今週の刃牙道/第169話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第169話/驚嘆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

刃牙が介入して友情パワーをほどこすことにより事実上ダメージは五分であるということが明らかになった花山対宮本武蔵。花山は致命的なダメージを受けてはいるが、バキに愛酒を吹きかけられることでパワーを取り戻す。花山の強力な突きを幾度ももらってしまっている武蔵も、平気そうにみえて実はもう一発ももらえないという状態になっているのだ。

 

 

今週はまず花山の赤ん坊時代の絵からはじまる。いやな予感のするはなし運びだ。なぜだか知らないが赤ん坊の花山はすでに握りこぶしを覚えている。どうだろう、赤ん坊を育てたことがないのでわからないが、拳のかたちというのは自然に身につくことはあるのだろうか。よく女の子の、拳を握ったことのないものがまねをするとき、親指をなかにしまってしまうことがよくある。だからというわけではないが、そちらのほうが骨格的には自然なのかもしれない。ちからを抜いた状態の手も、バキ世界では赤ん坊がかたちづくるといわれている菩薩のかたちになっていない。この時代から花山の人生は決まっていたのかもしれない。

花山は強者として生まれた。生来のものとされる瞬発力、それを表現する圧倒的握力、おそらくそれにリードされるかたちで形成されたたいへんな筋肉と、もちろん巨体、なにもかも、生まれ持ったものであり、強者のしるしである。これ以上をほしがってはいけない、鍛えてはいけないというのが花山の哲学である。作中では、最初に柴千春が、そういうふうに見える、というような流れでそのように語ったのが最初だったとおもう。あのひとを見ていると、鍛えることが女々しくおもえてくると。当初は花山じしんの発言としては描かれていなかったのだ。その後、外伝を除いて、花山やその周辺からその種の証言があったかどうか、ちょっと思い出せないが、とりあえずこうして描かれる以上、これは花山じしんの考えでもあったのだろう。強く生まれたものが、さらに高みを目指して鍛えることは端的に「卑怯」であり、懸垂を行うライオンのようなみっともなさをともなうのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(「生」のままだ

 

 

「生」のまま強くなきゃ・・・)

 

 

 

 

 

 

 

武蔵も前世現世あわせてありとあらゆるタイプのファイターとたたかってきたことだろう。でも、ここまで透明な動機でたたかい、また存在しているものは初めてなんじゃないだろうか。さすが外伝で主役をはってそれを人気作にするだけのことはある。武蔵は敵意すら超越した花山の目を「仏のよう」と形容する。

次の接触でおそらく勝負は決まる。そこまでの領域に勝負を持ち込んだのは彼らじしんであり、ようやくやってきたその状況を、彼らはさらにすすめようとしている。第三者であるバキたちはもう、ただ見届けるほかない。武蔵は刀をふたつとも抜く。すぐ納刀して抜刀の速さばかりアピールしがちな武蔵には珍しい。そしてもちろんこれは二刀流である。STATの面々がその姿を見ただけで意味を悟り恐慌をきたしてしまった、かの有名な構えだ。ギャラリーも大騒ぎであり、武蔵はそういうのがふつうにうれしい。

 

 

花山のすることは変わらない。もう何度目か、からだをひねって拳にちからをためていく。が、もう武蔵はそれが放たれるのを待たない。正面を向いた花山の腰のあたりに無造作に刀を下ろしたのである。遊びを捨てたのである。バキはそのことに驚いている、彼だって、着替え中のシコルスキーに服を着ることを許さず、ぺらぺらしゃべってるところを攻撃して、そのまま金的を蹴り上げていた。花山が、そして花山がつくる、こういうものを許容する空間が、特殊なのである。

強さ比べはもうできない、勝つか負けるか、生きるか死ぬかの勝負だと武蔵はいう。これはつまり、もうどちらが強いかはどうでもいいということで、さらにいえば、どちらが強いかということは勝敗にはかんけいないということでもある。こういうセリフは前にもあったとおもうけど、よく考えるとなかなか斬新な発想である。ほんの小さな入力のちがいが大きな結果を呼び込む真剣勝負に生きた武蔵ならではの達観といえるかもしれない。ふつうに考えたら、勝ったほうが強い。しかし武蔵ではそうではない。強弱と勝敗は当然のように別の文脈のはなしなのだ。

