『戯作三昧・一塊の土』芥川龍之介 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『戯作三昧・一塊の土』芥川龍之介 新潮文庫






戯作三昧・一塊の土 (新潮文庫)/新潮社
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「江戸末期の市井の風俗の中で、芸術至上主義の境地を生きた馬琴に、自己の思想や問題を託した「戯作三昧」、仇討ちを果した赤穂浪士の心理に新しい照明をあてて話題を呼んだ「或日の大石内蔵之助」などの“江戸期もの"。闇空に突然きらめいて、たちまち消えてゆく花火のような人生を描いた「舞踏会」などの“明治開化期もの"。ほかに本格的な写実小説「秋」など、現代に材料をとった佳作を網羅した」Amazon商品説明より







芥川龍之介を読むのは何年ぶりなのかなあ・・・。ブログ内検索をしても記事が出てこないので、少なくともこのブログをはじめた2007年よりあとには読んでいないっぽい。

それもそのはずで、僕はべつに芥川龍之介にぜんぜんくわしくないし、よく読んだという気持ちもない。ただ、僕は中学受験をした口なので、その時期に有名なやつはほぼ読んだということがある。当時通っていた予備校の国語の先生が影響力のあるカリスマ的なひとで(いまでも現役のようす)、はなすと長くなるが、僕はそのひとの影響で読書のおもしろさに開眼し、こういう人生を歩むことになったのだ。

その先生からは、特になにを読むべきかというようなことではなく、とにかく本を読むことの大切さを学んだとおもう。思い返してみても、本を読みなさいとか、本を読むことで国語の成績があがるとか、具体的なことをいわれた記憶はない。ただ、そのひとの授業を受けるだけで僕は自然と読書家になっていたのである。文学作品に限らず、ナルニア国物語みたいな少年文学や赤瀬川源平の貧乏自慢のエッセイや筒井康隆の残酷童話などを、授業で部分的にとりあげて、先生が朗読したり、ところどころ読解したりするだけだったはずだが、僕はそれだけでいつの間にか一日に1,2冊読むような読書家になっていたし(当時はけっこう読むのが速かった)、国語の成績もみるみるあがっていったのである。吉村作治の本でピラミッドの作り方を学んだり、ファーブル昆虫記で蜂の生態を研究したり、いったいそれが国語となんの関係があるのか、というような授業もあったが、おもえばどれも効果的だったし、げんにそれでこうして少なくともひとりは読書に目覚めているわけだから、教師というのは偉大な職業である。

基本的にはテキストを使わない先生で、漢字の練習なんかも見るからにいやいや、上からいわれるからしかたなくやっているという感じで、もう時効だとおもうからいうけど、よく漢字の書き取りノートの、先生が記す日付のところを書き換えてズルをしていたものである・・・。ぜんぜんちゃんと見ないから余裕なのである。いやだって、完全に理解している文字を100回も書いたりすることになんの意味があるのかって感じだったし・・・(言い訳)

そんな先生だから、傾向を研究して塾が用意したような「必読書100冊」みたいなリストにもぜんぜん、まったく興味を示してはいなかったはずである。すすめられた記憶もない。全国にある私立中学で2度以上取り上げられたことのある作品、あるいは作家というのは、やはり次に取り上げられる可能性も高いから、そういうのを分析して、読んでおけというはなしなわけである。先生はそういうのはぜんぜん興味ないから、なんの感興もなく、「仕事だから」という感じでプリントだけ配ってすぐ井上ひさしの読解とかをはじめていたはずなのだけど、僕としてはなにか読むものの指標がほしかったということもあり、重宝してそれを片っ端から読んでいった。当時入試で流行っていたのは、ねじめ正一とか椎名誠とか井上靖とか、あと「四万十川」とかそのへんで、そういうのはぜんぶ読んだ。そしてあとは、やはり明治期では漱石・鴎外、昭和期では太宰、そして大正期では芥川を読むということは、ごく当たり前のことだったのである。ぼんやりとした記憶だが、このなかでは漱石だけがかろうじて理解できた・おもしろかった、という感じだったとおもう。鴎外はいま読んでもちょっと難しいし、太宰はよくわからなくて、むしろ大人になってからのほうが楽しく読んでいる気がする。

なかで芥川は短編小説の名手というか、短編小説でも文学的達成は可能であると示した最初のひとりであるから、受験にも非常に取り上げられやすく、またテキストとか模擬試験、過去問なんかにも頻出していた記憶がある。ぜんぜん芥川の本を読んだことがなくても、国語の授業で蜘蛛の糸とか羅生門とかトロッコを読んだことはある、というひとはかなり多いだろう。僕も、なにかを読んで、気に入った記憶がある。それで、ちくま文庫の芥川全集の、タイトルも魅惑的な地獄変というのを手に入れたのである。しかし、いま考えると馬鹿げたことだが、その本の表紙が、なにかこう、炎のなかで悶える女の人みたいなやつだったのだけど、それがすごくこわかったのだ。


