『社会契約論/ジュネーヴ草稿』ルソー | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『社会契約論/ジュネーヴ草稿』ジャン=ジャック・ルソー著/中山元訳 光文社古典新訳文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「ぼくたちはルソーの語る意味での主権者なのだろうか、それともルソーが嘲笑したように、選挙のあいだだけ自由になり、そのあとは唯々諾々として鎖につながれている奴隷のような国民なのだろうか」(訳者あとがき)。世界史を動かした歴史的著作の画期的新訳」Amazon商品説明より

 

 

 

 

 

 

ようやく・・・ようやくルソーの社会契約論を読み終えた。『人間不平等起源論』から『言語起源論』まではぽんぽんと読めて、東浩紀などを通じて難しいという認識ではいたが、そのぶん内容については見聞きしていたわけで、するっと読めるかと思いきや・・・。いっとき紛失していて行方不明だったのもあるけど、『言語起源論』が去年の2月だったから、やっぱり1年くらいかかっちゃったかな。ロックとかモンテスキューとか法学の古典をひととおり読み終えるまで何年くらいかかるんだろ・・・。

 

 

いつものように、僕は何冊もの本と並行してこれを読んできたのだが、不思議なことに、そのなかのいくつかでもルソーにかんする記述が見えて、結果的にはそれらを副読本のようにして読解していくことにもなっていった。ほんとうに、どの本を読んでいても、ルソーが出てくるのである。筋トレを真剣にはじめてしばらくたったころ、仕事で男性誌女性誌ともに見ていて、世間でもなにか筋トレが流行りだしていると感じたことがあった。じっさい、現在の日本の芸能人かなんかの、現役で流行を作っているような、20代から40代くらいのひとたちのあいだでは、たしかに筋トレが流行っているようである。というのは、30くらいになると、男も女も体力づくりや審美的な面で身体の彫琢を意識しはじめるようになるからである。ただ、これはおそらく、それと同時に、ぼくじしんのなかでの変化もかんけいしていた。要するに、僕のなかで「筋トレ」にかんする興味のボリュームが増していたので、人ごみでたやすく知り合いの顔を見つけるみたいに、膨大な情報のなかから筋トレに関する要素を自然にくみ出すようになっていたのである。それと同じで、いまこうしてたくさんの本を読んでいて、「なんだかやたらルソーについての言及が多いな」と感じることにかんしては、意味を見出すべきではないのかもしれない。つまり、たんじゅんにいえばそれは、現況からルソーの再読がさかんに行われているという事実がたしかにあって、その手の研究やそこから派生した議論が活発に行われているということなのかもしれないが、同時に、ただたんに僕がルソーに熱心になっているから、これまでもあったにちがいないルソー的要素を僕の無意識が拾っているだけなのかもしれないのだ。

それはたとえば、去年の終わりごろ読んだ、フランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎付ける』であるし、これは文庫化にあたった再読ということになるが、僕の哲学の分野における師匠である竹田青嗣の『哲学は資本主義を変えられるか』冒頭部分であるが、併読していていちばん心強かったのは、ルソーと同じく1年以上かけて読み続けている加藤典洋の『戦後的思考』である。文学、哲学、政治学、法学問わず、ありとあらゆる知性に及んで果てしなく思考が広がっていく、おそろしく壮大で刺激的な論文なのだけど、ちょうど、紛失していた社会契約論を発見して再び読み始めたころに読んでいたのが、ルソーについて考察しているところだったのである。光文社の新訳である『社会契約論』じたいにも、翻訳者である中山元の、いつものように非常にわかりやすい解説もついている。というわけで、なんだか知らないが今年はずっとルソー漬けの日々が続いているのであった。(ところで、この中山元というひとは、光文社ではフロイトとかマルクス、カント、ニーチェの翻訳をされてきたかたなので、てっきりドイツ語専門なのかとおもっていたが、フランス語もできるようである。それとも、専門ということではないが、なにしろわかりやすいから人気があるとかで、出版社的な依頼で行うことになったのだろうか・・・)

 

 

 

