今週の刃牙道/第163話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第163話/鉄の義

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花山の放つ光がまぶしすぎてうっかり目をつぶってしまった宮本武蔵。おそらく作中では花山史上最高クラスとおもわれるパンチが弾ける。つまみあげられた武蔵は追撃をしない花山のぬるさを指摘、ボディへのパンチに刀を抜いて食い込ませることで対応した。しかしパンチじたいはとまらない。花山も拳に食い込んだ刀をほとんど気にしない(とはいえ、たぶんちからを抜くと出血するかもしれないということもあってか、拳はずっと固めている)。花山はダメージを受けた左手でさらに武蔵を吹っ飛ばすのだった。

 

 

 

こういう男もいる、というセリフは、誰のものだったろう。誰かいたような気がするのだが、克巳が花山に向けていった「世の中は広い 貴方のような男もいる」というのを勘違いしているのかもしれない。

とにかく花山には常識が通用しない。戦略戦術というものは基本的に敵がどう動くか、じぶんの行動にどう対応するかということを予測することで成り立っている。どのような格闘技も、戦争の技術も、銃弾や爆破がいっさい通用しないターミネーターみたいな人物を相手には想定していないわけである。警察戦で多用した話術や心理的なテクニックも、武蔵なりの経験と洞察力によるものではあったが、あれも同様である。痛みや恐怖に対して人間がどのように動くか、また訓練でどの程度まで克服可能なのか、武蔵は熟知していたからこそ、彼らの動きは手に取るように読まれてしまったのだ。武蔵は、そういう、いってみれば常識のようなものが花山にはまったく通らないことにじゃっかん感動しているようである。

 

 

しばらく仰向けになっていた武蔵だが、突然身を起こすと、正座になってゆっくりと迫り来る花山を制する。こうしてじぶんの前に立つ以上、花山のほうは武蔵のことを誰だかわかっていて仕掛けているのだろう。しかし武蔵は花山を知らない。だから名乗れと、こういうのである。花山としては、難しいことは抜きにしても、任侠のひとだから、いわれてみればそれもそうかというところで、まずいきなりぶん殴ってすみませんと素直に謝る。そして名を名乗り、なんというしぐさなのか、上体を倒して、映画みたいにしゃべる。

 

 

 

 

 

 

「宮本さんにゃ

なんの恨みもござんせん・・・・・

 

 

――が

渡世の義理で

シメさせてもらいやす」

 

 

 

 

 

説明としては、必要にして十分というか、じっさい花山はたったこれだけのことで動いているのだからおもしろい。

しかし武蔵もおとなしくシメられるわけにはいかない。立ち上がってそれを断る。花山に名乗らせたのは時間稼ぎで、武蔵は回復を待っていたようだ。時間稼ぎにもいろいろ方法はあるだろうが、花山はいかにも名乗れといわれたら名乗りそうな風体だから、そのようにしたのだろう。

武蔵的には次にどのような行動に出るべきか考える時間でもあったのかもしれない。また花山が刀の食い込む左拳を突き出してくるが、武蔵はその、縦になった刀を受け止めたのである。これはいかにも痛そうだ。カウンターと同じ要領で、花山のパンチ力の大部分が刀と拳の接触部分に返っていくのである。

武蔵は花山のパンチ力がどれくらいのものか身をもって知っている。つまり、このことによって花山の拳にかかる負荷がどのくらいなのかも、瞬時に計算できる。武蔵のイメージでは肘のあたりまで刀が進み、花山の左手を開いてしまうはずだった。しかしそうならない。あまりのことに武蔵の顔から血の気が引いていく。さっきよりはたしかに刀は前に進んでいる。しかし逆にいえばほとんど動いていない。あまりにも握りが強く、手の中で硬く刀が固定されていて、ぜんぜん動かないのである。武蔵の斬撃どころか、花山じしんのパンチ力をもっても、この握力を超えることはできないのである。

花山のパワーに、現世にきて何度目かの天晴れの賛辞を加え、武蔵はすぐに戦法を変えてかがみ込む。花山の豪腕が武蔵の頭上を通過する。打ち終わったあと、すぐ次の攻撃に移ったり、あるいは相手の反撃に備えたりという格闘技的な発想を花山はしない。だから、空振りをしたらものすごいスキが生じる。目の前で回転し見えてきた侠客立ちの背中に、残った刀で武蔵が攻撃を加えるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

