第172話/一興
背中をずたずたに斬られ、腹を裂かれ、膝を撃ちぬかれても立ち上がる花山がついに地面にあぐらをかいてしまった。まだ意識はあったが、さすがにもう動けなかったようである。そこにあらわれた内海は、感謝を示して土下座する。とどめをさそうとする武蔵はバキがとめる。武蔵の、サムライの時代ではともかく、現世ではこれが決着であると。
そうして救急車で花山が運ばれたのだが、残ったバキはどうしたか。現世では命をとることまではしない。しかしそのくちで、武蔵を葬り去るというのである。
ただ、これはどうも複雑な言い回しのようで、たんに「殺す」ということだけを意味しているわけではないようだ。バキは言いにくいとしながら、「現世(ここ)にいるべきじゃない」という。武蔵はなにもじぶんの意志で復活したわけではない。光成がよみがえらせた、ある意味では悲劇の主人公である。だから言いにくい。でもそれは事実で、しかもたくさんの命が奪われ、武蔵にはそれを正すつもりはない。となれば、いうしかないと、そんなところだろう。
それを、武蔵は「さすがに俺でも理解(わか)る」と、なにか気安い調子でいう。じぶんのようなやりかた、つまり、ひとを斬って、武勇を示してなりあがるような世の中ではないということを、武蔵は理解していたのである。この「さすがに俺でも」ということばには、異邦人としての武蔵の孤独が感じられないでもない。この言い方は、その話題になっている件にかんしてじぶんが疎いときに用いられるものだろう。音楽に疎いひとに、「この曲はけっこうテンポが速いから・・・」などと解説を始めて、「さすがにテンポが速いことくらい俺でもわかるよ」と返すような感じだ。ここで話題になっていることはむろん現世のありようである。今のこの世がどういうものか、武蔵はとても疎い。そして、そのことを武蔵は自覚している。そんな俺でも、このありかたがダメだということくらいはわかると。バキは、それにしては斬りすぎじゃないかという。警察のことをいっているのか、あるいは烈や、死んではいないけれど斬られていった花山のようなひとたちのことをいっているのか、よくわからないが、その仇をとるのかといわれて、バキはあいまいに肯定する。武蔵は笑って、この場でとりにこいと誘う。斬っても成り上がれないのかもしれないけど、じぶんにはそれしかないから、斬る。動機としては難しいはなしではないのだ。武蔵にはそれしかすること、できることがないのである。
それを、バキは「やらねぇよ」と断る。バキの診断によれば、武蔵はあと一発でも花山のパンチをもらえば倒せるというところまで消耗しているようだった。あれからそんなに時間がたっているわけでもないだろう。そもそも武蔵は打撃格闘技の人間ではないので、攻撃を的確に当てることさえできれば、こちらはかなり有利になっていく。この疲れにかんして重要なのは、ダメージの蓄積より、消耗により鈍っているかもしれない剣のほうだろう。
それを証明しようとするかのように、両者が動く。まだしゃべっているバキを武蔵が横向きに斬ったのだが、武蔵がそう動くことを予想していたのか、それとも純粋に見切ったのか、紙一重(厳密にはかすっている)でバキはかわしたのである。「このザマだ」とバキはいう。性格の問題だろうか、いまやる気がないのになんでそんなに挑発するのか、よくわからないが、もう宮本武蔵じゃないとまでいうのである。
武蔵の髪の毛が勇次郎みたいに浮かび上がる。だが、少年(ボン)ではなく童(わっぱ)と呼びかけたのをうけて、バキは素早く、そのわっぱすら斬れないのがいまのアンタだ、とやりこめる。武蔵の髪がなぜかちからを失い、洗った直後みたいにぺったりとつぶれてしまう。武蔵は納刀しつつ、ときにはボンに言われ放題もまた一興か、などといっているが、納めた刀を次の瞬間にまた抜いて振り下ろす。今度のバキはこれに反応できなかった。だが武蔵にも斬る気はなかったようである。ちょうど服の前が十字に切れて開いてしまったような状態だ。一瞬の硬直ののち、バキの全身から汗が噴き出す。いま、じぶんは反応できていなかった。もし武蔵がその気でいて、もう数センチ踏み込むなり腕を伸ばすなりしていたら、死んでいたのである。
武蔵は「この場で奪(と)りに来い」とくりかえす。バキは黙っているが、どういうつもりなのだろう。このままでは主人公パワーをもってしても勝てそうもない。花山のような生き様と勝負が直結しているようなタイプのファイターでもない。かといって勝てない勝負はしないというタイプでもないが(わりと無策につっこんで自爆しているイメージがある)、これはふつうにどうすべきか判断できずに迷っているのかもしれない。
と、ついさっきまでビルの屋上にいたはずの光成が瞬間移動してくる。彼は「そうイジめるな」という。続くセリフからすると、どうやら武蔵に語りかけているようである。つまり、いじめられているのはバキである。