本書には「社会契約論」と、その初稿である「ジュネーヴ草稿」が収められている。ふたつの論文はよく似ているが、互いに補完しあっているようなところもあって、やはり両方読んだほうがよいだろう。正直にいうと、『人間不平等起源論』なんかは、学んでいるという意識よりたんに知的にスリリングであるという感想が強くて、おもしろかったのだが、「社会契約論」にはなぜだかその感じがあまりない。内容としては、『人間不平等起源論』などで想定された理想の国家が可能なものであるということを示すための論文ということになるのだが、なにか緊張が感じられるというか、推敲しすぎた文章を読んでいるような、こちらを疲労させるこわばりが感じられるのであった。というのは言い訳だが、そういうわけで読むのに異様に時間がかかってしまったのである。そのいっぽうでジュネーヴ草稿にはまだ余裕というか思考の飛躍が感じられて、もう少し読みやすい。

本書でもっとも重要なことといえばやはり一般意志である。おもえば、そもそもルソーを読み始めたのは憲法について学んでいたからで、一般意志のなんたるかを直接知りたかったからだった。とりあえずルソーじしんの発言としては、僕はたぶん本書ではじめて触れることとなった。『人間不平等起源論』でも触れられていたとおもうが、大きく取り上げて詳細に議論しているのを読むのはおそらくはじめてである。一般意志とは要するに「全体の意志」のことなわけだが、やはりここは非常に難解な箇所で、また誤解を招きやすい箇所で、解説の中山元と加藤典洋の文章には何度も助けられた。

 

 

 

一般意志と反対にあるのが特殊意志、あるいは個別意志だ。人間にはまず、欲望、加藤典洋の言い方でいえば私利私欲があって、それに基づいて行動することになる。法のない自然状態の世界では、この特殊意志が跋扈することになり、ホッブズでは普遍闘争に陥ることになる。じぶんのわがままを押し通すためにはたたかうほかないのであり、またそうでなくてもたたかいを挑まれることになるのだから、そうなるのだ。この自然状態がいかなるものになるかということは、ホッブズとルソーでは異なっている。ルソーにおいては、法以前の世界に住む人間には「憐れみの情」と呼ばれる機能が備わっているとされる。いってみれば、ひとの痛みがわかる感覚だ。だから、法がなくても闘争状態にはならない。この自然状態というのは、フロイトの原父殺害説みたいなもので、提唱している本人はそういうものをじっさいにあったことと想定しているようなところがあるが、すんなり理解できない場合は、「そうでなければ現状は考えられない」くらいの遡及的なものととらえるといいだろう。ホッブズなどでは特に、自然状態をひどいものだとすることによって、法の重要性を訴えかけるというような目的もあっただろうから、そういう意図も考慮にいれつつ、論理的にさかのぼっていけばそう考えられる、というようなこととしてみてみたほうがいいだろう。

ホッブズでは直接的に普遍闘争を回避するために法が必要になるが、ルソーのばあいはもう少し複雑で、たとえば所有の概念が発生することで、憐れみの情を超越したところで法が必要になってくる。この法、社会契約がいかなる仕組みで成り立つべきかというようなことを、ルソーはずっと考え続けてきたわけである。

