第461話/ウシジマくん47
高そうなスポーツカーからギャングスタラップのジャケットみたいな感じで獅子谷甲児がおりてくる。柄崎を迎えに来た丑嶋が呼ばれた、キャバクラにする予定のビルである。いっしょにいるのは那奈という、甲児といっしょに朝を迎えていた女で、店をしきるのは彼女みたいだ。
中はまだあのときのままだが、すぐに職人が入って作り始める感じだ。那奈は気合入っているが、甲児はあまり気張らず7割でやれという。
そこへ丑嶋と柄崎がやってくる。ちょっと前に、那奈がスマホを落としたとき、ものを落とすということに異様に反応した甲児が、それを捨てろと言い出したことがあった。しかしそのスマホケースはメルカリかなんかで手に入れた高いやつらしくて、それを甲児は丑嶋に買いに行かせたのである。甲児は丑嶋を「スマホケース配達員」と呼ぶのだけど、金もやっぱり丑嶋が払ってるのかな・・・。30万とかいってたような気がするんだけど。
しかしそれは那奈が求めていたものではなかった。たぶんブランドは合ってるんだけど(LVではなくRB)、なにかとコラボしたものだったらしい。期間限定ショップにあるから並んで買ってきてと、甲児がいるとはいえ那奈もなかなかツワモノである。
じゃあこれはいらない、明日朝から並んで買って来いと、甲児は徹底的に丑嶋をパシる。それから、カウカウの客にいるキャバ嬢の顔写真を全部送れともいう。従業員として使うつもりなのだろう。あまり運営にカウカウ要素をいれないほうがいいとおもうぞ甲児よ・・・。
その最後に、ついでという感じで、甲児が今月の給料をふたりに放って寄越す。輪ゴムでたばねた数万だ。丑嶋が黙って拾う、それを、柄崎が見ている。丑嶋が柄崎のほうを見ずにそれを手渡す。
丑嶋が心底でなにを考えているかは相変わらずわからない。予定が狂ったからふたりで手分けして残りの取立てを片付けるぞと、ふつうに話しているが、柄崎はじっと丑嶋を見ている。そして、このままでいいんすかと切り込む。丑嶋はなんともいわない。と、感情的になった柄崎が、カウカウ設立前のあの調子で、タメ口になって、「なんとか言えよ!丑嶋ァ!!」と怒鳴る。
「このままやられっ放しでいいのかよ!?
こんなんだったら俺らもどっかの組織にゲソつけてヤクザになったほうがマシじゃねーか!?」
丑嶋がすごい表情で柄崎をにらむ。が、どこか、怒っているというより傷ついている感じがある。ともかく、やはりなにもいわない。それをみて、我をとりもどした柄崎が、でしゃばりすぎましたと謝るのだった。
ひとりになった丑嶋が、見覚えのある埠頭でごはんを食べながら独り言をいっている。42巻を見て確認したら、ここは10年前の回想で竹本とお別れしたところである。
丑嶋は死んだ加納の写真を見ていた。田舎に帰した加納の奥さん・麻里に、丑嶋はずっと仕送りをしていたらしい。それを、ふたりの子どもが成人するまで続けるつもりだったが、できそうもないと、こんなふうに独り言をいっているのだ。
そんな丑嶋が呼び出したのは、戌亥なのだった。
つづく。
いつものように戌亥は大量の駄菓子を用意して地面に広げている。どのお菓子もふたつずつあるようで、表情もやわらかく、戌亥は「いつもどおり」を演出しようと努めている。しかし、いまの状況を戌亥が知らないわけはない。
柄崎が丑嶋に敬語以外のことばをつかったのは10年ぶりだろう。回想を通しても、けっきょく柄崎たちがどうして敬語を使うようになったのかは明かされなかった。だから想像するしかないのだが、おそらくそれは、たぶん柄崎たちから自主的にしたことなのではないかとおもわれる。カウカウは、同級生の三人で設立された。受付の小百合も創業当初からいるようだが、これは竹本優希のお墨付きで、いってみれば竹本のかわりである。これが、特に丑嶋にとってはポイントだった。丑嶋がヤクザを嫌う理由はいろいろあるとおもうが、ここでは父子の関係性を拒んでいることを重視してきた。丑嶋にとって、父とは奪うものである。ここでいう「父」というものに向かう丑嶋のまなざしは、滑皮が熊倉を見るときのものと同型である。げんに「父」にそういう機能があるとかないとか、それはどうでもいい。ともかく、そこにはくつがえすことのできない上下関係があって、下のものは上のものに搾取される。これは同時に、その下のものが、さらに下のものを搾取することも意味している。