ハイスコアガール 6巻発売 | すっぴんマスター

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ハイスコアガール 6巻 (デジタル版ビッグガンガンコミックスSUPER)/スクウェア・エニックス
¥価格不明
Amazon.co.jp




ハイスコアガールの6巻がついに発売されたぞ!

連載再開と、ずっと待機状態になっていた6巻発売の知らせはずいぶん前に流れていたが、なかなかタイミングがなく、書き損ねていた。心配するだけ心配して、あの件について書いて、いざ復活というときになにも書かないのは、ある意味ただネガキャンに加担してるだけともいえるので、気になっていた。

経緯としては、ハイスコアガールはゲームを題材にした漫画で、カプコンなどともいろいろ景気よく企画を練って、アニメ化も決まっていたのだが、そのアニメ製作の会社が作中取り上げられるゲーム会社のひとつであるSNKに権利の関係の確認を行ったところ、これが承諾のないものだということが判明した、というものである。作中にはゲームのプレイ画面も頻出する。素人考えでは、仮に誰かの“うっかり”だとしても、すぐ解決しそうな気もするのだけど、そこからもめにもめて、全巻を書店から回収、ちょうど次の月に発売が予定されていた6巻やアニメ化も中止になるという、たいへん悲しい結果となったのである。

それから・・・1年以上たっていたとおもうが、版元のスクエニとSNKの和解が成立したというニュースがあり、そこからさらに時間をかけて、ようやく本書発売の運びとなったわけである。同時に5巻までの既刊は絶版となり、ISBNを変え、まったく別の本として「ハイスコアガールCONTINUE」と題して発売されなおされることとなったのであった。6巻と同時発売である。

 

CONTINUEは、以前までとカバーの雰囲気を変えて、少しレトロになっているが、さらに少し分厚くなっている。書き下ろしの短編がすべての巻に収録されているのだ。また本編にかんしては、SNKとの「和解」の結果というか、最終的な落としどころというか、かなり修正されている。くわしく検証されているサイト様もあるようなので特に記さないが、基本的にはやはりSNK関連の描写がなくなり、ストⅡなどに差し替えられているようである。しかも、本作に限ってはゲームがただの背景やBGMではなく、骨格であり語彙でありコミュニケーションの方法なので、必然的にその周辺の描写もそっくり入れ替わることとなる。ただ、SNKでも残されている描写はある。とりわけ6巻にまたがっている小春との対戦は、これを抜き去るとはなし全体が変わってしまうというほどのものだから、そのままになっているようである。これが「落としどころ」ということなのだろう。

差し替えで残念な箇所はといえば、いや、再刊行されただけで僕はもうなにも文句はないといえばそれはそうなのだけど、たとえば、プレステを手に入れたという小春が「悟空伝説」を買ったと聞いて、感動するやら驚愕するやら、リアクションをとるハルオの表情である。ここでは、もとは悟空伝説のパッケージの絵がそのまま載っていたものが削除され、ふたりが話しているだけになっているが、あのハルオの表情よかったのになあーと・・・。それから小春の家の前にある筐体で、吹雪のなかハルオがゲームをする場面。もとは、リョウ・サカザキという、条件の難しい相手を出現させた場面を写真に撮ってもらおうとハルオが小春を呼びつける、という場面だったが、CONTINUEでは呼びつけられる妄想をしはするが、それよりも先に心配した小春がおりてきて熱いお茶をハルオに飲ませるという描写になっている(だから小春はカメラではなく湯飲み茶碗をもっている)。ハルオのことなんて嫌いだといいつつ気になって気になってしかたなく、名前を呼ばれて息をきらせて飛び出してしまうなんて、もうかわいすぎて小春にほれてしまいそうだったが、残念ながらこの描写はなくなってしまった。作品として提出するとき、作家はやはり現状考えられる最高のものをかたちにしようと当然努めるものである。まったくちがう形になった本編を読めるというのは無責任ないいかたをすればおもしろいことなのかもしれないが、やはりそこはひとこと残念だなーというところだ。とはいえ、物語が破綻しているわけでも、作品の質やおもしろさが劣化しているわけでもないので、これは年寄りが「昔はよかった」というようなものだろう。年寄りには昔のほうがよくても、若者にはいまのほうがいいのだ。

 