そしてその根幹をなすのが一般意志だ。一般意志は、国家をひとりの人間だと仮定したときの特殊意志のことである。特殊意志とは、要するに、個々人が、おのおのの感性や価値観でもってこうしたいああしたいと考えることで、一般意志のことを考えに入れるとき、わたしたちはある意味次元をひとつ繰り上げて、公共的な意識に立って判断をすることになる。法はその表現だ。しかし、では、この国家の特殊意志たるところの一般意志は、どのように決まっていくのか。いままでここのところをよくわかっていなかったが、目からウロコだったのは、一般意志は特殊意志がもっとも多く一致した場所ではないということだった。これは加藤典洋でも解説の中山元でもくわしく書かれている。一致した特殊意志をルソーは全体意志と呼び、それがさらにある特定の事項に関する場合、加藤典洋は共同意志と呼んでいる。いずれにせよ、どれだけ個々人の価値観や感性が一致し、特殊意志のもとから発せられた意見が多く合致しても、それはまだ特殊意志の拡大した全体意志にとどまるのである。一般意志はそうではない。ある法安を通すべきかどうかで意見がわかれているとして、投票の結果、通すべきであるとする意見が過半数を占めたとする。このとき、一般意志はその法案を通すべきだとしたことになるが、それは、通すべきだと考えたひとが多いからそうなったのではない。一般意志はある意味、投票より以前から想像的には存在している。わたしたちはその投票で、「法案を通すべきかどうか」を問われているのではなく、「一般意志的にみてどうなのか」ということを問われているのである。それが、特殊意志の合致は全体意志であることを出ず、一般意志にはならないということの意味だ。仮にタバコを違法とするかどうかの国民投票が行われたとする。僕は喫煙者なので、これが違法になると困る。だから特殊意志的には、これには反対である。そういうひとが仮に過半数を上回っても、実はそれは一般意志の回答とはならないのである。そうではなく、国民が、内なる一般意志に問いかけ、どうするのが正しいのかをつきつめた結果出てくる結果が、想像的には天上に存在していた一般意志の表明なのだ。投票はそれを表現する機会でしかない。むろん、ここにはふたつの問題があるだろう。ひとつは、ひとつが内なる一般意志に問いかけるその手順であり、もうひとつが投票のじたいの方法である。全国民がタバコがどういうものかまったく知らないまま投票したのでは一般意志もなにもないし、投票箱の横にヤギがいてときどき食べてしまうとかだとその結果も信用ならない。ただ、この問題はまた別のことだ。投票の結果は一般意志の表現なので、もし僕が内なる一般意志に問いかけて「さすがに違法はやりすぎだ」と考えて反対したにもかかわらずこの法案が通ってしまったときには、僕は一般意志を読み誤っていたことになる。ここには、よくいわれるような「勝敗」はない。「タバコ違法万歳」のひとがこの件で勝者になるということもない。もし勝者だということになれば、それは特殊意志になるから、一般意志を明文化した法という観点からすれば背理になるからである。もしそれでも納得がいかなければ(ひとびとはタバコについて誤解している、とか、投票方法がおかしい、とか)、新たに運動なり啓蒙活動なりをして、ひとびとの意識を変えていけばよい。それはまた別の、次の段階の問題だ。

しかし、ではわたしたちは、その問いかける対象であるところの「内なる一般意志」をどうやって育めばいいのだろう。たんに公共意識を高めて生活していれば自然と身につくものなのだろうか。これも、本書を通じて驚いたことのひとつなのだが、ルソーは私利私欲を否定しない。ホッブズでは、ニュアンスとしては、私利私欲を抑制して、権利を強者に預けることで、自然状態を脱する。しかしルソーはそうではない。個々人の自由を万人に向けて譲ったそのあとに、社会的に保証され、強化された新しい相の自由を取り戻すのである。これを全面譲渡という。かみくだいて口語的に僕の理解したところをいえばこうである。ホッブズでは、個々人がこうしたいと欲望することを部分的にあきらめさせ、がまんさせることで、秩序を保つ。しかしルソーでは、ある意味各人の存在を丸ごと法のもとに預け、そしてほぼ同時に丸ごと、法による強化をほどこされてそれ以上の価値になった各人を取り返すのである。

 

このように、ホッブズが制限しようとした私利私欲、自己保存、自由というようなものをルソーは否定せず、むしろ保存し、そのうえに社会契約を築こうと努力してきた。同じように、一般意志を想定する際にも、特殊意志は尊重される。というより、それ以外に一般意志を見出す方法はない。タバコのもたらすあらゆる現象が情報としてすべてのひとに共有され、同時にひとびとに党派的なかたよりもないものと仮定したとき、ひとは、おのおのの立場、喫煙者である、禁煙中である、嫌煙家である、妻が妊娠している、客商売である、等の個々の事情こみで特殊意志を表明することになるが、このときに生じる摩擦が、一般意志を生み出していく。過激な意見から保守的な意見まで、問題の射程と分布が議論するたびに明らかになっていき、それぞれの意見が一般意志の輪郭を縁取って浮かび上がらせていくのである。

だから、投票のようなある局面で、わたしたちは一般意志を推測するのだが、それは同時に、哲学的な意味で、実は特殊意志を出ない。わたしが一般意志だと考えているものがまちがっていた、という経験を、投票を通じてわたしたちはするわけだが、それはそれ以上のことを意味しない。特殊意志のぶつかりあいは、さらに一般意志を彫琢し、全体の意志であるそれの一般性を高めていくことになるはずである。これがルソーの特色なのだ。ひとが、おのおのの保存と私利私欲に真剣になればなるほど、そしてそれがぶつかるほど、一般意志は強度を増していくのである。