 

 

前回、武蔵は花山を「拳骨の人」と呼んでいたが、あまりの硬度に、今回は「鉄拳の人」に変わっている。そして続けて、花山の「鉄の義」を見事であるとほめるのだった。

しかし花山じしんの威力を花山の握力がとめるというのは、なかなか思い切った描写である。例の「握力×・・・」の方程式は、極真会館の大山総裁がどこかで語っていたものらしいのだが(詳細不明)、総裁はわりと感性でものを語るかただったので、これも数学的物理学的証明があって唱えられているものではない。まず、打撃格闘技として体重は重要である。そしてそれを載せる拳が速ければ速いほど強力なものになるということは、打撃格闘技の修練者としての体感だろう。ビール瓶切りの演武を得意としていた総裁は、この技術にかんしてなによりまずスピードだとよく語っていた。そして、つけくわえるに握力であると。著書によって異なるのだが、若いころの総裁は若木竹丸の怪力法に強い影響を受けていた。たしかその著書で、いにしえの忍者が指を鍛えていたエピソードを学習し、指のトレーニング、すなわち握力強化に本格的に取り組みはじめたと、このようなことだったと記憶している。そして最終的に親指と人差し指で10円玉を曲げ、その二本指で逆立ち、また人差し指だけで腕立て伏せが可能になるほどまでに到達した。このあたりも著書によって異なっており、たとえばほぼフィクションの空手バカ一代では親指だけで逆立ちを行っていたりもする。ともかく総裁のまとうエピソードは虚実入り乱れており、それを検証した本なども存在するが、しかし、とはいっても、実戦にかんして圧倒的に強かったことだけはまちがいないようである。で、そうしたトレーニングの果てに、一撃必殺の打撃を身につけたという自負がある。こうした事情があって、総裁はこの方程式に握力を付け加えていたのではないかと考えられるのである。もちろん、握力の強さは打撃力をあげることにもなる。というのは、かたく握られた拳はそれだけ硬いからである。それが総裁や、あるいは花山レベルになると果たしてどれほどの硬さになるものか、僕のようなものにはとても想像がつかない。一般的には、打撃格闘技の握力強化はケガの予防と正確に威力を伝えるための基本的な鍛錬だ。ものすごい巨漢が高速で突きを放っても、握りが甘いと威力は半減してしまうし、そればかりかケガをしてしまう。そうした意味で、この方程式における握力は1以下の数値では、と考えられたのである。それがどの程度の握力にまでなれば「1」といえるのか、不明である。もしかすると、世界レベルの選手でも、せいぜい0.9や0.95でしかない、なんてこともあるかもしれない。しかし、もしこれがそのまま硬度につながっていくとすれば、それは1以上になる可能性もある。

しかし、もしこれをこんなふうに厳密に考えないとすれば、ここで起こっていることは、握力を含む「破壊力」が、「握力」を下回るということになるのである。これは、それこそ、もともとこの方程式が立てられたときのような、感性的な発想法だ。重ければ重いほど、速ければ速いほど、握りがかたければかたいほど、破壊力は高くなる、こういう実感があって、この方程式は立てられた。しかし、そうして導かれた総合的な威力が、握力を超えないことがあると。このばあい、花山が握りこんでいる刀の接触ぶぶんには、いわゆる握力によってつくられた拳の硬さはあまりかんけいないということもあるだろう。だが、ここではむしろ直感的な、非論理的な感覚にたよってみたい。つまり、ひょっとすると花山では、めぐまれた体力と、特に速いわけではないがそのスピードとは、握力のもたらすはずの威力を減じさせるものでしかないのではないか、という可能性である。花山の体重とスピードでは、彼の握力がもたらしても不思議はない破壊力を導くにはまだたりないのかもしれないのである・・・。

 

 

 

