『ヴィヨンの妻』太宰治 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『ヴィヨンの妻』太宰治 新潮文庫

 

 

 

 

 

 


 

 

 

「新生への希望と、戦争を経験しても毫も変らぬ現実への絶望感との間を揺れ動きながら、命がけで新しい倫理を求めようとした晩年の文学的総決算ともいえる代表的短編集。家庭のエゴイズムを憎悪しつつ、新しい家庭への夢を文学へと完璧に昇華させた表題作、ほか『親友交歓』『トカトントン』『父』『母』『おさん』『家庭の幸福』絶筆『桜桃』、いずれも死の予感に彩られた作品である」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

太宰治みたいな作家は、最初にどの文庫で購入したかでけっこうそのあとの買い物も決まってしまうところがある。というのは、並べたときに(最近は並べてないが)出版社がごちゃごちゃだとちょっときもちわるいからだ。短編集とかだと収録作品が微妙にかぶってたりとかいうこともある。たとえば僕の場合、夏目漱石は新潮文庫だが、宮沢賢治は角川文庫でそろえている。ドストエフスキーは、罪と罰だけ新潮文庫だけど、地下室の手記を光文社の新訳で買ってしまったし、次に読もうかと考えているカラマーゾフの兄弟も、やはり新訳にしようかとおもっているから、罪と罰も光文社で買いなおそうかとおもっている。

このあたりの作家は、作品すべてがつねに書店に在庫されているような傑作で、ほぼ全作品が文庫化されているからいいが、たとえば田山花袋みたいに、古く、なおかつあまり読まれていない作家だと、なかなか難しい。いままでは新潮文庫で読んできたが、このあいだ「一兵卒」を読みたいがために、すでに読んである「蒲団」の入った岩波文庫版を手に入れたところだ。泉鏡花もそんな感じ。このあたりは、読書あるあるというか、なやましいところである。

太宰治のばあいは新潮文庫で集めていた。漱石と同じで、どの作品も非常に有名であるから、読んでいなくても、批評などで内容に触れて知っていたりするから、そこそこシリーズが集まってくると、果たしてこれは持っているやつだろうか、それとも、もっていないけど内容を知っているだけのやつだろうか、みたいなことになった、意外と読んでないものが多かったりするのである。そういうわけで、勤務先が閉店する前にいっぱい本を買ったのだけど、内容を確認して、本書を手に入れたのであった。

いちばんの目当ては名高い「トカトントン」である。加藤典洋の『敗戦後論』でも触れられていたっけ。

 

 

 

短編集の内容としては、疎開先の青森から東京に戻ってきて、入水して亡くなるまでの、昭和21年から23年6月のあいだに書かれたものが集まっている。改めて書いてみて、太宰が戦後3年弱しか生きていなかったことにも驚きだが、ともかく晩年といっていい時期で、なかなか、暗いぶぶんがある。太宰治の作品は、ほとんどが作者とほぼ同一とみてよい人物が語り手となっている私小説的なものだが、それを大きな枠組みとしても、さらに、フィクションを書き上げる天才性が存分に発揮された作品と、うじうじ暗い、小説が書けないことやお金がないことなどをぐちぐち書くだけのものと、おおざっぱにいって2種類にわかれる、と僕がいままでとらえてきたし、まあ「おおざっぱに」と断る限りでは、それはまちがいではなく、本書はほぼ後者であった。しかし、やはりそれは「おおざっぱ」を出ないのである。太宰はほんとうに天才だった。しかしそれは、フィクションが外部から飛来して、じしんを媒体にして、作品として具現する、というタイプの天才ではなかった。そこにはつねに、わたくしというものの世界が関与しているのであり、それを無視してものごとをフィクショナイズすることは、少なくとも太宰ではなかった。そして、天才であるがゆえに、それをする際に行われる最低限の客観が、くりかえしくりかえし相対化されてしまう。ある出来事を、描くにあたって作者はそれを見る。ついで、作者は、それを見ているじぶんを見る。次の瞬間には、それを見ているわたしを見ているわたしを見ている。これが、書くなり事実と小説を遠く隔ててしまう。

太宰の伝記など読んだわけではないので、くわしいことはよくわからないが、晩年の太宰は、ひとことでいって「女遊び」のようなものをくりかえしていたようである。「遊び」というほど軽薄なものではなく、けっきょくはそこに死が持ち込まれ、彼は自殺することになるのだが、ともかく、太宰には一元的な視点というものがなかった、というかあるはずがなかったので、作品を通してみると、そこにまつわる一種の必然性とばからしさが、同居して、彼のなかにあったことがわかるのである。

 

 