武蔵はたんじゅんに再会を喜んでいるみたいだが、おそらくこの場をどうにかおさめるつもりもあってか、光成が妙なことを言い出す。風呂がわいてるから今夜は帰るぞ、というのである。
にっこり笑って武蔵はこれに納得、バキをおいて去っていくのだが、ここで驚くべきことが起こる。内海の号令で、彼らを囲んでいた警官たちが武蔵を「お送り」するのである・・・!武蔵、光成を先頭に、100人くらいの警官集団が歌舞伎町を闊歩するのであった。
つづく。
なんという難解な展開だろう・・・!謎が多すぎて見落としそうなので、考察に入るまえに列挙しておこう。前回の「葬り去る」発言と今回のバキの行動はどのように関係するか。なぜ武蔵はやたらとこの場でたたかうことにこだわるのか。そしてなぜバキはその喧嘩を買わないのか。一回目はかわせたのに二回目はかわせなかったのはなぜか。光成はどういうつもりでいるのか。対国家戦に臨むために光成の屋敷に居候する身分をみずから抜け出た武蔵は、なぜまた徳川邸に戻るのか。そしてなぜ内海は武蔵を「お送り」するのか、以上のようなところになる。この短い展開でこれだけの謎が出てくるのだから、まあものすごい難解といって差し支えないだろう。
「葬り去る」にかんしては、「いま」やるとは、たしかにバキはいっていない。要するに、バキとしては、感性というかものの考え方のちがいから、武蔵は現世に存在しているべきではない、というふうに考えている。斬ることしかできない武蔵は、存在するだけで、現世のものを傷つけていく。だから、あなたはここを去るべきであると、そういうことを、バキは「葬り去る」ということばに託している。その真意としては、いまはバキはやるつもりはないということになる。疲れきっていて、ダメージも蓄積した武蔵を倒してもしかたないからということである。だが、二回目の攻撃で、武蔵はバキを殺すのにじゅうぶんな体力をまだ保持していることが示される。これでバキは反論できなくなる。疲れているからやらない、といっていたものを、武蔵は攻撃で否定したわけなのだ。ほんらい、言葉どおりであるなら、バキは武蔵がじゅうぶん元気なのを見てじゃあやりましょうとならなくてはならない。それが、どうも迷っている。たんに、ここは話術でおさめてどうにか乗り切ろうとしていたとも考えられるが、一回目の攻撃は見切れて二回目は見切れなかったという、この差異のぶぶんに、バキが驚愕しているという可能性もある。つまり、この出来事はバキにも想定外のことであって、考えになかった展開だったのだ。
この「疲れ果てた」武蔵に勝ってもしかたない、という発言は、どう読めばよいだろう。というのは、バキは、いつだったか、対武蔵にかんして、準備をしない心がけの境地に到達していたからである。武蔵戦に向けて特訓をするようではフェアではない。たとえば爪は、試合にあたってはベストな長さというものがあるが、対武蔵に限っては、いつ切ったのか本人が覚えていないくらいが望ましい。こういう言い方を踏まえると、まるで準備することが卑怯だ、武蔵より有利になってしまうというふうに読めるが、おそらくそうではない。もっと極端ないいかたをすれば、武蔵的な日常が死闘の世界観においては、そもそもフェア・アンフェアという発想がありえない。満身創痍のアライジュニアを独歩たちが喜んで襲ったように、武術的傾向が高まるほど、それは顕著になる。フェアであることはおそらくスポーツ的な発想であって、それであってさえも、ある意味幻想である。だから、武蔵のほうはいつ「試合」があるかわからないのに、こっちが準備するのは不公平だと、こういうことをバキはいっているのではなくて、武蔵はそういう世界観でいて、そのうえで強いわけだから、じぶんもそうしなくては追いつけないと、そのように読んだほうがいいだろう。「準備するのはフェアじゃない」となると、準備するほうが有利なようだが、こと武蔵に限ってはそうではない。準備するほうが武術的視点からすれば邪道であり、不利でなのである。
しかし、これを踏まえると、バキの発言は不可解なものとなる。花山のファイトを聞きつけてバキがやってきたのだとしても、ここでの武蔵との遭遇は日常の範疇といってもいいだろう。互いに今日のこの日がファイトだとは考えていなかったのだから。しかしバキは、それじゃ意味ないと言い出す。独歩や渋川のようなリアリストだったら喜々として襲い掛かるにちがいない絶好のタイミングを、バキは避けるのである。武蔵が疲れきっていようと元気モリモリであろうと、準備をしていないという点でこの瞬間はフェアであり、武術的には問題なかったはずなのだ。
