『妻に恋する66の方法』福満しげゆき | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

 

 

 

 

 

 

 

先月の新刊だけど、福満しげゆきの「妻かわいい漫画」新作が発売されたぞ!その名も「妻に恋する66の方法」だ!

 

 

以前までの「うちの妻ってどうでしょう?」は双葉社だったが、今回は「僕の小規模な生活」を出していた講談社発行であり、表紙は講談社現代新書のあのそっけない感じになっている。むかしの講談社新書は、茶色がかった質のいい紙のおしゃれなやつで、これから特別なことを学ぶんだ!というような感じでモチベーションのあがる雰囲気を醸していたが、デザインが変わってからは(内容や刊行傾向に変化はないが)、よくもわるくも実用書的な、即効性の高そうな雰囲気になっている。太い帯をはずすと、中央にイメージカラーの正方形があるのもいっしょだが、本書では僕と妻のシルエットがそこに浮かび上がることになる。たぶん、扉のぶぶんに、タイトルの「方法」に該当するもの、つまり「適当に『痩せた』と言ってみよう」みたいなことばがいかにも金言風に掲げられ、本編とはあまりかんけいのないひとこまギャグみたいなものとして描かれている、というコンセプトが決まってから、新書風のデザインでいこうということになったのだろう。

 

 

やっていることははっきりいって「うちの妻ってどうでしょう?」となにも変わらない。妻と子との日常、というか妻そのものを描いて、ときどき作者の妄想や愚痴が挿入されるだけだ。全体的な印象としては、小規模な生活を書いていたころよりは、愚痴パートは減っている感じがする。「生活」も映画化されて、バカ売れとはいわないまでも、新刊が出ればそこそこ、それなり動く、少なくとも「微動だにしない」ということはなくなった、まともな作家になりつつあるわけだし、精神的に安定してきているということなのかもしれない。以前は2ちゃんねるなどのじぶんの評価をやたら気にする描写が多かったが、それも減っているようだ(でもエゴサーチはしてる。妻もしてる)

その「生活」や「就職難!ゾンビ取りガール」、連載中の「中2の男子と第6感」を見ても、完全なフィクションが描けない漫画化というわけではないことは明らかである。そりゃ絵は、画力を云々するタイプではないけれど、コマの切れ端を見ただけでこのひとの絵だとわかる強い個性の持ち主だし、それは訓練の積み重ねで獲得できるものではない。厳密には訓練の積み重ねなんだけど、そこに到達できるのはこのひとだけなのだ。なにより、ぜんぜん写実的ではないのに、妻はかわいいし、女の子もちょっとやりすぎなくらい巨乳だけど、みんな魅力的に描かれている。ガンツやいぬやしきの作者である奥浩哉は、超ド級のメジャー作家だが、妙に福満しげゆきを買っているぶぶんがあり(モノにはならなかったが、原作を考えてくれたことさえある)、この連載も奥浩哉の紹介があって成立したもののようだが、そういう、このひとならではの独特なものを感じ取っているからこそ、奥先生もやたら世話を焼いてしまうのだろう(あとあの先生は自他ともに許すおっぱい星人だから・・・)

 

 

フィクションを描くちからがありながら、なぜまたエッセイ漫画にもどってくるのかというと、ひとつには妻が非常に人気者であるということが大きいだろう。げんに僕も相方も妻のファンだし(福満先生の漫画を経由して、ということなので、厳密には福満先生のファン)、公平にみて、妻シリーズの妻はほんとうに愛らしいのだ。ただ、それが、たとえばワンピースのナミがかわいらしいのと同質かというと、無論そうではない。個人的には、この感覚は全世代に普遍的なものではなく、男性にかんしてはということだが、ある程度年齢を重ねて、女性というものに長い時間かかわることで、生み出されているものではないかともおもう。いや、どうだろう・・・。高校生の僕がこれを読んで、妻を愛らしいとおもう可能性もけっこう高い気はする・・・。でも、たとえば福満先生は妻の体型を形容するとき「丈夫」とか「もっちゃり」とかいうのだが、そこにこめられている意味というか、それが魅力につながるという事実じたいを、果たして高校生の時点でリアルに理解できたかなとは、やはりおもう。

そういうわけで、ひょっとしたらごく限られた世代ということになるのかもしれないが、とにかくある層においては、妻は人気があるにちがいないし、そのことで過程がスポイルされないのであれば、福満先生としてはネタにしない手はないわけである。生活があるし、たしか家のローンもあるんじゃなかったっけ。妻は漫画製作の手伝いもするし、発売されればむろんそれも読んでいるから、やがて、福満しげゆきのしゃべりかたの雰囲気などから、「これはこのあと漫画にする気だな」ということを察するようになる。そうすると、妻は一生懸命、なにがあったのかをくわしく説明しようとする。が、そうすることによって、はなしはちょっとつまらなくなる。これはいかにもありそうなはなしだ。けど、福満先生は、あったことをなんでも描いちゃうので、この「妻が察する」「はなしがつまらなくなる」「でも一生懸命説明している妻はおもしろい」ということそれじたいを、漫画にしてしまう。妻が、じぶんのやることなすことが全国に発信されてしまっているということそれじたいに疲れてしまわない限り、たぶんこの方法はずっと有効だろう。

 

 