本書では、ほとんどどの小説にも出てくる名詞がひとつある。それは、「二重廻し」である。必ず、語り手、あるいは語られているところの太宰的な人物は、「二重回し」を身につけて、気まずい空気から逃げるように、なけなしの金を持ち出して、家人を残し、そそくさと女のところに向かい、あるいは、ようやくもどってきたとおもったところで「二重回し」を脱いで、異様なテンションで家族に接したり、フランス革命のはなしをしてぽろぽろと泣き出したりするわけである。僕は「二重回し」がなにかわからなかったのでググったのだが、出てきた画像をみて笑ってしまった。見るからに「よく太宰が着てるやつ」なのである。

ともかく、本書収録の作品では、ほぼどの場合でも、人物はこれを脱いだり着たりしている。むろん、「二重回し」という衣服になにか比喩的な意味があるわけではない。そうではなく、これは要するに、ここにある作品がほとんど、人物が家から逃げたり、ようやく帰ってきたりということを描いたものだ、ということなのである。

たとえば「父」は、アブラハムが神にしたがって子のイサクを供犠にしようとした、そのすさまじい行為に義が見出されるように、おしろくもない「女遊び」にどうしてかわからなあいがはまり続けるじぶんのありように必然性を見ようとしている。ただ、うまくいえないが、それは、そうすることで、つまらない遊びに全財産をつぎ込む姿を正当化しようとしているとか、そういうことではないのだ。どこまでも、「ほとんど私小説」というありようであり、特にこの「父」は一種の必然性を見出そうとする内容でありながら、じっさいには作者と人物は非常に距離が遠く、ただ、むなしいだけなのである。

これに対応するものとしては、表題作の「ヴィヨンの妻」もあるが、それよりも「おさん」だろう。これはいってみれば、「父」などとは逆サイドの、二重回しをつけて出かけていく夫を見送る妻の小説である。太宰は女性の語りを非常に得意にした。若い子を書くときは、体言止めが多用されるので、それがけっこうむずがゆかったりもするが、この「おさん」などをみると、あれはあれで、若さを表現するテクニックだったのかな、などとおもうが、ともかく、おもえば、家族を苦しめ続けた彼が、ここまで丁寧に精密に、妻の立場を描けたということに、驚愕というか、ちょっと恐怖まで感じてしまうのである。太宰は、女に会いにいくじぶんを妻がどうおもっていたか、よくわかっていたし、苦しさも共有していた。おそろしいのは、「父」で描かれるように、それでも女のもとに出かけてしまうことに、じっさいには必然性、義が、まったく見出せないということなのである。

さらに、この「おさん」にかんしていえば、最後に夫は、じっさいの太宰同様、女と心中してしまう。何度か死ぬことに失敗している太宰なので、そうすることでなにが起きるかの想像は、ひとよりはやりやすかったとおもうが、この描写が、まるで死んでから書いたかのようなリアルタイム感なのである。

「父」と同じく、遺書においてこの夫は、死ぬのは恋のためではなくジャーナリズムのためだ、革命だなんだとひとをそそのかしながら、じぶんはいつもそこから逃げてきた、その自己嫌悪に堪えられない、ジャーナリストの醜聞をもって、現代の悪魔を赤面させる、などということが書かれている。それを受けて、妻はいう。

 

 

 

 

 

「などと、本当につまらない馬鹿げた事が、その手紙に書かれていました。男の人って、死ぬる際まで、こんなにもったい振って意義だの何だのにこだわり、見栄を張って嘘をついていなければならないのかしら」168頁

 

 

「気の持ち方を、軽くくるりと変えるのが真の革命で、それさえ出来たら、何のむずかしい問題もない筈です。自分の妻に対する気持ち一つ変える事が出来ず、革命の十字架もすさまじいと、三人の子供を連れて、夫の死骸を引取りに諏訪へ行く記者の中で、悲しみとか怒りとかいう思いよりも、呆れかえった馬鹿々々しさに身悶えしました」169頁

 

 

 

 

 

 

これが生前に、というのは当たり前なのだが、生きているあいだに書いているということに、ぞっとしてしまうのである。

 

 

その「ヴィヨンの妻」の夫は、本書に登場する太宰ふうの人物のなかでいちばんたちが悪いが、派生系としては「おさん」と同じと見ていいだろう。発表時期としては同じ年で、「ヴィヨンの妻」のほうが先のようだ。「ヴィヨン」とは、夫が書いていた論文「フランソワ・ヴィヨン」のことである。ご大層な哲学、文学、義、必然性、こういうものに対応する女のリアリズムである。「ヴィヨンの妻」のほうが、不穏さを含みながらもまだ気楽なぶぶんがあるのをおもえば、のちに書かれた「おさん」の視点もよりクリアになるというものである。

 

 