ひとが、奪う側と奪われる側にわかれるなら、じぶんは奪う側に立つ、というのは作中でももっとも初めのほうで描かれたポリシーのひとつだが、これは中年会社員くんでの、なぜこんな仕事しているのかという加茂の問いへの「食うため」というこたえに進化していた。これはもちろん、ひととして食べていくため、ということでもあるが、同時に、食う側でいるため、という意味でもあった。しかし、食う/食われるという規則が流れている世界で、一貫して「食う側」でいることは難しい。ライオンだって、死んだら土になって虫や植物に食われるのだ。範馬勇次郎だっていつかは老いて死ぬ。つねに、絶対的に「食う側」でいることは、彼が「食う」という選択をしている以上、不可能なのである。もし彼が食う/食われるという構造に無関心で、食うこともなく生きていくことができるなら、その人物は食われないでいることも可能だろう。しかし彼は同時に食うこともないのだ。
だから、「食う側」でいるということは、実のところ「食われないでいる」ということにほかならなかった。これがカウカウのスタイルを導く。まず、社内に搾取の関係性を持ち込まない。そうすることで、カウカウはひとつの生き物のようになる。そして、そのカウカウがなにをするかというと、お金を貸すのである。たとえば本屋だと、本を読むことや書くことに人生を賭けているひとはいるとおもうが、しかし、それがなくなって、いきなり息絶えるというひとはいない。しかし、ごく微量でもお金に関心があるひとは、お金からの拘束から逃れることができない。金がすべてではないが、すべてに金が必要なのであり、仙人みたいな生活をしているものや、竹本みたいな人物を別にすれば、「金は力そのもの」なのである。これはヤクザのような対暴力にかんしてもかわらない。丑嶋からすればこの世の最小単位は金である。欲望も、それがさせる行動も、すべて金に換算することができる。だから、あの、なにもかもお見通しの超人的なありようは成り立っていた。そんな丑嶋だから、シシック崩壊を間接的に手伝い、鼓舞羅を使って鬱陶しい熊倉を半殺しにすることなど、べつになんでもないことなのである。しかし問題は、それが、それぞれ獅子谷甲児と滑皮秀信という、よりやっかいな人物を生み出してもいるということなのだが。
こうしたわけでカウカウは同級生だけで構成されていたが、しかし、そうはいっても、彼らはそれぞれ別の人間である。丑嶋が三人いるわけではない。こうしたところで、指示系統を明確にするために、また、柄崎の側からの丑嶋への敬意も含めて、彼らふたりのほうから自主的に敬語を使うようになっていったのではないかとおもわれるのである。カウカウの取立てが滞りなく運ぶことには、丑嶋の伝説的強さも大きい。会社としても丑嶋を立てることで得られる利益は大きいのである。
そんな柄崎の夢は、無敵の社長をフォローする「最強の柄崎」になることだった。柄崎があのときいっていたことは、要するに、社長を守る「最強の柄崎」になることで、社長の無二性に少しでもあずかることができるのではないか、ということだったと考えられる。柄崎という名字のものはたくさんいて、しかもじぶん程度のものもたくさんいる。しかし社長みたいなスーパーマンはひとりもいない。だから、じぶんは柄崎界最強になって、社長を守るという行為を通じて、唯一無二の存在を守る唯一無二の存在になりたいのだと。こういう動機だから、柄崎の行動にかんしては、けっこう人間的なエゴが感じられることが多い。ハブのアジトに向かうとき、丑嶋は、社長として、柄崎に来るなと命令した。カウカウの社員であることを貫徹するなら、そしてそれが丑嶋への敬意の表現となるのであれば、柄崎は来てはならなかったはずである。しかしやってきた。結果としてそれは丑嶋の命を救うことになったのだが、いちおう原理としてはそうなる。また、じぶんが甲児につかまって、丑嶋があたまを下げそうになっていたときも、社長だけは誰にも頭を下げないでくれといってこれを止めていた。柄崎にとって社長がそういうスーパーマンだから、頼むからそれを維持してくれといっているのである。これもまた柄崎のわがままである。だが、人間的な感情だといえばそうだ。誰だって、尊敬している人間のかっこわるいところなんて見たくないのである。
