜面は、ほとんどが、『1996』という、ピアノ三重奏の演奏をもとにしているようだが、僕のもっていたものはそうではなかった。とにかくやたら難しかった。そうして僕は、1年でこのかなり難しいアレンジのラスト・エンペラーや、マイラ・ヘス版のバッハ「主よ、人の望みの喜びよ」、またショパンの夜想曲2番などが弾けるようになったのであった。


【ヒップホップの時代】

以後、クラシック音楽もちょっとはやっておかないと、という感じでいろいろ聴いたり弾いたりしてみたが、あまり難しいものになると、ほぼ全編にわたって鍵盤がたりないという事態になってしまい、リストなどはやる前からあきらめなくてはならなかった。が、弾く曲には困らない。チック・コリアのコピー譜(アドリブをそのまま楽譜にしてあるもの)を弾いて悦に入ったり、久石譲なんかもけっこうやってみた。打ち込みで作曲なんかもしていた黒い時代である。これが高三くらいだったかな。こういうところで、あくまで演奏のために、もっといろいろな音楽を聴いてみようという衝動が出てきた。そこで出会ったのがm-floのVERBALだった。覚えているひとは覚えているだろう、当時はアサヤンというオーディション番組があった。当時から僕はテレビをみないクソ生意気なガキだったので、どこで知ったのかは謎なのだが、ともかく、番組で、バーバルをコーディネーターとして、ラッパーオーディションが開催されたのだ。
詳細は省くとして、僕はこの企画を毎週楽しみにしていた。バーバルが当時アメリカの大学に通っていたかなんかで、審査がいっこうにすすまないのも、なにか連載漫画を見ているようで、もどかしく、おもしろかった。結果としてHEARTSDALESという姉妹のラッパーがデビューすることになったが、最終選考に残ったメンバーでMIC BANDITZというグループが結成されたりもした。だが、それはもうすこしあとのはなしで、僕は次にm-floにすすんだ。音楽にうた、人間の声が入っているものを聴くのは、教授の特殊な作品を除くと、これが人生初だった。で、また僕の熱量が発揮されて、m-flo漬けの日々がしばらく続く。やがて、セカンドアルバムの『EXPO EXPO』に参加していたDEV LARGEやNIPPSといったひとたちにも目がいくようになる。僕にはヒップホップに詳しい友人はいなかったあが、詳しい友人がいるという友人はいた。そして、彼によれば、デヴラージのようなひとがm-floの曲に参加するというのは、わりと事件だというのである。そうやって、僕はブッダブランドにすすんだ。このへんでもう大学生になってるのかなあ。ちょうどMUROが新作アルバムを出したころで、たぶんデヴラージが最後のチェックメイトという曲に出ていたから買ったのだとおもうけど、ともかく、MURO周辺の若手ラッパーが集結したような作品で、これを通して、僕はNITRO MICROPHONE UNDERGROUNDにたどりつくことになったのだった。それからしばらくは、ニトロのメンバーのソロ作や、フィーチャリングで気になったひとを派生的に追っていくようなことをくりかえしていた。別の枝になるが、当時はキングギドラが『最終兵器』を出したころでもあって、そちらの、UBGやABCの方向も掘り下げていった。
また、忘れることのできないのが、先日引退した安室奈美恵である。僕は世代といえば世代なのだが、こういう人間なので、小室時代のことはほとんど知らなかった。それが、あるとき、ZEEBRAとVERBALプロデュースで『SUITE CHIC』という作品が発表されたのである。これがじつにすばらしかった。じっさい、ここから、安室奈美恵は本格的なブラックミュージックの路線にすすんでいった。僕も安室奈美恵が大好きになった。楽曲や歌唱法がR&B風、という音楽はそれまでもたくさんあったとおもうが、あそこまで本格的な音楽で、しかもチャートで1位になっちゃったりして、いままで歌姫でい続けたというのは、やはり偉業でしかないとおもう。


【フリースタイルダンジョン】

以後ヒップホップにかんしては、2012年にニトロが解散するまでは、彼ら、特にDELIを中心に音楽を聴いていたのだが、東日本の震災を経て、DELIが市議会議員になってほぼ活動しなくなってしまってからは、むかしの音楽を聴くだけのごく当たり前の30代男性になっていた。そうしたところで、「フリースタイルダンジョン」がはじまった。僕は、ニトロやその周辺を聴いているだけで、たいがいのことは理解しているつもりでいたのだが、フリースタイルだけはなぜか視界に入ってこなかった。もちろん雑誌などで情報としては知っていたが、なにか、僕には関係のないことだとおもっていたところがある。じっさい関係なかった。僕は、現場に出かけていくようなヘッズではなかったからだ。
そうしたところで、ZEEBRAやUZIや般若など、よく知った顔がテレビにうつりこんでいるのを目撃して、ぎょっとなったわけである。もはや新しい音楽を聴くような積極性を欠いており、しかも疎いバトル界隈ということもあって、出演しているひとたちは知らないひとたちばかりだった。恥ずかしながらMC漢のことも、僕はよく知らなかった。DABOともめているこわいひと、くらいの遠い認識である。まだまだ、僕が知らないおもしろいことは世の中にたくさんあるのだ、知り尽くすなんていうことはないのだということが、その瞬間に啓けたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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