理由はいくらでも考えられる。たとえば、バキがくちでいうほどその領域には達していなかったということかもしれない。しかしここでは、前後の言い方とあわせて、バキが依然として「あの宮本武蔵」という、本部が解除したはずのイメージ図にとらわれているというふうに読んでいきたい。そしてこの考えは、バキが二回目の攻撃を予測できなかったことにも応用できる可能性がある。
ここでいう「あの宮本武蔵」というのは、たとえば最近だと木崎が花山に武蔵の強さを説明する場面などで見られた、「宮本武蔵」という語の含むイメージ一般のことである。世代によっては映画俳優とかのイメージも重なるかもしれない。その他、小説、舞台、漫画のイメージも重なりうるが、もっとも根本にはやはり五輪書があるだろう。そのように、後世のひとたちが語り継ぎ、ばあいによってははなしを余計に付け加えることによって付け加えていった超有名人としての宮本武蔵である。バキたちはこのイメージとたたかってきた。だから、つねに後手になっていた。ふつう、ある人間とファイトするとき、前もってビデオで研究してきたとかそういうことがなければ、どのような動きをするものかわからないものとしてわたしたちは対処する。とりわけ武蔵のように敗北=死のような時代ではそうだったろう。手の内がまるわかりであることはそのぶん攻撃の手段を制限するのである。たほうで、バキたちは宮本武蔵がどのようなものかを知っている。あるいは、知っていると思い込んでいる。ところが、それは歴史を重ねるうちにゆがんできた武蔵像である。このことが、実在の武蔵とのあいだにギャップを生む。この実在の武蔵をきちんとキャッチアップできていたのが、勇次郎のような超人を除くと、本部だけだった。というのは、本部だけが、戦国から地続きの戦闘技術を継承だか研究だかしてきた人物だったからである。これが、本部のほどいた武蔵の孤独のある一面である。本部は、イメージとしての宮本武蔵を打ち砕き、生身の武蔵を露出させることに成功した。その代償として、今度は、彼はみずからの手で存在を勝ち取らなければならなくなった。光成が武蔵を復活させ、保護するのは、むろん彼が「あの宮本武蔵」だからである。このイメージが前面に貼り付いていたせいで生身の武蔵を誰もみていなかった、それゆえの孤独であった、こういうことを本部戦で悟ったいちばんの人物が、ほかならぬ武蔵だった。あとでまた触れるとおもうが、彼は、現世でじぶんの生き方をまっとうするために、国家権力と対決することになったのである。
ところがバキは、依然として武蔵をあの武蔵としてとらえる。そればかりか、じっさいそういう言い方をしてしまう。花山が武蔵を伝説のオサムライサンとしてとらえるのは、ある種の敬意からである。じっさいには花山は武蔵のことをほとんど知らない。なんか有名な、時代劇のひと、くらいの認識である。だからこそあそこまでいい勝負ができたとも考えられる。だがバキはそうではない。武蔵の二回の攻撃を見比べてみると、一度目は、バキが話している途中に行われているが、二度目はバキのはなしに納得したと見せかけた直後である。この武蔵が納得したはなしというのは、要するに「疲れてるアンタを倒してもしかたない」というやつだ。バキは一度目をかわすことで、それを証明した。しかしそれはバキの理屈である。バキじしんが、フェアネスの考えから否定したスポーツ的視点なのだ。つまり、バキは、理屈では武蔵を理解しているようでも、じっさいにはまだそこには到達していなかったのである。もし彼が、くちでいうようにフェア・アンフェアの存在しない武蔵的世界に到達しているなら、そもそも「疲れ」にかんする議論をはじめないのだし、一刀目と二刀目に差異が生じることもなかった。バキは、みずからじぶんが武蔵の領域に達していないことを「疲れ」にかんする議論を通して宣言し、なおかつ、二刀目に反応できなかったことでそれを証明しているのである。そしてその理由が、彼がいまだイメージの武蔵にとらわれているためと考えられるのだ。話している途中に切りかかる武蔵はいかにも「あの宮本武蔵」である。それは、バキも知ってる。だからかわせる。そのイメージの武蔵は、バキの意識の範疇にあるから、彼の説得も理解するだろうし、フェアネスの視点も備えているはずである。だからこそ、バキからすれば非合理な二刀目が放たれるのである。
バキの準備してはいけないという発想じたいは、おそらく正しい。そのほうが武術的には正しく、むしろ有利であるというのは、武蔵も知るところなのである。だからこそ、武蔵はこの場でたたかうことにこだわる。驚くべきことに、そのほうが武術的視点に親しい武蔵には有利なのである。
さて、残るは光成と内海か。長くなってきちゃったけどがんばろう・・・。
