第165話/花山流の気遣い
いい打撃をもらって昏倒した武蔵だが、花山に名乗らせることで時間をかせぎ、それなりに体力を回復したようだ。大振りのパンチを回避し、目前にあらわれた花山の背中を斬りつける。武蔵は真っ二つにするつもりで斬ったのだが、かたい骨と厚い肉がそれを阻む。
回想など入ってわかりにくくなっているが、タイミング的には背中を斬られたすぐあとということになるだろうか。花山は、拳に食い込んだままの刀を返すといって突き出してきたのである。振り返ってみると、もしかして花山は、拳を突き出すことそれだけに集中していたために、相手が刀使いだということを忘れていたのかもしれない。それで、斬られてみて、そういえば相手はサムライだった、そしてじぶんは一本刀を預かったままだったと思い出し、返そうとしたのかも。
武蔵はそれを「いらん」という。成り行き上花山の手に渡ったものなのだから、受け取れないと。それはたしかにそうかもしれない。武蔵はリアリストなので、汚いこともけっこう平気でやるが、いちおう表面上のふるまいには整合性をもたせている感じがある。たとえば最近だと、くそ真面目な花山に名乗るよう要求し、その間に体力を回復していたわけだが、これも、花山じしんが名乗れといわれて「それもそうだ」とおもったからそうしただけであって、責められるような行為ではない。名乗れといって、相手が同意して名乗り、そのことによって余った時間をつかって体力を回復させているのだから、「いまから体力を回復します」と宣言はしていないけれど、「いまから体力を回復させません」ともいっていないわけである。武蔵は富と名声を求めるサムライだが、あまり卑怯なことばかりを目につくところでやり続けるのは好ましくないということもあるだろう。たんに相手を殺すだけなら、現代ならいくらでも方法はあるだろう。でも、それじゃダメなのだ。
花山が黙ったまま刀を引っこ抜く。やっぱり、刀それじたいと握りが血をとめていたみたいで、そんなに多くはないが出血がはじまる。そして、かなり至近距離の状態のまま、花山がこれを武蔵に向かって投げつける。とはいえ、スペツナズナイフをキャッチしちゃう武蔵だから、これをパフォーマンス的に捕ることは可能だ。で、この場合は捕ることに意味がある。武蔵は花山の気遣いに礼をいう。表面上、花山の善意で返された刀を受け取ることはできない。しかし花山が「くれてやる」といわれた刀を投げて攻撃してきたのであれば、そしてそれをキャッチしたものなのであれば、武蔵は受け取ることができる。だから投げたのである。
戦うときはいつも重傷を負う花山だし、今回も涼しい顔をしていたので問題ないのかとおもわれたが、背中の傷口からはどんどん血が流れており、花山の顔にも汗が浮かんでいる。痛みは制御することができる。花山ほどの人間なら、死ぬ寸前のダメージまで耐えることができるかもしれない。しかし、その結果機能できなくなるほどの深刻なケガを負ってしまう可能性もある。花山はいつもそういうたたかいかたをしてきた。ダメージがないわけではない。でも耐えられるのであれば、それはダメージなしとちがわない。これは武蔵も見られるありかただ。武蔵も、けっこう油断していいのをもらってしまうが、とりあえず機能それじたいに問題がないのであれば、それはダメージなしとちがわないようなところがあるのだ。
花山を指名し、彼の義侠心に訴えかけるかたちで武蔵退治を依頼した内海は、複雑である。花山の出血を見て、これでよかったのか、とおもういっぽう、ありがたいという気持ちも出てきているようである。
気を取り直し、花山が次の動きに出る。今度はダメージのない右手だ。同じようにからだをねじり、ただ思い切り拳を放つだけ。何発かもらったことで、武蔵は花山の突きのすごさをいやというほど体験した。そして、もうそれを食らってはならないということも、すっかり理解した。見物人の帽子が飛ぶほどの花山のアッパーを寸前でかわした武蔵は、ふたたびあらわれた彼の背中を素早く4回斬りつける。もともとズタズタだった侠客立ちはさらに細かく刻まれ、血が噴き出すのだった。
つづく。
いくら頑丈だとはいっても花山も人間である。克巳戦ではマッハ突きを受け切りはしたものの立ったまま気絶していたし、スペック戦でも、口のなかで銃弾を爆発させられて、スペックを気絶状態に追い込んだものの、じぶんもぶっ倒れていた。生き物としてもう動けないというところになればさすがに倒れる。花山の全身には刀による傷がたくさんついていて、これらはほぼ同時についたものであるが、やはりヤクザもののふるう刀と武蔵のものでは深さもちがうだろう。このままドバドバ血を流していたら、精神論以前に肉体が機能を停止してしまう可能性もある。まあ、それを覆しそうなのが花山なんだけど。
