■『どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ』加藤典洋 岩波ブックレット
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どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。――幕末・戦後・現在 (岩波ブックレット)
626円
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「犬も歩けば、棒にあたる――一度何もかもを手放し、徒手空拳の犬になる。すると、何かにぶつかる。コツンと乾いた音がして周囲が一瞬明るくなり、そこから次の展開が生まれてくる。それが「開かれたかたちで、考える」ということの指標だ。幕末から戦後、そして現在を貫いて、紋切り型の「正しさ」を内側から覆す、新しい思考の流儀」Amazon商品説明より
最近読んだものだと『戦後的思考』が圧倒的だった加藤典洋だが、関連するものとして、比較的新しい『戦後入門』というものも読んでいる。これは、まだ10分の1くらいしか読んでないけど、とりあえずそれまでのところ、『戦後的思考』が批評や哲学のはなし満載だったのに比べるとまだ事実関係の確認という段階で、前のようにすらすらわくわくというわけにはちょっといかない。いま読んでいるものだとロックの『統治二論』が大物で、最初は論理的語り口が心地よく、論敵(フィルマー)をぼこぼこにしていくさまが爽快ですらあったが、このひと一行ごとに批判を加えてるんじゃないかというほど、ほんとうにしつこくて(それだけ当時はフィルマーの王権神授説が強力だったということかもしれない)、すぐ疲れてしまう。フィルマー批判が終わって、ようやく、いわゆる市民政府論にあたる第2部に入ったところだが、まだまだかかりそうである。そのほか、タイミング的に大型の本ばかり手をつけてしまっていて、ちっとも前に進んでいる感じがしない。こういうところで、加藤典洋がうすいパンフレットみたいな判型の岩波ブックレットから新刊を出していることを知り、リフレッシュのためもあって購入したしだいである。
本書は、定期的に行われているらしい信州岩波講座で行われた講演を加筆したもので、どのような聴衆なのかわからないから一概にはいえないが、これまでの著書と比べるとずいぶん平易な内容である。いや、加藤典洋にかんしては、あとでふりかえってみると、けっきょくのひとつのことしかいっていないのかもしれない、というようなことはけっこうある。そこに、文学的強度、哲学的強度を加えて、納得のいくものに仕上げるために、いつもあれほどの文章と論理過程を必要としているだけなのかもしれない。
表題は、養老孟司との対談で宮崎駿がくちにしたことをちょっと変えたものだ。10歳くらいの子どもを見ていて、この子たちにじぶんはなにを語れるだろう、最後には正義が勝つなんてことは語りたくない、そういうところで、「とにかくどんなことが起こっても、これだけはぼくは本当だと思う、ということ」を描こうと決意し、『千と千尋と神隠し』をつくった、というおはなしである。この手の言説は、通常、哲学の文脈で、しかも否定的に語られるものである。どんな場合も価値が一定である事物、いわゆる真善美を、近代の哲学は措定できないものと考えてきたからである。難しいことをいわなくても、誰にとっても美しいと考えられる音楽とか、誰が見ても美人である女優とか、そういうものを想像することはわたしたちにはもうできない。だが、本書はそういう本ではない。そういうレベルのはなしに踏み込むこともない。ここでいっていることは、あなたが、「これだけは本当」とおもわれるもののことなのである。それが普遍性を帯びるかどうかということは、ここでは問題ではない。「これだけは本当」ということは、わたしとあなたで異なっているはずである。しかし、批評のダイナミズムとでもいうか、そのことが直面することで起こるはずのことは、普遍性を帯びる、とでもいえばいいだろうか。
ある大きな出来事に直面して、価値観のことごとくが剥ぎ取られて心細いおもいをしているとき、これだけはまちがいない、これだけは動くことがない、とおもわれる感情がある。これを、まずは吉本隆明を通じて描いていく。吉本隆明は、その私的な感情を「文学的発想」と呼ぶ。『戦後的思考』でもくわしく分析されていたが、吉本隆明には、終戦をさかいにした転向経験がある。素朴な軍国青年だった吉本隆明は、敗戦を経て、じぶんの信じていたもの、価値観、信念は、すべてどうしようもない嘘っぱち、虚像だったと痛感し、以後外部との「関係」を重視するようになる。このとき、軍国青年時代の「文学的発想」を、吉本隆明は否定することになった。ここに、加藤典洋は、そうではないのではないかと、じしんの批評家という立場も含めて、立論していくことになった。ここではさらっと語られるだけだが、ここで吉本隆明は、以前の文学的発想をなかったことにして、封印して、「関係」の思弁を開始するが、それは、そもそも、まず「文学的発想」による失敗があってこそのものではないだろうか。おもえば『戦後的思考』が描いた「戦後的思考」は、ヘーゲルの敗者の弁証法を用いて、敗北したことそのものが見せる景色こそを足場にして、これまでに存在したことのなかった思考を生むもののことだったのであり、これこそが、加藤典洋に一貫している思想なのだととらえてもよいかもしれない。