ハイスコアガールは、個人的には、書店員をはじめてから知った膨大な数の漫画のなかでは最高に好きなもののひとつなので、いまやっているウシジマくんとかバキの記事みたいに、本誌連載の感想を書いてみたいとおもったこともある。しかし、もちろん本作は前情報ぬきで楽しめる作品ではあるのだけど、ゲームについてあまり多くを知らない僕では書けることに限度がある。とりわけ、ネットで感想を見ていると、本書には共感の作法で感動をしているひとが多いのである。僕の貧しいゲーム体験でさえ響くものがあるのだから、じっさいに同じゲームを、同じおもいでプレイしていたようなひとたちにもたらすものというのは非常に大きいだろう。ふつう、文芸批評というような意味合いで批評というときは、歴史的位置付けとか、作品外にある情報(それにつらなるほかの作品や連想される作品、また研究)を持ち出して分析していくものである。それに対して、僕の書くものというのは、その場の思いつきである。ハイスコアガールにかんしていえば、登場人物の持ちキャラ、得意キャラとか、使用する技とか、そういうものに含まれているコノテーションを取り上げて分析をすすめるのが通常の意味での批評であって、僕のは人物の関係性と会話のみから背景や構造を推測する、ある意味二次創作である。それをいったら僕は、アウトローの生態にも、空手以外の格闘技についてもぜんぜんくわしくないわけだが、特に本作に関しては、作品外の情報、厳密にいえば「みずからの体験」をもとに読んでいるかたが非常に多いのである。ま、それはそれで、新しい視点を組み込めるはずだから、無意味ということにはならないとおもうけど、たとえばごく表層的な描写に限っても、無口な大野さんなんかは、ゲームのキャラクターの行動を通して複雑な乙女心を表現したりもする。テクスト論的に表示されているもののみを手掛かりに読むことはできても、ひょっとしたら隠れているかもしれないなんらかの表現を、僕ではとても見抜けない。本作にふさわしい批評(というか二次創作だけど)は僕にはできないなと考えたわけである。たとえば、大野さんはザンギエフやハガーのような大男のおっさんキャラを愛用している。5巻にある回想シーンによれば、はじめてゲームセンターにやってきた大野さんには、融通がきかない、使いづらいと周囲にいわれているザンギエフやハガーが泣いているように見えて、それを使っているわけだが、ハルオの分析では、大野さんに重量級を選ばせるのは「内なる怪力精神」ということになっている。たしかに、ふだんの抑圧された生活と、女性であることがもたらしているものが「怪力」を求める可能性はじゅうぶんある。こういうふうに、大野さんがザンギエフをつかっているというなんでもないことの背後にも、いくつもの解釈可能性が潜んでいる。そして、僕は小春愛用のフォボスのなんたるかをまったく知らない。作中によく登場するにもかかわらず、なんのゲームのキャラであるかさえ調べないとわからない(ストⅡとファイナルファイトはやったことあります)。大野さんがザンギエフを選ぶのに必然性があるのと同じく、小春がフォボスを選ぶことにも、作品として明らかに意味がある。が、それはテクスト論では導くことができないのである。

 

さて、6巻の展開だが、大野さんの姉がいろいろと世話を焼いて、強敵だった大野さんの家庭教師・業田萌美と多少わかりあうことができた、という、かなり前に進んだものになっている。基本的に構成はラブコメなのだけど、ハルオが鈍感なガキなので、恋愛面ではまったく進行のないのが常態だったのが、かなりの進展を見せているのである。おもえば、本作のはじまりは小学6年生だったが、もう彼らは高校生なので、けっこう直接的な展開になってもいいお年頃なわけである。小春は5巻ですでにハルオに告白し(だからといってその後のハルオの態度が変わらないというのがハルオは男前である)、今回も大野さんはかなり(大野さんのわりには)アクティブに表現をしようとしている。そして、ハルオもようやくじぶんの気持ちや相手の気持ちがわかるようになってきているのだ。そういうわけで、6巻は、久しぶりということもあってか、これまでの雰囲気とはだいぶ異なってきているのだ。

ラブコメというわけではないけれど、恋愛を題材にした漫画で、僕のいちばん古い記憶にあるのは、桂正和の「I”s」である。高校生くらいのはなしだ。当時の僕は、非常に狭量な男だった。漫画なんて当たり前のものを除くとほとんど読んだことないのに、恋愛マンガなんて読むものじゃないと本気でおもっていたんじゃないだろうか。桂正和のことは知っていたが、ちょっと人前で読むのは恥ずかしい感じの絵柄くらいにおもっていた。狭量というか、ナイーブな子どもだったのである。しかしあるとき、いまおもうと彼はひょっとしてオタクだったのかもしれないが、微妙な距離感の友人のひとりからアイズを貸してもらって、あまりにもおもしろくて、仲間内でそれを読んで語り合うくらいにまでなったのである。