刀は腰というより背中を横に切った感じのようだ。しかしかなり深い。花山が気合をあげながら殴りかかる。その顔面を刀が通る。目の下、鼻の上である。これもかなり深い。これを受けて花山の表情がじゃっかん変わり、白目になっている。これを、武蔵は鬼の眼だと形容する。なにかそれを待っていたというような風情である。そして今度は刀が縦に顔を切る。左目の黒目が分断されており、これはもう失明コースだ。

さすがの花山ももうほとんど意識はないようだ。大きく空振りして回転したあと、背中を武蔵に向けて開く。ここに、武蔵は縦に刀を落とす。斬られる花山が考えるのは内海が一杯やっているかどうかということなのであった。

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

煽りの感じを含めても、これはさすがに勝負ありなのだろう。克己戦と同じく、みずからもっとも信頼をおく侠客立ちの入れ墨で攻撃を受きったかたちであり、あれと同じなら、これで花山は立ったまま気絶してしまうのだろう。いいやというほど背中を斬られまくり、さらしをはずせば内臓がどろり、左目も失ってしまったが、こういう漫画の死亡のサインである内臓の露出や背骨、首、脳への直接のダメージはそれほどないままで済みそう。とりあえず死ぬことはないと見ていいかもしれない。

 

 

勝負はまだ終わりでない可能性も残ってはいるが、いずれにしても、花山は相当な活躍をしたとおもう。もともと強さの不定な非科学的なキャラではあったのだが、それでも、ピクルや覚醒本部、勇次郎などと比べると格下感は否めなかった。それがここまでやりきれたのは、むろん花山薫だからである。彼の強さは計測もできないし予測もできない。たたかっている最中の相手であっても、それがどういう質で、どれだけの大きさのものなのかよくわからない、そういう強さなのだ。

それというのは、今週冒頭に書かれた花山の哲学にかかっている。生のままに、鍛えず、備えず、たたかわなければならないと、そのようにじしんに課すことで、花山はむしろ強くなっていくのである。何度か書いてきたことだが、基本的に花山は、相手が強者である場合(ストリートの対ザコは除く)、戦闘開始直後に相手の攻撃をめちゃめちゃにもらいまくる。これはおそらく、強者として生まれたじぶんじしんを滅するためだ。鍛え、強くなることが卑怯だとするなら、彼は生まれた時点で卑怯者である。だから、まずこのじぶんの有利を相殺しないことには、闘争をはじめることすらできない。こういう哲学がおそらくあるのである。それは、花山薫という存在を滅するということでもあった。だから、相手の攻撃を受けきり、花山という固有の存在が漂白され、なにものでもなくなったとき、ようやく闘争はフェアな状態ではじまる。武蔵が花山に見た光、また白さ、無垢、これらはこういうところからきていると考えられる。武蔵ではそれがなかったのだが、これはおそらく、武蔵が帯刀していたこと、そしてむろん武蔵が花山でも名前は知っているほどの達人であることにかんけいしているだろう。生まれつきもっているじぶんと、後天的ではあるがもっているものとの対決なのだから、とりあえず条件としてはフェアなのである。

ともかくこういう心性が、花山からいっさいの負債感をのぞき、柴千春いわく拳にちからを宿すことになる。ぜんぜん、まったく鍛えなくても、おそらく強すぎる握力に引きずられるしかたで、花山はどんどん強くなっていった。じぶんにそんなつもりはなくても、彼の存在には不純物が日ごとに混じっていったはずである。これを相手の攻撃を受けることで徹底的に殺す。その先に、「攻撃そのもの」とでもいうような、自律した動詞のようなパンチが出現する。花山は、相手が刀をもった武蔵でも、サメでも、ベンツでも、その戦闘スタイルを変えない。それしかできないということもあるとおもうが、そればかりではない。徹底して「花山薫」という要素をそぎ落とすことであらわれてくるものがあれなのであり、どれだけその純度を高めることができるかという一点に、拳の強さはかかっているのである。

こんな理屈で「強い」わけなのだから、通常の格下だとか格上だとか戦績だとかいうことがあてになるわけはない。花山はいつでも誰とでもいい勝負をするが(退屈とあこがれのために挑んだ勇次郎戦だけは例外)、それはこうした理由によるのである。花山が開いての長所を引き出すのではない。というかむしろここには花山はいない。ただ猛烈なパンチだけがあるのであり、相手が強ければそのぶん花山は消えていくわけなのだから、その威力も増していくことになるのだ。

 

 