↓これだ・・・


芥川龍之介全集〈2〉 (ちくま文庫)/筑摩書房
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本じたいは、短編がみっちりつまったお徳用だったのだけど、なんだろう、心霊写真的な、もっているだけで呪われるような気持ちにさえなって、読んでいても表紙の絵がちらつき、どうしてもこれを長い時間読むことができなかったのである(そういうことは子ども時代にはけっこうあって、書店で手に入れた有島武郎のなにかの本、角川文庫だったとおもうが、これが、たぶん当時すでに絶版で返すに返せなかったのだろう、いまおもうとありえないくらい焼けていて、しかもへんなにおいまでして、気分が悪くなってしまって、以来有島武郎のことを考えるだけでにおいがよみがえってきて気分が悪くなってしまう、というような経験もあった)。で、記憶を遡ってみると、どうもこれ以降芥川を読んでいないような気がするのだった。

と、ここまで書いてじぶんの書棚をひっくり返してみると、何年かまえ一念発起して本を作者順に並べてみようとした形跡があり(すぐ挫折したが)、芥川の本がまとまって置いてあるのが発見された。比較的新しく見える新潮文庫の『羅生門・鼻』の奥付を見ると、平成18年の73刷とある。ブログをはじめるかはじめないかのぎりぎりのころ、どうもこれを読んだっぽい。記憶にはないが。

しかしその有名な羅生門だって、気持ちのいいおはなしではない。死体のにおいがこちらまで伝わってくるし、服を剥がれる老婆もあわれというかおぞましいというか、なかなか、どういうつもりで読めばよいのか難しい作品である。つまり、じっさいのところ、ちくま文庫の表紙に感じたおぞましさは、芥川の作品にたしかに底流しているのである。

本書でも、「お富の貞操」なんかにそのおぞましさの片鱗を見て取ってもよいかもしれないが、それでもずいぶんすっきりした読後感なのは、本書の編集上のまとめかたのせいなのか、僕の人間的成熟のせいなのか、不明である。ところが、冷静に考えてみると、推理小説を少年時代に読みふけっていた僕は、死体がそこらへんに転がっていたり、老婆が全裸になったり、田舎娘が犯されそうになったり、そのくらいの描写でショックを受けるようなタマではないはずなのである。いったいなににそんなに恐怖したのか、厳密には僕は表紙の絵にビビっただけなんだけど、でもそれは作品にインスパイアされた関連図だったはずだし、その本にかんしても一字一句読まなかったというわけではないのである。芥川のいったいなにが、僕に異物感のようなものを植えつけたのか。考えてみると、それはその圧倒的な技巧にあったのではないかとおもえる。本書は読み物としては「江戸期もの」と「明治開化期もの」、それに現代を舞台にした3種類の作物が収録されている。そしてそのどれもが、まるで見てきたかのように、松尾芭蕉の弟子や大石内蔵之助に取材したばかりかじっさい憑依してみたかのように、そこにある茶碗も手に取れそうなほどの立体感で描かれている。

それというのは、もちろん芥川龍之介は天才ではあったのだろうけど、それ以上に博覧強記だったわけである。戦前くらいまでは、文学で生活しているようなひとの教養というのは、作品を見ればわかるように、それはたいへんなものであった。いまでも文学の畑で小説を書いているひとはたくさん勉強しているのはまちがいないだろうけれど、とりわけ明治期ともなると、小説を書くという営みの前にまずは海外から文学を輸入し、翻訳し、それがなにであるかを分析する批評の仕事を経由していたわけである。羅生門は今昔物語に由来した作品だそうだが、このあたりは、ヒップホップにおけるサンプリングの概念をつかうと理解しやすいかもしれない。すべて想像だが、明治期における文学が教養を必要としたのは(といういいかたは順序が逆だが)、そうでなければ近代文学は成立しなかったからである。しかし、漱石や鴎外が並外れた努力と持ち前の知性でほぼ完成させた日本近代文学を受け取り、弟子として小説を紡いでいく芥川たちは、どうやって小説を書いていたのだろう。そこに、一種の衒いがまったくなかったかというと、そういうことはなかったのではないかとおもわれるのである。いまでも文壇には教養主義的なものがよくもわるくも瀰漫しており、賛否わかれるところかもしれないが、教養がなければはなしにならなかった時代をじかに見ている芥川の世代では、仮に(そんなものが存在するとして)才覚だけで小説が書けるような時代が訪れたとしても、そういう作法は邪道であるというようなぶぶんもあったのではないだろうか。