改憲・護憲論を含めて、加藤典洋はこれを「二階建て構造」と、わかりやすく図示する。つきつめれば、ひとは誰でも「死にたくない」。ひどい戦争経験は、ひとびとに、なにがなんでも生きたい、たとえそれが不正義であったとしても、という「これだけは本当」な実感を呼んだ。戦争、そして敗戦という大きな壁にぶつかることで、この実感が呼び起こされるのである。そうして、九条に代表される平和憲法が成立する。戦前の皇国思想には、この1階部分にあたる、壁にぶちあたって呼び起こされる原始的な実感というものが欠けていた。だから、ある種の非合理が、国内最優秀のものが集まっていたとおもわれる軍部においてまかりとおり、ほとんど空語のような八紘一宇だとか国体だとかいう漢語が、カセット効果をともなって、有意であるかのように語られたのである。
いっぽう、現状の憲法論には1階部分が存在している。敗戦を経験したわたしたちは、もう戦争はいやだ、うんざりだという「これだけは本当」な実感を抱えているのであり、それが、2階部分の憲法のありかたを支えることになる。加藤典洋が真にスリリングなのはここからである。短さのわりにくわしく分析されているが、現政権によって、九条はほぼ骨抜きにされてしまった。しかしそれは、たんに現政権のなりふりかまわぬ行動が実現したものなのではなく、より本質的なことなのである。現政権は、それでも高い支持率を維持し、批判があってもそれ以上のことは起こらない。ここには、根本的な、政治への無関心、無力感があると。
「・・・この流れを戦後全体として見るとき、これらの社会の構造の変質の根源として、日本が戦後、サンフランシスコ講和条約の締結以降も、本来の意味での独立国としての再出発をとげることができず、いわば他国の従属国的な境遇に甘んじてきたという事実のあることを、認めないわけにはいきません」55頁
黒船の際、侵略されつつある国家をときの政府が守り、治外法権を撤廃したように、また、終戦後、オーストリアがそうしたように、どんなに困難でも、最終的な目標を独立として、その達成を目指した行動が興るべきだった。しかしそうはならなかった。このことが「悔恨」となって現在の保守政治家に回帰し、その裏返しとして戦前を求めさせる、という分析には驚嘆した。なぜ、歴史の教科書が明治のあたりで終わってしまい、戦前のことが書かれないか、また、なぜ事実どおりの記述が「自虐」とされるのか、このあたりにも、その「悔恨」があるのである。
ともかく、このときの「なにもしなかった」ことが、現在にまでおよぶ政治への距離感につながっていると、おそらく考えられる。しかしそうもいっていられない。「戦争はいやだ」からである。九条は破られたのであり、これを敗北として受け止め、1階部分の「戦争はいやだ」にもどって、このうえでなにが必要かを考えるべきなのだと、このようにいうのである。ひとことでいえば、現在の日本の文脈で、戦争のはなしをしようとすると、必然的に護憲改憲というはなしになる。九条を経由せずに「日本の戦争」について語ることは、ほとんどできなくなっているのである。戦争反対という文句と護憲はほぼセットなのであって、「戦争反対」だけが単独で成り立つ文脈というものが、日本にはないのだ。加藤典洋は、いったん九条からは離れ、その「戦争はいやだ」の感性をもとにして、冷静に、具体的に、平和を探ることが、ここまではなしがすすんだ状況では必要であると、こういっているのである。九条が骨抜きにされてしまったところで、無効となった九条を忘れようとすると、現状の日本では、それは平和とは反対の立場になる。だが、げんに九条は、少なくとも表面上は正式な手続きをとって「骨抜き」にされたのであり、また世論のうえでも、それを実行した政党は圧倒的不支持という状況にはなっていないのである。
「これだけは本当」なものを1階にして支えられた社会は、それなりの強度をもっているはずだ。それは、その結果建築された2階部分の九条がもたらした70年の平和が示すだろう。だが、時代の経過とともに、いまそれはなくなってしまった(も同然になった)。そのことを、一種のトラウマとして、わたしたちは3階をつくろうとするのだろうか。トラウマは、こころのなかに空洞をつくりだす。忘れたい、痛みをともなう記憶は、奥底に封印はされるものの、ときどきもどってきて、病徴となってあらわれる。九条を失うことの素朴な恐怖感から考えても、これがこうしたトラウマになる可能性はあるだろう。いやな記憶は、思い出したくないから、記憶から抹消されて、わたしたちの思考は、それなしで済むような新しい構造になりかわってしまうのだ。もし、九条の喪失を直視せず、3階部分をつくるようなことをすれば、社会は空洞の2階部分を抱えた、危なっかしい建築物になってしまうにちがいないのである。
加藤典洋では、そうではない。わたしたちの社会を堅固にするのは、いつでも、1階部分の「譲れないもの」なのであり、新たに2階部分を必要とするのであれば、わたしたちはまず下の階にもどって、そのうえで道を探っていくべきなのである。
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