このアイズは、主人公が一貴という男で、彼に関わる女の子も含めてみんな名前がIで始まる作品である。僕はじぶんがはまっているものを周囲のひとみんなに無理矢理読ませたり聞かせたりする迷惑なやつだったので、たぶんいつも連れ立っているような友人はみんなこれを読んでいたはずだが、そのとき、ほぼ必然的に「誰派か」という会話になっていたはずである。ドラクエ5でお嫁さんを選ぶ際、どうしてもビアンカを選んでしまう、「今回はフローラでやってみよう」というつもりでゲームをやりなおしてもやっぱりビアンカを選んでしまう僕は、やはり幼馴染のいつきだったとおもう(フローラを選んで、その後もふつうに生活をしているビアンカ、町を訪れればふつうにそこにいて会話のできるビアンカというものをどうしても想像できなかった)

そんな記憶の細部はどうでもいいのだけど、重要なのはこの「誰派か」という会話が生じていたことである。ハイスコアガールの愛読者会みたいのがあって、そこでアンケートをとったわけではないのであくまで皮膚的にはということだが、どうも、この作品にかんしては、ハルオに恋する大野さんと日高小春というふたりについて、「どちら派か」という発想になりにくい感じがするのである。アイズにおいて「誰派か」と議論するのは、むろん一貴に、厳密には一貴のポジションに感情移入しているからだ。だから、じぶんならどうするか、という仮定が成立しうる。しかしハイスコアガールでは、じぶんがハルオポジションだったらどちらに傾くか、という問いじたいがなぜか発生しにくいのである。これはずいぶん不思議なことである。恋愛じたいは近代では人類普遍で、多少の差はあれ、アイズ的な感情の揺らぎをひとは経験しているが、しかしあんなハーレムみたいな状況になることが誰にもあるかというと、まあないわけである。にもかかわらず「誰派か」を議論してしまう。対してハイスコアガールは、アイズに比べれば、客観的にはモテモテであっても、周辺の装置はずっと身近で、ハルオも感情移入しやすいタイプである。だいたい、最初に書いたとおり、本作はふるきよきゲームへの郷愁が原動力になっているのだから、共感しつつ読むのが当然の作法とさえいえるのである。にもかかわらず、そうならない(ようにおもえる)。ほんらい男ばかりのゲーセン社会に女の子がやってくるということじたいがファンタジーということなのだろうか。

 

これはおそらく、ゲームも含めたハルオの環境への目線が、大人のものだからではないかと考えられる。今回で萌美とはほぼ和解したと考えてもいいようなので、少なくともハルオと大野さんとの関係を邪魔するものは、加齢にともなう環境の変化以外はなくなったとみていいだろう。この以前までのふたりの関係は、恋愛を描くときの基本形といってもいい、宝塚の十八番である「公と私の対立」という構造だったわけである。ここでいう公とは、社会をそれたらしめる秩序とか、当事者の感情とは無関係に機能しているなにかしらのシステムのことを指し、私とは彼らの感情のことである。たとえばロミオとジュリエットだったら、対立するふたつの家の人間であるという、生まれる以前から決まっていた属性が、彼らの愛の成就を阻むことになる。ハイスコアガールでは公にあたるものが萌美というひとりの人物に集約されていたので、和解もそれほど難しいものではなかったということもあるだろうが、たとえば萌美だけでなく、大野家全体があのような方針であったなら、こんなふうにうまくは運ばなかったにちがいない。

この障害が除かれたいま、次にテーマとなるのは、小春との三角関係である。というより、この障害が取り払われたことで、ようやく正面からこの三角関係を描けるようになった、といったほうがいいかもしれない。ここから先の展開は、おそらくいままでとはまったく異なったものになるだろう。ほとんど第二部といった様相になるかもしれない。