見たように、花山は、じぶんが刀を奪う結果になっていたことを、そしてもっといえば武蔵が刀を使って攻撃してくるものであることを、背中を斬られるまで忘れていたような感じがある。というのは、相手の性質とか属性とかは花山には関係のないことだからである。相手がヤクザでもサムライでも、やることは変わらない。ただ思い切りからだをねじって拳を解き放つだけだ。だからこれはいかにもありそうなはなしなのだ。花山には原罪のように強者として生まれたことへの負い目がある。柴千春は曲解しているようなところがあるが、花山が相手の攻撃を最初に受けきるのは、じぶんが恵まれた人間だからだ。だから、最初に攻撃させることで、この負い目を相殺・解消し、それではじめてかまえる=スタートラインに立つことができる。これは花山のような特別な人間しかしてはいけない戦法で、だから柴はいつも、目玉が飛び出たりして、たいへんな状態になっているのだが、ともかくそういう公平性の美学が花山にはある。そして、何度かくわしくみたように、それこそが花山のパンチを研ぎ澄ます。「花山薫」という負い目を滅し、相手を選ばないごくたんじゅんな動作に特化することで、花山の動きはただの攻撃になる。ふつう、攻撃というものは、相手との関係性において形作られるものだ。相手の大きさだとか、反撃のタイミングや呼吸だとか、そういうものとの細かなやりとりのあいだに、一種のコミュニケーションとして解き放たれる。怖くてうっかり手が出てしまった、というような状況においてさえも、相手は必ず必要とされる。自分と相手がふたつの方向に存在して、攻防においてその関係性が表現される、それが闘争というものだ。ところが、花山は相手の性質をまったく考慮しない。相手がヤクザであろうと牢獄であろうとベンツであろうと、やることはつねにいっしょである。このとき、消滅しているのは相手だけではなく、「花山薫」という原罪も解消されている。花山が攻撃に出るというのはそういうことだからである。つまり、ここには相手も、じぶんさえも存在していない。ただパンチという表現だけが、零度のエクリチュールのように自律している。武蔵はそれを純度とか無垢とか、そんな感じのことばで表現していた。そして、この純度が、花山にちからを与える。だからそこに濁りがあると、花山の拳も鈍ることになる。花山が刀を返すのは、美学的な意味で公平性を求めるからではない。そうしないと拳が濁るからなのだ。
そして武蔵も、不純であるという点では純粋な男で、卑怯なまねをしつつも因果関係とか整合性をけっこう気にしている感じがある。なにがなんでも勝ちにいく、そういうスタンスが見え隠れしていても、なりふりかまわず噛み付いたりつねったりというようなことはない。つねに大義そうに、威風を損なうことなく行動し、「卑怯」な行動をとるときも外部的には整合性が感じられるよう意味づけを忘れない。それは、そうでないと名声が得られることはないからだろう。宮本武蔵のリアリストっぷりを評価する向きも現代にはあるとおもうが、たとえば花山に殴られたのがあまりに痛くて、きょとんとする花山や観衆を尻目にとりあえずダッシュでどこかに隠れ、回復してからそ知らぬ顔で戦闘を再開する、というような方法をとっていて、名声を得ることは難しい。いや、誰も見ていないところだったらそのくらいのことはするかもしれない。しかしいまはよくもわるくも一般人がたくさん見ている。そのような、意味づけのできない汚い方法、また相手の善意にしたがって刀を取り返すようなことは、さすがにしにくいのである。かといって、花山としては刀なんかもっていても邪魔なだけだし、第一花山理論からするとそれはむしろじぶんの拳を鈍くするだけのふるまいなのだ。かくして、攻撃というていで刀を武蔵に投げつけ、武蔵がそれをたまたまキャッチするという協力関係が築かれたわけである。
こうしたわけで、武蔵対花山は、ふたりで協力してひとつの大きな作品をつくろうとしているかのようなデュエット感に包まれている。武蔵は花山の拳を受けたくないので、基本的にはそれをよける。そうすると背中が目の前にやってくる。だから斬る。こういうパターンができつつあるわけだが、漫画的な表現として、やはり腹などを斬られるよりは背中のほうがまだダメージが少なそうということがある。むろん、背骨を傷つけられてはたまらないわけだが、腹を斬って内臓が出てくるリアリティを考えたら、背中のダメージはいかにも蓄積タイプのものに感じられてくる。なにがいいたいかというと、いままでのバキのたたかいでは、基本的に素手で、互いの体力をけずりながら決め手を探してきたわけである。ところが武蔵は刀の使い手で、ピクルのような例外はあっても、基本的にそれは一撃必殺だったわけである。一度でも武蔵に触れられたらそれで終わり、そういうリスクがあった。烈の消力やピクルの肉の宮、本部の防具などがそれに対応してきたわけだが、武蔵と花山の「協力関係」は、このたたかいをひとつの作品にするために非常に相性のよいかたちを見せているような感じがしてくる。からだをねじる花山は背中を見せており、正面が向き合う瞬間は武蔵も避けたい打撃が迫ってくる瞬間だ。そしてそれをよけるとまた背中があらわれる。こうしたわけで、花山には無自覚なことに、背中という、ある意味耐えやすい、一撃必殺を回避しやすい面が中心になって斬られていくわけである。これによって、以前のバキの打撃戦のような展開が、もしかすると可能になるのかもしれないのだ。とはいえ、この出血量では、現実問題そう長続きはしない。バキ戦(のあとの勇次郎戦)も、克巳戦も、スペック戦も、花山は気絶か、あるいはこれもう再起不能だろというようなところまでからだを傷つけてきた。相手が武蔵であれば今回もたぶんそれは避けられないだろう。これ、生き残ったとしたら、背中の傷描くのさらにたいへんになりそうだな・・・。
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