芥川龍之介は日本の古典を出典として小説を書いていく。僕なんかがぼんやりと羅生門を読んでも、「ああ、これは今昔物語のアレね」とはなりようもないわけだが、ここに、サンプリング的なものを見て取ることができるのである。たとえば、ラップの背後でかかっている音楽のことをトラックというが、トラックのもっとも原始的なかたちは「2枚使い」といって、レコードの特定の部分を抽出してくりかえし流し続けることをいう。たいていのヒップホップのトラックは、すでに存在しているレコードのあるぶぶんを抽出して、再構築することでつくられており、そのことで、いまでは誰も聴くことのなくなった古い音楽の価値が再発見されるというようなことも起こるわけである。だから、基本的にトラックというのはループしていて、何小節かの同じ演奏が延々と続くのであり、それが独特の中毒性を生むのだが、故D.Lによる名曲「CRATES JUGGLER」のように、あるピアノソロをまるまるつかって、まるで伴奏のように響かせてしまったりとか、抽出のしかたもいろいろである。

フリースタイルダンジョンの人気で火がついた即興ラップのMCバトルでも、サンプリングは客をわかせるのに有効な手法で、あの番組では既存の名曲のトラックを流用してかけているが、それが有名な曲だと、冒頭の一節をくちにしただけで盛り上がるし、トラックとは無関係に、あるひとの名フレーズをからめてライミングすることで、「わかるひとにはわかる」高度な応酬をすることも可能なわけである(チコ・カリート対R‐指定のように、レベルが高くなってくると、あるバトルのフレーズを引用したのを受けて、その過去のバトルでくちにされたアンサーのフレーズを相手が使ってきたりして、逆に相手のサンプリングを利用してしまったりもするわけである)

サンプリング文化に見え隠れするのは、蓄積と隠語の感覚である。ひとつには、それ以前までの、いまのこの瞬間にいたるまでの歴史への敬意のあらわれである。そして、ヒップホップの場合は黒人文化ということもあってか、外部のものにはメッセージの本質が容易には伝わらないような、ある種の暗号化もほどこされている。それが音楽的な方法に転じているのが、サンプリングというものなのではないかと考えられるのである。トラックにかんしていえば、レアなレコードを掘り出すことを「ディグる」というが、みんなが忘れ、また見逃している宝石のような音楽を探し出す、という意図もここにはあるようである。がそのいっぽうで、該当曲をリスナーが知っていることを前提で、「わかるひとにはわかる」というものとしてつくっているぶぶんもあるようだ。ラップとなるとその傾向は顕著で、トラックになりうる音楽というのはそれこそ世界に存在するすべての音楽ということになるから高度すぎるとしても、ラップなら、素人にも追うことは可能だろう。たくさん音楽を聴いて、たくさん会場に足を運んでいれば、自然と「通」になっていくということである。表出しているもののみから分析を開始するテクスト論的な読み方とは相容れないもので、ビギナーがヒップホップについてつまづくのはまずそこだろう。聴いて、感じたことがすべて、という限りでは、引用し、引用されることによって生じる歴史的な時間のうねりのようなものは感じ得ない。そこはまた、作り手と同様に、歴史への敬意と、またくわしくなるにつれ見えてくるものを楽しむ心構えができれば、僕みたいに無知でもたいして気にならなくなるが、そこに排他性を感じるのはふつうのことで、げんにもともと、隠語は排他的なものとして成立しているわけである。



隠語は、そもそも権威的な「教養」ということばの響きとは相容れないが、ついていけるものだけがついていける、独自の制度を内に宿しているという点でいえば、それこそ「権威的かどうか」というぶぶんのみが異なっていて、排他性と裏表の、そこに属することができたという喜びが、サンプリングのもたらすもののひとつであることはまちがいないだろう。ただ、それだけではない。動機や発祥の原点はそうであっても、それだけでは、音楽的な(また文学的な)方法とはなりえない。それは、ラップにせよ小説にせよ、そこに至るまでの歴史がなければ、それは存在しなかったという敬意の意識が、そのまま方法に転じているのである。芥川の古典への取材は、漱石の時代からの必然的教養主義を受けての、そうした結果のように見えるのである。


ただ、本書のカラフルな文体や取材の対象を見てもわかるように、芥川の興味はひとつのところにはとどまらない。それがよりいっそう、その方法を「技巧的」に見せる。おもしろいのになにかトラウマ的なものを僕が感じてしまうのは、その徹底的な技巧への傾きからきているものなのではないかとおもわれたのである。服を剥かれる老婆が、無慈悲に放り捨てられるだけなら、それほどのおぞましさはなかったかもしれない。しかしどこかに、別の目的、つまり技巧の表出が、そこに感じられてしまうのである。



なにかおもわぬ方向にはなしが展開してしまって、まるで芥川が嫌いな理由をどうにか説明しようとしているような文章になってしまったが、そうではなく、本書はすばらしいものだったし、むしろたぶんこれから好きな小説家になっていくんじゃないかとすら感じている。たんに、少年時代のトラウマを説明しようとしたらこうなってしまった・・・。








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