そして、この、彼が手にしている「生まれつき強者」という条件は、おもえばギフトである。先日ウシジマくんの記事で筋肉について書いたとき、贈与について言及したが、あれが参考になるかもしれない。経済は沈黙交易からはじまった。ひとは、なんだかわからない誰かの落し物を拾い、その価値がわからないから、しかたなく考えられる別のものを同じところにおいて、相手に渡るよう仕向ける。くわしくは該当記事を読んでもらうとして、そうやってまず贈与されることで、ひとびとの交換の運動ははじまっていった。ここで重要なことは、この贈与のやりとりに仕掛け人はいないということだ。誰かがなんらかの理由で「贈与したい」と願ったからそういうことが起こったのではないのだ。そうではなく、あるひとが「贈与された」と感じ、負債感を覚え、「お返ししなければ」と感じたときに、この運動ははじまる。だから、最初の「なんだかわからないもの」は落し物ではなくただのゴミかもしれないのだし、厳密にいえば誰のものでもない、自然が生み出したなにか奇抜なかたちの石とかである可能性もある。ともかく、それを拾ったものが「贈与された」「お返ししなきゃ」と感じたときに、この環は描き出され始める。この意味では「才能」もそうである。贈与の理論に則れば、花山は、神からか親からか、それはともかく、強さを「贈与」された。彼はお返ししなければならない。このとき、じつはお返しする相手は贈与したものである必要はない。というか、クラのようなプリミティブな交換システムは、原則的にそうではないときに発動する。花山のばあいそれがどこにいくかというと、むろん社会である。社会というといかにもきれいごとだが、要するに「義の命ずるところ」だ。これも何度か書いたので細かい考察は記さないが、僕の考えでは、「義」とはルソーのいう「憐れみの情」である。法の外に歴史的蓄積である父が命じるフロイトの「良心」があり、さらにその外側に、感情移入の原動力である「憐れみの情」がある。ルソーはこれのために、自然状態(法のない世界)でも人類は、ホッブズがいうような普遍闘争には陥らないとしたのである。

義の命ずるところには、法もかんけいなければ、当為の文体で語られる良心のようなかたくなさもない。ただ。衝動的な、雨にうたれる子猫を拾ってきてしまうような「行動」があるだけだ。花山は、贈与されたところの強さを、じぶんのためではなく、他人の、特に義の命じるところに用いることで、はじめて反対給付義務を果たし、その負債感から解放されているのである。このとき、いわば彼は負債の運び手、「強さ」の媒体となっている。結果としてはということになるのだろうが、花山が徹底して自己を滅する方向に闘争をもっていくのも、そう考えると平仄があうのだ。

 

 

花山は本部もなしえなかった生死を選ぶ領域に武蔵を呼び込んだ。これはたいへんな達成とみていいだろう。そして、いままでの武蔵の「遊び」の感覚が、学習にしては油断しすぎだし、グラップラーたちがなめられすぎじゃないかというところだったものが、ここでかなりすっきりした。武蔵にとっては、生きるか死ぬかの勝負をするということと、強さを比べあうということは、まったく別のことだったのだ。なんならここで花山のほうが武蔵より強いとしてしまっても、おそらく武蔵はかまわない。しかしそれでも勝負は彼がとる。ここには、その後、勝負が世間でどのように解釈されるかという、「富と名声」目線も含まれてはいるとおもう。世間は勝ったほうを強いとおもうだろうし、武蔵はそれでじゅうぶんなのである。

そして、だとすると、これまでの「遊び」を含んだ武蔵のたたかいは、強さ比べだったことになる。だからこそ、相手の手をすべて引き出すことに熱心になり、やたらと攻撃をもらい、斬るまでに少しためらうことになる。真剣勝負を生きた武蔵であるから、勝負がなにをきっかけにどう転がっていくかわからないものであることは熟知している。花山がもっとタフで、斬られることをいま以上にものともしないものであれば、「遊び」だろうと「勝負」だろうと武蔵は負けていた。また、さらに逆転すれば、勝負の次元では、弱いほうが勝ってしまうこともあるということになる。だからこそ、そうした「勝負」の含む偶発性や即興性をほどいた、物体のぶつかりあいのような次元での勝負を、彼はまず望むのだ。弱くても勝負に勝つことがあるのなら、最初から生死の勝負にすすんでは強さ比べにならない。これは一撃で勝負のつくサムライの時代を生きた彼ならではの発想だろう。これでだいぶ見通しがよくなった。花山が武蔵をその次元に呼び込んだという成果じたいも含めて、刃牙道のストーリーはかなり進んだとみていいだろう。

 

 

次号休載。40号で再開です。

 

 

 

 





 


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