このようにして、柄崎の人格は、社長に敬意を払うことで成り立っている。社長がスーパーマンで、それを尊敬し、補助することで、柄崎の自我は規定されてきたのであり、それが「最強の柄崎」にまでなれば、自尊心にもなっていくだろう。こういう生き方を決定したのが、柄崎にとっては三蔵の一件だった。そこからカウカウ成立までは時間がかかり、その間、柄崎は別に敬語になってはいないが、その仕組みの祖形はすでにできていた、少なくとも現在の地点から記憶を捏造する程度には、いまの柄崎にとってそういうストーリーが確固として成り立っているのである。だから、丑嶋が地面に落とされた金を拾い、そうしたことになにもいわずしたがっている状況は、「三蔵以降」の柄崎を強く揺さぶることになる。現在の状況が、今後をみすえた計画的なものであるとかいうことなら、柄崎も納得がいく。しかし丑嶋はひとことも語らない。ひとことも語らないことはこれまでもあったが、柄崎がここでこういう態度に出たことは、あるいは丑嶋にも手がないことを遡行的に示すものであるかもしれない。社長が超人でなくなることは、そのまま、現在の柄崎の崩壊につながる。これを、別の柄崎、あるかないかの、カウカウ外のところにいる柄崎がつかまえて、文句をつける。社長を通じて自己規定を図る柄崎は、ある意味で仕事人間である。人生のすべてが仕事に、ということは丑嶋によって決定されており、こうしたことを告げてくる外部の柄崎というものは、だいぶ抑圧されてきたはずだ。そんなものは必要なかったからである。これが今回こうして呼び出されたことには、やはり柄崎も、いまの状況を覆す手はおそらくないのだということを悟っているということを示すだろう。
だが、柄崎のいうことにも一理ある。ヤクザが嫌い、奪われたくない、だから友人だけで闇金やると、こういう理屈はわかる。しかし高田と小百合が人質にとられているような状況で、圧倒的物量の獅子谷と滑皮を前にして、できることは限られる。そして、現在、彼らは奪われる側になっている。だったらもうヤクザになっちゃえばいいじゃないか、そうすれば、少なくとも獅子谷からの不当なあつかいからは解放されるのではないかと、柄崎でなくてもおもう。しかし、丑嶋はそうしない。というかたぶん、できない。もし丑嶋がヤクザになったら、奪われる構造に組み込まれる、それだけが問題なのではない。それは完全な屈服を意味するのである。ヤクザが嫌いなものが、滑皮のカリスマに感服して、転向し、ヤクザになる、そういう流れならよい。甲児はげんにそういう流れを踏んで、特に立ち位置を変えることなく、最強の半グレとして生きている。逆にいえばなぜ甲児がヤクザでないのかということになるが、そのあたりは滑皮の考えもあるかもしれない。要するに、ヤクザだとやりにくいことが、半グレだとさくさくできちゃうということがあるのである。しかし丑嶋はそうではない。膝を折ったのもやむを得ずだ。じぶんのありかたを決定しているものを信念と呼ぶとして、丑嶋はそれを曲げることができないのである。
なぜそこまで彼がじぶんの信念、ありかたにこだわるのか。ここにはおそらく竹本優希が関係している。今回、丑嶋が加納のことで独り言をいっているのは、回想で竹本とお別れしたところである。ヤミ金くん篇で、丑嶋は、親友である竹本を地獄送りにした。幼馴染であっても関係ない、他のものと同じように取り立てる。その竹本も、じぶんの信念を曲げることなく、甲本たちをかばって、すべての負債を背負って、地獄に行くことになった。そのとき、丑嶋はこういうふうに考えている。
(竹本・・・
お前は極端過ぎる。
行き着く所に行くしかねェ。
俺も極端だ。
お互い生き方は変えられねェンだ。
お前を地獄に送ったコトを後悔してねェ・・・)
そうして、丑嶋は顔を覆い、おそらく泣いている。彼らは、互いにおもうところ、ここでいう信念をまっとうしただけである。丑嶋は、万物を金でとらえている。そういう視覚であるということではなく、そういうメガネをかけているのだ。そうすることで、なにもかも見ることができる。それを貫こうとしたら、親友だからといって竹本に甘くすることはできない。同じように、竹本もじぶんの考えを変えない。そのかたくなさという点で、ふたりは非常に似ているのだ。だから丑嶋は泣いた。丑嶋は、ただ丑嶋であることをまっとうしただけである。その意味では後悔はない。しかし、丑嶋にはわかるのだ。竹本がなぜ考えを変えないかが、手に取るようにわかるのである。そのシンパシー、また宿命が、彼に涙を流させたのだ。