問いとしては分離しているが、これらはおそらくひとつの結果から導かれるものだとおもう。つまり、ひとことでいえば、警察の精鋭部隊が敗れ、警察の対極として法と違法のバランスを保つ花山が敗れてしまったために、世界が変わってしまったのである。そうとしか考えられない。
武蔵が光成のもとを去ったのは、みずからの手で存在の権利を獲得するためだった。彼はもう「宮本武蔵」という価値にたよりきりではいられない。新たに現世で武勇を蓄積し、成り上がって、富と名声を獲得しなければならない。だが、それ以前に、武蔵のありようは現世が認めない。現代では、相手がどんなに悪人でもそれを私的レベルに殺すことで手に入る名誉などないからである。だから、武蔵は国家と、つまり社会契約とたたかわなければならない。斬ることしかできない武蔵では、そういう武術の先生にでもなるとかそういうのでなければ、社会的価値を得ることができない。だとしたら、そういう社会を変えてしまうほかない。ルソーによれば、戦争の定義とは相手国の憲法を書き換えることだという。その意味ではこれは正しく戦争である。なにも武蔵的ありようが全国民について認められるようになる必要はない。彼だけが特例になればよいのである。
そうして、警察は武蔵退治にとりかかることになったが、結果は散々なものだった。この場合、相手が武装したテロリスト集団であるとか、なにをするかわからない独裁者に支配された国家であるとか、そういうわけではないことがまた問題をややこしくする。強い強いとはいうけれど、刀をもっただけのひとりのおじさん相手に、国家が戦車出したり戦闘機だしたりするわけにはいかないのである。会社のトイレにあらわれたゴキブリを退治するためになかにいるひとたちもろともビルごと爆破しようとする管理人がいたら、知性の不調を疑われるし、もうその人物はビルの管理を任されることはないだろう。仮にそれがテラフォーマーズの大群だったとしてもである。この限りでは、もはや国家に打つ手はない。そこで、国家権力の対極に位置する花山の出番となった。法のないところには違法もない。したがって花山のような男の存在は法治国家の必然であるともいえる。反社会的勢力の一員である花山は、その意味で社会を外部から縁取る相対的存在なのである。しかしこれも敗れた。法が敗れ、法が生むところの違法も敗れた。現社会契約は武蔵を否定することができなかったのである。厳密にいえば、国家にもまだできることはある。もうなりふりかまっていられないわけだから、目立つこととその後低下することになる評価をおそれなければ、武蔵を仕留めることはできる。しかしたぶん、総理はそういう方法をとらないだろう。たぶん、武蔵的なありようが部分的には認められる、あるいはやむを得ないものである判定できる、なんらかの語法を編み出すにちがいない。しかしそれらはずっとあとのことだ。クローンの問題もある。このままいくとはなしはもっととんでもないところに向かっていくかもしれない。ここで重要なのは、内海たちの反応なのだ。
彼らが武蔵を送る理由としては、監視ということも見逃せないだろう。こうしてギャラリーとして姿をあらわすことができたのを奇貨として、彼らは武蔵の許可のもとにその行動を制限することができる可能性があるのである。が、その場合でも、彼らは武蔵の許可を得ていることになる。彼らは、そこにいてもいいと武蔵が認めたから、そこにいるのだ。しかしやはりここには、彼らが体感として敗北を感じ取り、それがどういうことを意味するのか理解している、ということなのではないかと考えられる。彼らは負けたのだ。そしてそれは、もう武蔵の存在を「認めない」と発言できるものはいなくなったということを示してもいるのである。
同様にして光成の行動もとらえられる。武蔵は「宮本武蔵」としての光成の保護を受けることができないから、徳川邸を去った。それが、風呂がわいているから帰るという。このことが示す結論はひとつしかない。武蔵がこれから入る風呂は、光成の保護によるものではなく、生身で勝ち取った「わがまま」なのである。
もし武蔵が、ほんとうに、「いぬやしき」のようなレベルで法を変えてしまったのだとしたら、バキの発言は無効になる。警察が殺人犯を「お送り」するような世界は、武蔵が「いるべきじゃない」世界ではないのである。いったいこのあとどんな展開がやってくるのか、明日もまともな社会は機能していくのか、見当もつかないが、たたかいは続くようだ。国家レベルの闘争となるとオリバとかが出てくるのかもしれないが、ピクルがやられちゃってるから、オリバが出てきてもなあという感じはある。まあ、あのひとはあたまもいいし、いろいろ創意工夫をもってからだづくりをしているので、ピクルとはまたちがったアプローチになるとはおもうが。
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