福満先生がふたたびエッセイ漫画を描き始めた理由としてもうひとつ、このひとの、作品における、じぶんというものの存在感の強さもあるかもしれない。長いキャリアのなかで、「生活」のような優れた作品もいくつか発表されているわけで、そういう技術はこのひとにもある。ただ、ふと思い出したのだが、「生活」の最後のほうの展開は、ちょっと「ゾンビ取りガール」に近いものがあった。「ゾンビ」は「生活」から数年後のはなしなのではないかとさえおもえたのである。この淡い感触だけを手掛かりに断定するのはいかにも浅はかだが、この作品世界はじつはひとつの世界観、つまり、作家のあたまのなかにつねにある物語世界から導かれたものだったのではないかと、ふとおもったのである。こういう状況は、文学の世界ではけっこうあることだが、漫画ではあまり見られない。ひとつの連載がおわると、ほとんどの漫画家は、前作がどれだけヒットしても、それとはまったく関係ない、方向性も異なる漫画を描き始める。それもひとつの技術なのだろう。最初はもちろん、どんな漫画家も、じぶんの抱えている世界観だけを手掛かりに作品を紡いでいくのだろうが、人気を増し、技術を身につけるにつれて、そうではない次元の物語を、以前にも増して精密に彫琢することができるようになる。そうしないと読者にあきられてしまうとか、編集部的な、マーケティング的な発想が創作におよぼす影響が、文学よりよほど強いのだろう。文学がそうではないというふうに一括することはできないが、やはり傾向としては、そういうことはいえるとおもう。たとえば村上春樹の作家論が、「この作家はこれまで一貫して「父の不在」について描いてきた」というようにして成立するように、作品群が「作家の作品世界」としてひとくくりに認識されるのはふつうのことだ。作品ごとに登場人物が異なっているとかそういうことは別のはなしである。文学的には、まず作者がおり、その無意識が個々の原稿用紙に滲み出すようにして、新しい物語に変化していくのだとすれば、特に現代の、技術的に新作を生み出さねばならない漫画家は、東浩紀では「データベース消費」ということになるか、登場人物などの物語を構成する要素から創作がスタートするぶぶんがある。

そういうふうに見たとき、すばらしい出来であることはまちがいないとしても、「生活」や、また「ゾンビ」なんかは、いかにも作者の衝動がそれを描かせ、昇華しているという感じが強いのだ。それが悪いということではない。文学の世界にいる作家はだいたいそうやって自己や世界と対峙しているのだから。その意味では、「中2男子」はけっこうデータベース的なもの、「構成要素」から先に設計し、物語を構築するという方法にチャレンジしたものなのではないかなともおもえるが、それでもやはりどこか衝動的なものが感じられる。まあそんなことをいったら、見渡す限り、どんな漫画家だって「衝動」があって、それを漫画にしているのかもしれない。奥先生のガンツだっていぬやしきだって、そういう目で見てみると、いかにも、先生の脳内で壮大に展開されていた空想世界が漫画になっている、というふうにおもえてくる。進撃の巨人とかワンピースとかも似たようなものが感じられる。しかしたいていの作家は、特に2作目からは、そこから離れなくてはならない。離れなくてよいのは、荒木飛呂彦や鳥山明、板垣恵介のようなある種の天才に限られるのではないか。

 

 

なにがいいたいかというと、福満先生では創作するものがまず手掛かりとする自己というものが非常に強烈なので、漫画のように表現をするときに、自己以外のところから(たとえばマーケティングとか、データベースとか)出発することが難しいのである。くどいようだがそれはどちらがよいということではない。たとえば、絵と物語が表裏一体だとしたら、福満先生の人格ありきであの絵なのであり、げんに先生の絵でガンツをやったら、全然ちがう作品になるわけである。福満先生には、先生にしかできない仕事があるのだから、それさえ刊行されていれば、僕みたいなファンはうれしいのだ。いま考えていることは要するに、それがフィクションであろうとエッセイであろうと、福満先生ではそれはたんなる自己からの距離の問題なのではないか、ということである。そんなにちがいがないのである。大場つぐみが、たとえばネーム作成中にひどい頭痛に悩まされていたとしても、作品の、少なくとも展開に「頭痛」が関わってくることはないだろう。しかし福満先生はそうではない。「頭痛」というのはいかにも小事だけど、先生は文字通りかつおぶしみたいに身をけずることで作品を描くので、自己というものの状態が作品と無関係ではないのである。

 

 

仮にそうだとすると、わたしたちは、それがエッセイであろうとフィクションであろうと、距離が異なるだけで、漫画の世界観や人物の造形を副次的なものとして、つねに福満しげゆきという人物を読んでいることになるかもしれない。読み方として、たとえば村上春樹を読むときのような読み方が、ある程度要求されてくるのではないか。村上春樹の作品を単独で読むことはもちろんできる。ただ、いわゆる意味での批評は、「1Q84」を単独作品としては見ないだろう。海辺のカフカや、ノルウェイの森や、風の歌を聴けを踏まえたうえで、批評家はこれを読み解いていく、そしてげんに、文学作品というものはそれを待ってもいる(作者じしんはそうでもないだろうが)。「作者の作品世界」の新しい表出として読まれることが、ある程度望まれているのである。福満作品に「おもしろいからとにかく読んでみて」という具合のすすめかたがどうもふさわしくないような感じがするのは、そのせいかもしれない。僕がこのひとの漫画を誰かに貸すことになったら、たぶん「生活」も「妻」も「小規模」もぜんぶわたしたくなってしまうだろう。でもそういうわけにもいかない。新しく仕切りなおしたことだし、とりあえず本作から福満作品を読み進めていくというのもありだろう。できれば、「うちの妻ってどうでしょう?」と「僕の小規模な生活」を読んでからのほうがいいとおもうけど・・・。あと「ゾンビ取りガール」もおもしろいよ。