こういうことであるから、太宰を形容しようとして、デカダンとか虚無とかいうことばが出てくるのは自然ではあるのだが、「トカトントン」はさらに問題を複雑にする。

トカトントンは、最後のいちぶぶんを除いて、作者に届いた読者の手紙、つまり書簡体になっている。

手紙の語り手は、無条件降伏で戦争が終わり、玉音放送を聴いたあと、誰かが金槌をつかってなにかを叩くトカトントンという音を聴く。その瞬間、ぽたぽた涙をたらす中尉を見て生じた感傷、死のうという決意などがいっさい剥落し、波がひくように、無感動になってしまったのである。

以後、恋愛や仕事などで、少しでも情熱や感情がこもるようなことがあると、どこからともなく「トカトントン」が頭脳のなかに響いて、彼をいっしゅんにしてからっぽの虚無にしてしまうのである。

ここで重要なことは、「トカトントン」が合図になっているということだろうか。彼は、敗戦のときにはじめてその音を聴いたわけだが、その日を境に無感情でうつろな人間になってしまったというわけではないのである。ときには、ひとなみに情が働いて、なにかに熱中することもある。が、肝心なところで、この音が必ずやってくる。彼自身から、感情が奪われたわけではないのだ。

むろん、きっかけは敗戦である。このときの感傷からして、彼もそれなりに軍国青年だったのだろうとおもわれる。同時に死のうとすらおもったのだ。しかし、それらの感情をいっさい無効にするあの響きがやってきた。これは、ある情念に基づいた物語にひとが期待しようとしたときに、そんなことをしても無駄である、死のうとおもってじっさいに死んでしまう前に、からっぽになってしまえ、というような、ある種の自制の機能ではないかとおもわれる。敗戦という、圧倒的、また絶対的な裏切りを通し、生命体として、彼は「国」や「恋愛」や「仕事」などの物語に期待することをいっさいやめてしまったのである。おそらく重要なのは、それが、「その日を境に」ではないということだ。人間の情念は、生命体としての肉体がそれを停止せよと命じても、それが展開する物語の広場を探し出してしまう。だから、そのたびごとに「トカトントン」がやってきて、漂白してしまうのだ。

情念は、それがのびのびと活動できる場を求め、物語をつくりだす。しかし、敗戦を経験した肉体は、それは無意味であるとそのたびごとの「トカトントン」をくりだす。このときに、情念と肉体は別個の原理に属するものとして働いている。ひとりの人間のなかで起こりうるこのねじれは、トカトントンで修正され、一時的に無効にはなっていた。だが、では、社会全体、というと広すぎるから、夫婦ということになるとどうだろう。義や、革命や、愛や、文学や哲学や、そういう「物語」を求める情念が夫に集約されているとして、それを、リアリストとして抑制するのが妻だとしたら、どうだろう。肝心なことは、物語を求める夫じしんにも、虚無があるということだ。彼は、そう志向しつつ、どこかでは、それが無意味であると、トカトントンなしで悟っている。これがおそらく、彼の観点において、妻に付託される。妻は、たいがい、時代もあって、露骨なことはいわない。だから、作家は、小説において、きわめて精密な妻の視点を構築したのである。

 

 

この手紙を受けて、最後に作者は、少しだけ返事をする。それは「気取った苦悩」だと。あなたは失敗をおそれ、醜態を避けているのだと、作者は分析する。たしかに、みずからの醜態を描ききった、というより、みずから醜態を捏造し続けた太宰からすれば、気取っているのかもしれない。しかし、僕にはそれは、作家が作家としての信念をまっとうできた、というふうには受け取れない。本書収録の短篇がそのことを語っている。そこには、なにか言い知れぬ必然性のようなものがある。同時にそれは馬鹿馬鹿しいものである。無意味なものであることも、トカトントンを聞くまでもなく、作家は理解している。だから、「二重回し」をつけて出かける彼は、疲れきっている。こう読むと、「トカトントン」の最後の一節は、ある種の決意表明、みずからを鼓舞するための文章であるように見える。必然性といっても、その正体は、誰にもわからない。夫じしんは、ただそこにそれらしい理屈を、つまりそれこそ必然性を見出そうとしているだけで、ということは、そこにすぐわかる必然性はないのだ。そして奇怪なことに彼()が出かけていくさきにある女がらみの出来事は、少しも楽しかったり心安らかだったりはしないのである。これが、「トカトントン」の決意表明を思い出させる。敗戦以降、トカトントンの響き以降、まともな物語は存在不可能になった。もしそれが存在するとすれば、その先が期待できない、「トカトントン」の警告の向こう側なのである。そこには、失望や、へたすると死に向かう絶望が待っている。しかし、そこを志向しなければ、もはや「国」も「恋愛」も「仕事」も、生を秩序づけるいっさいの物語が存在できなくなるのである。物語が無効になったから、彼らはデカダンスに陥ったのではない。トカトントンの警告の先にあるものを見出すために、彼らはそうしなければならなかったのである。

 

 

 


 


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