ここで重要なことは、極端であることをまっとうした結果、同様に極端であった竹本を、丑嶋は地獄送りにしたということである。結論をいってしまえばこうだ。もしいま、かたちだけでも滑皮に屈服して、考えを変えるのであれば、竹本を地獄送りにするかどうかという局面で考えを変えてもよかったのではないか、ということなのである。
同じように「極端」である竹本を、丑嶋は地獄送りにした。竹本へのもともとのシンパシーからか、丑嶋にもたぶん、彼が考えを曲げないであろうことはわかっていただろう。もし竹本がそこでじゃあお金返しますというふうになるようであったら、たぶん彼らは親友になっていない。だから、丑嶋にとっても竹本との議論というか説得は、かなり真剣なものとなった。いってみれば竹本は彼の半身だからである。しかし、それがどういう結末になるかは、たぶん丑嶋にも最初から見えていただろう。竹本はゆずらない。じぶんがゆずらないように、考えを曲げない。竹本が地獄に行ったということは、これらの経緯をそのまま含んでいる。丑嶋が丑嶋で居続けるということには、竹本の、もしかすると死が、深く関わっているのである。
もちろん、ひとくちに「考え」とか「ありよう」とかいっても、竹本のときといま問題にしていることでは角度が異なる。竹本のときは、金を経由した場合、ひととひとの間に差異はない、ということだった。同じ額を貸しているなら、相手が竹本でも甲本でも等価である、こういうことを示すのが、万物を金に換算するというスタンスで居続けるためには必要だったのである。現在の丑嶋が躊躇しているのは、ヤクザへの完全な屈服だ。だから、両者は異なった「考え」に見える。しかし、そうではない。42巻収録の竹本とのお別れの場面の会話で、なぜ人に恨まれてまで闇金をするのかと、直球で聞いてくる竹本に、丑嶋は端的に「金は力そのものだからだ」とこたえている。たぶん、今回の丑嶋はこのときのことを思い出している。この発想が、すべての根底にある。彼は金融なので、金そのものの量というより、その手綱を握ることを選んだわけだが、そうしてなにもかも金に読み換えるありようを選択したことで、じっさい丑嶋は超人でいることができた。そして、これを貫徹するために、彼は竹本も負債者として地獄送りにすることになったのだ。しかし、ヤクザの前に膝をつく彼は、果たしていまでも「金は力そのもの」といえるだろうか。おそらくこのことばが、いまの丑嶋のあたまのなかでは反響している。その原理にしたがって、彼は竹本を葬った。しかし、いま彼はヤクザの力によって屈しつつある。丑嶋は、竹本の「極端さ」を、じしんのものと同型とみて敬意を払っているはずである。だからこそ、じしんの哲学にしたがってこれを葬る。だが、ヤクザに屈服するということは、これがまちがっていたと認めることにほかならない。ではそうなると、あのときの竹本はどうなるのか。なんのために地獄に行ったのか。こうしたわけで、丑嶋は、もはや意味もないとおもわれることにこだわるのである。
そして、この場面で丑嶋は、加納の奥さんに仕送りができなくなるといっている。稼ぎのほとんどを甲児がもっていっているので、余裕がないということかとおもわれるが、同時に、なにか不吉なものも感じられる。ヤクザに屈服するという身振りをとらずに、現在の状況から逃れることは、可能なのだ。
甲児は相変わらず丑嶋いじめに熱心だ。たんに金をもってこさせるだけなら、ここまで粘着的にいじめることもないだろう。やはりここには対抗心のようなものが見て取れる。金は重要ではない。丑嶋をパシりのようにあつかい、金を拾わせる、そのやりとりのほうが、甲児にはずっと重要なのだ。
次回はえびす顔の戌亥が描かれる。柄崎も竹本も戌亥も、みんな丑嶋の親友といっていいとおもうが、全員まったくちがう性質の人物でおもしろい。なかでいちばん丑嶋に似ていたのが、いまみたように竹本である。戌亥は、このなかではもっともなに考えてるのかわからない男だ。10年も前から、戌亥の背後には滑皮がいた。それに丑嶋が全然気づかないということもないとおもうが、そうなったのは、滑皮が強者だったからである。しかし、では丑嶋はどうでもよいのかというと、そうともおもえない。戌亥は戌亥で、しきりにサインを送ってきたのだ。戌亥が腹を割って丑嶋と話す日はくるのだろうか。
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