第161話/拳豪vs剣豪
花山は武蔵の背後に漆黒の闇を見ていたが、対する武蔵はまぶしいほどの白い光を見ていた。あんまりまぶしくてうっかり目をつぶってしまったところに、花山の巨大な拳がめりこんだところである。
いつも通り、というか、前回の復習を兼ねたなにやら難解な説明が始まる。光が射すとき、そこは優しさに包まれる。描写では暴風雨がやんで太陽の光が照っているイメージだ。神様の類もたいていは後光を背負って光を帯びているし、なにか聖なるものが闇に包まれているなんてことはあまり聞いたことがない。たぶん、人間がひとつの生命体として生きるために、太陽が欠かせないものであるという事実が、光に対してそのような印象を付託するのだろう。
では、そのような光をもっと強く、もっと明るくしたら、どうなるだろう。武蔵、ではないとおもうが、このことを述べているなにものかの解釈は、「影を生み出すから光は優しい」ということだ。このことについてはあとでゆっくり考えよう。ともかく、強い光は、黒い影のぶぶんさえなくして、全身を包み、ほとんど見えなくしてしまう。そうなったとき、光は「狂気」を帯びるという。花山の放つ光はそのレベルのもののようだ。帯刀するこの「武蔵」に、寸鉄を帯びず身を晒す、その無防備、その無垢に、目が眩む。武蔵はおもわず目をつむってしまい、彼の顔とほとんど同じ大きさの硬い拳を受けてしまうのであった。ちなみに、描写をみると、花山の拳はねじ込まれている。かたい拳をただぶんまわしているだけではないようだ。それとも、その投擲のようなフォームが自然にそうさせているのだろうか。
鼻が折れて口のなかも切れたくらいの感じだろうか、血を出しながら武蔵が吹っ飛ぶ。このときなぜか木崎が目をつぶってなにかに耐えるような表情を見せている。いよいよはじまってしまったということへの不安だろうか。
地面に跳ね、何度も回転しながら、10メートルほど先にうつぶせで武蔵が着地する。前回考えたように、今回の花山は純度においてこれまでのものを上回る可能性がある。彼の場合はそれが強さに直結しているので、だとするなら花山史上最高のパンチであるかもしれない。さすがにダメージは免れないだろう。いちおう意識はあるようだが、ぐったりして動けない感じだ。
思いを乗せた拳が、剣となんらちがいがないと、武蔵は考える。武蔵に近づいた花山が、猫でもつまむように武蔵を片手で持ち上げる。花山の打撃は武蔵の予測をはるかに上回るものだった。それを、武蔵は「食らっておいて良かった」と考えるのであった。
つづく。
難解な展開がつづく。冨樫義弘とかだったら、多少むつかしくても書いてあることが多いので読み込めばわかったりするが、板垣先生は字が少ないからなあ。花山なんかほぼしゃべらないし。というか武蔵と会ってからまだいちども声を出していない気が・・・。
「食らっておいて良かった」は意味深だ。これは花山の拳が予想をはるかに上回るものだった、というところにかかっているわけだから、食らっておかなければこれを知らなかった、いまこうして知ることができてよかった、ということである。武蔵はこの一撃でダメージを受けている。このひとのことなので、擬態している面もあるとはおもうが、ふつうにバキ界最高レベルのパンチ、の最高の状態のものを顔の真ん中に(しかも目をつぶって)受けているわけだから、ノーダメージというのはさすがにないだろう。ということは、こうやってダメージを受けることでしか獲得することのできなかった情報なりなんなりが、あるということである。来週わかることだが、この情報にかんしては二種類のものが考えられる。戦術的なものと知識的なものである。戦術的なものとしては、たとえば、花山のパンチの威力を知らずに攻撃して、うっかりカウンターなんかでもらったりしてしまったら、いまより深刻なダメージを受けていたかもしれない、なにかの拍子に跳躍して、うっかり金的にもらいでもしたら、破裂していたかもしれない等々の、いまより悪い状況を想定したものだ。もうひとつは、知識として、剣と同等の拳がありうるという事実を知れたという意味だ。つまり、敵意ありとみなして、花山が振りかぶっているところを問答無用で切っていたら、武蔵はそのような拳が存在する、存在できるということを知らないまま花山を殺してしまっていた、少なくとも、無傷の花山のパンチを食らうことはなかったわけである。武蔵が花山の拳を剣と同等とみなしたというのは、威力ばかりのことではあるまい。剣には機能美、坂口安吾のいう必要美が宿っている。もちろんそこに美術的価値を見出すのは自由だし、装飾など必要とはまた別の面における個性が探究されているものとはおもうが、基本的にはそう考えていいだろう。剣は、ひとを斬るためにつくられた。帯刀それじたいが抑止力になったり、現代のようにそこに美的価値を見出したりというようなことは、すべて副次的な解釈であり、剣の本質はそこにはない。純度でいえば100パーセント、斬ること以外どのような意味もそこには含まれない。花山の拳も同様である。何度かみたのでくりかえさないが、花山も、生まれたときから強者である、負い目としての「花山薫」という原罪を滅し、意図や思想をはらいおとした、ただ拳を放つということのみに特化することで、拳に聖性と威力を宿してきた。その点でも、たしかに花山の拳は剣に通じるものがあるのである。そして、武蔵は、素手という様態がそのようにして存在可能だということを、これまで想像もしなかったわけである。帯刀とは、それだけで有利であり、合理的な人間であるぶん、素手に対しては負い目より疑問しか感じない。彼からすれば、素手でいるものは準備不足の未達者、じぶんたちの量的縮小、「小さいサムライ」でしかない。ところが、素手も徹底すると剣と同じだけの価値を宿すことがある。花山の場合はそれが威力にまでつながっていく。こんなありかたが可能であるとは、武蔵はそれまで知らず、事実、拳を受ける直前まで、帯刀の有利を語っているのである。つまり武蔵は、花山の拳を受けることで、素手のものに対する認識を、「刀をもっていないもの」から、剣と等価になりうる「素手という武器を帯びているもの」に変えたのである。