ともあれ、花山の拳は鉄拳である。そして、そこから武蔵は「鉄の義」も見出したようだ。内海の依頼を義で受けた際も、煽りで「義」ということばが出ただけだったので、この種類の形容が登場したのは今回がはじめてだろうとおもわれる。厳密に言うと花山の「渡世の義理」発言である。これを受けて、おそらくは花山の背負う白い光のイメージも含めて、武蔵はその握りの強さに「義」を感じ取ったのである。以前宝塚の記事で考察したことだが、おそらく義というのは、ルソーのいう「憐れみの情」のことである。法のない自然状態は、資源をめぐる普遍闘争に陥るとホッブズは推測したが、ルソーはそうならないと考える。なぜなら、人間には「憐れみの情」が先天的に備わっているのであり、ひとの痛みを感じてすべきことすべきでないことを判定できるからである。ミュージカル「スカーレット・ピンパーネル」において、フランス革命時、正体を隠しながらフランス人貴族たちの亡命を手伝うパーシーというイギリス貴族の動機を考えようとしたとき、このことが考えられたのだが、どうしてこういう類推が必要なのかというと、この手の行動にかんして僕ではまず義賊ということばが浮かんでくるからである。ロビンフッドのように、金持ちから金や資源を奪い、餓えているものに渡す、こういう行動が、義の典型であると考えら得るのだ。そしてこれがなんなのかということを考えたとき、先天的な正しさの観念のようなものがどうしても必要になり、そこにルソーが浮かんできたのだ。いわゆる良心というものは、フロイトでは先天的なものではない。翻訳のゆれもあるとはおもわれるが(つまり日本語でいう良心はもっと別の意味を指している可能性もあるが)、フロイトにおいて良心とは物事の是非を判定する審級として内面化された父である。ごくごくかんたんにいうと、エディプス・コンプレックスといって、子供は母親との親密な関係を維持しようとするとき、父を排除したいと望む。しかし父親は強いのでそれができない。だから、子供はそれを内部に取り込んでしまう。父のようになることで、父を排除できない現状を乗り越え、エディプス・コンプレックスを克服するのである。このとき取り込まれた父というものは、ほとんど一体であるじぶんと母親という閉じた関係にもっとも近い他者のことだ。父は社会に向けて開いている亀裂の先頭に立っているものであって、要するにもっとも親しい他人のことなのである。取り込まれた父は良心となってことのよしあしを判断するものさしになる。父は、外部に広がる社会のもっとも卑近な模型として、わたしたちの内側に展開するのである。

このようにして良心は後天的なものであるのに加えて、その社会もまた人工的なものだ。僕の直感では、まずもっとも遠いところに現状機能している法がある。それは、仮に納得できないものであっても、なにが善でなにが悪かを決定するたんじゅんな材料となりうる。次に良心がくる。これは人類が経験的に積み立ててきた善悪のものさしだ。父というのは、じぶんよりさきに生まれて、じぶんより先に父的なものをやどして生きてきた先達にほかならない。良心というのは経験知のことなのである。そしてそのあと、もっとも近いところにあるのが、おそらく「憐れみの情」である。これは社会契約を経ない、なにが善でなにが悪かというようなことより、他人をみて「痛そう」とか「かわいそう」とかおもうような感覚のことかとおもわれる。そしてこれこそ義の原動力なのではないかとおもわれるわけである。法律で貴族は皆殺しと決定し、良心の訴えるところでも、貴族のせいで貧乏な生活を強いられてきた平民たちは、これを許せない可能性がある。しかし、殺されていく彼らを「かわいそう」とおもい、「助けなきゃ」と考えてしまうことは止められない。もっともシンプルに、理屈ぬきに作動する他人への感情、そしてそれに突き動かされて、そうすべきだ、それが正しいとなってしまうようなこと、これが義なのではないかと。

 

 

武蔵は花山の言い分と鉄拳から義を感じ取る。ということは、みずからがそうして身体的直覚による正しさに反した存在であるという自覚があるということだ。ひとを殺めるというのはそういうことなのである。そうした反応じたいは、たぶん武蔵にとっても珍しいものではないだろう。しかし武蔵は、ここに前代未聞の硬い決意のようなものを見て取っているわけである。むろんそれは、花山の背負う白さとも関係しているだろう。花山の純粋さには、行為によって利益を得ようというつもりがまったく感じられない。シンプルな正しさへの信頼それだけ、ほんとうにただそれだけに突き動かされて、花山は動いているのであり、武蔵はそれをはっきり感じたのである。それがナチュラルな、ただ強く拳を握るということに表現されているということも無関係ではない。義は、一種の身体的な衝動にほかならない。ペット禁止の住居なのに雨に濡れている捨て犬を拾ってきてしまうようなものなのだ。武蔵は正しく花山の鉄拳にそれを見たのである。