ともかく、それ以前までは、萌美という公のポジションの人物が邪魔をすることが、ハルオと大野さんの関係の深化を阻んでいた。阻んでいたが、しかしまったく停止させることはなかった。そこには何人かの大人の理解者がいたからである。それはたとえば、大野家のじいやであり、ハルオの母親であり、大人ではないが、ハルオの友人の宮尾である。新しいキャラでは大野さんの姉もそうだし、あるいは萌美もそうなっていく可能性さえある。こうした俯瞰のできるキャラが、そこかしこに配置されることで、無垢なふたりの関係は、少しずつ深まっていったのである。これは、高気圧と低気圧みたいな、あるいは、からだに菌が入って発熱するようなもので、環境のバランスを保ちかたよりを是正するために生じてきた自然な現象であるともいえる(だから、萌美と和解したあとでこのひとたちがどういうふうに変化していくかは予想できない)。大野さんは無口で(というかセリフはいっさいない)じぶんを表現することがないし、ハルオはもどかしいほどに鈍感である。放っておいたら、この漫画はなにも起こらないで終わってしまう。彼らの幸福を願う「大人」がフォローすることで、物語は回転を続ける。作品としての目線が、この「大人」のものであるのではないか、というのが、この件についての僕の仮説である。

 

ではどうしてそうした視点が導入されているのか。それは、ゲームに対する情熱と恋愛感情が、無垢であるという点では同質だからである。ゲームというのは、つきつめればただの遊びで、今後の生活、要は大人になってなにかの役に立つということが、表面的にはない。本書を読んでいればそうでもないことはわかるのだが、たとえば「英語を覚えていれば今後の国際社会で都合がよい」というような文脈には、決してゲームが落とし込まれることはない。ひとことでいって生産的ではないわけである。これにはいくらでも反論することができるが、役に立つかどうかが将来の職業についてのことをいっているのだとすれば、ごく狭い業界以外ではそういうわけにはいかないし、そもそも役に立つかどうかというものさしじたいがゲームとは無関係なわけである。そこにはやはり少なからぬ幼児性が不可欠であり、そして、それを肯定していくことがむしろ人生を豊かにしていくのだということを、本書を読むひとは理解しているはずである。

恋愛感情も実は同様である。恋愛感情をひとことで説明するとすれば、要は「このひとといっしょにいたい」ということである。この感情は、相手やじぶんがどういう状況にあるかということとは無関係におとずれるものである。英語では「fall in love」というが、「恋に落ちる」という表現はおそらくこれを直訳したものだろう。わたしたちは、相手の家柄とか社会的羈束とかを考慮して、「よし、これなら恋してもいいだろう」と理性的に判断してから恋に落ちるわけではない。そういうのとは無関係なところで、場合によっては意にそわないしかたで、恋に落ちる。それがたまたまなんの障害もなければそれでよい。しかし、ときにはその恋がさまざまな問題を呼び込む難しいものであることもある。恋愛作品が公と私の対立を描くのを基本とするのは、それが恋の不如意さ、制御のできなさを間接的に示すものだからなのである。だから、年齢を重ねるごとに「恋に落ちる」ことは難しくなる・・・ということまで書くと長くなるのでやめておこう。

 

両者には幼児性、大人になるにつれ失われる不可抗力的なものが共通してある。恋愛についての押切先生の解釈は見えてこないが、少なくともゲームにかんしては、感謝と、郷愁と、幸福感がよく伝わってくる。ゲームにすべてをささげる少年の姿を肯定的に描く姿勢が、その目線に内在しているのである。おれが大人の目線だ。無垢なもの、衝動的なもの、こうしたものを懐かしみ、大切に考える気持ちが、作品全体に満ちているのである。おそらくこうしたことが、作中にじいやのような「大人」を呼び、同時に、わたしたちにも大人の目線をほどこしていくのである。

 

これでなんの障害もなくなった大野さんとハルオなわけだが、日高の気持ちも切ないほどに丁寧に描かれている。これからこの三角関係はどうなっていくだろう。いまは、これからもふつうに連載がされて、単行本が発売されるのだということへの幸福感で胸がいっぱいだ。どうあれ再開されてほんとうによかった。関係者のみなさま、この漫画を復活させてくれてほんとうにありがとうございます。





↓以前の記事です。


『ハイスコアガール』押切蓮介

『HaHa』押切蓮介

・『ぐらんば』押切蓮介




ハイスコアガール CONTINUE 1巻 (デジタル版ビッグガンガンコミックスSUPER)/スクウェア・エニックス
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ハイスコアガール CONTINUE 2巻 (デジタル版ビッグガンガンコミックスSUPER)/スクウェア・エニックス
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