さて、「影を産み出すから光は優しい」である。影さえ照らしつくすとき、光は狂気を帯びる。いったいこれはどういう意味だろう。
シャミッソー『影をなくした男』には、悪魔との取引で影を失い、理不尽な迫害をうけるペーター・シュレミールという男が登場する。『黄金の壺』や『くるみ割り人形とネズミの王』で有名なホフマンは、普段模倣を嫌う性格でありながら、このはなしをいたく気に入り、「大晦日の夜の冒険」という短編でシュレミールを登場させたうえに鏡像を失った人物を登場させ、彼も理不尽な迫害を受けることになった。ホフマンの感性を信じれば、影は鏡像と同質のものであり、鏡像はラカンによれば「鏡像段階」にそれを経由して自我を確立させるよすがということになる。ラカンの著書は非常に難解であるということで、その理路についてくわしく知っているわけではないのだが、要するに幼児は、鏡のなかにじぶんの動きにぴったりついてくるなにかを見て、その像を経由することで、フィクションとして自我というものを獲得するというのである。
このようなことをさかしらにいわなくても、影は「わたし」というものの存在している証であることにちがいはない。意識があり、じぶんの手足を眺めることができても、わたしというものの存在のたしかさに不安を覚えることはあるかもしれないが、照らし出されて生まれた影は、その不安を解消するだろう。厳密にいえば、その影も、不安を宿したままの視線が認識していることなのだが、わたしたちが「優しさ」を感じる光が、その存在を裏打ちしてくれるということが、平面においてある地点を指示するふたつの値のように、わたしたちの意識を安定させるのである。
しかし、その光も、強すぎれば影を飲み込む。自我の安定ということでいえば、光のなかに身をさらすことで影が生じるのだから、光というなにか解釈の装置のようなものに「私」を放り込むことで、このやりとりは成立していることになる。その「優しさ」は光が本態的に宿しているものではなく、わたしたちの解釈を経由したうえでのことなのだ。光は、わたしたちにその優しさで影をはじめとした恩恵をもたらしてくれている、わけではなく、ただ部分的に、わたしたちにはそのように解釈可能だというだけのことなのだ。
だから、わたしたちの解釈の限度を超えてしまえば、影も、多くの恩恵も失われる。そのとき、わたしはわたしであることが難しくなる。いっさいの陰影が失われた世界では、事物の差異という差異がすべて失せ、なにもかもが溶け合ってしまうだろう。「狂気」というのは、おそらく秩序が失われる、くらいの意味だろう。ある事柄が狂っていると判定するのは狂っていないものたちである。狂人という概念が病気として導入されるまでは、これらのひとびとは一種の神がかりととらえられていたのであり、くすりでラリっている処女かなんかがシャーマンのかわりをするような場面も古い時代を描いた映画ではよくみる。その意味では狂気というのは恣意的なものであって、これもまた解釈を経由する。事物の差異が失われ、あなたとわたしの区別がなくなった混沌の世界、これを創出する(わたしたちにとっては)暴力的な強い光、これを、秩序を壊すものとして狂気と形容しているのだろう。
このことは花山のありかたとどのように接続するだろう。これもやはり、くどいようだが、花山の「攻撃そのもの」になったようなふるまいにつながっていくのだろう。相手が宮本武蔵であろうと、バキであろうと、出オチっぽいヘヴィー級のボクサーであろうと、ベンツであろうと牢獄の鉄格子であろうと、花山のすることにはまったく変化がない。花山の拳には意図も思想もないというのはそういう意味だ。花山に対したとき、わたしとあなたの差異は失われる。わたしとベンツ、あなたと武蔵、バキと鉄格子のちがいもなくなる。つまり、花山の前では、なにもかもが、何者でもなくなる。彼の発する強すぎる光とその狂気というのは、おそらくこのことだろう。武蔵もそれを免れない。こんなことは現世にきて、いや前世でもその後半生ではなかったことだろう。なにしろそれは、誰でもないというあつかいなのだ。武蔵にとっては驚きの連続かもしれない。武蔵を「武蔵」としてあつかわないものがあらわれ、しかもその男は、素手が剣と等価であるという発見を武蔵にもたらしたのだ。おもえばこれは本部が孤独を指摘して以来放浪してきた武蔵の、待ち望んでいた相手かもしれない。武蔵はこれから、この現世で、何者かたろうとしなければならなかった。「宮本武蔵」としてたたかったのでは、ずっと孤独なままだった。しかし花山の拳はそうではない。この一戦で武蔵は大きく変化をするかもしれない。
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