闇金ウシジマくんドラマ&映画 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

山田孝之主演『闇金ウシジマくん』ついに完結 新ドラマ&映画2作が公開 Yahoo!ニュース





ウシジマくんは休載ですが、うれしいニュース。闇金ウシジマくんが3度目の実写化だ!

いちおうスピリッツ本誌にも目を通したけど、まだ記述はない。来週の第400話で大発表があるというあおりなのだが、この件がそれなのだろうか。

ニュースによれば、7月にドラマがはじまって、秋には映画が2本連続で公開されるということである。7月って、もうすぐじゃない・・・。たいていの漫画原作のドラマって、それこそ1年も前から告知されてたりするけど・・・。第400話ということに合わせて、あえて急な発表にしたのだろうか。そうすれば、告知の記憶も生々しいままに公開できる。それに、すでに映画は2本撮られているから、たとえば1年前から告知していたりすると、以前のものと混同し、体感的にそれがいつのはなしなのかよくわからなくなってしまうということも考えられる。

個人的には原作ファンなので、ドラマ化映画化に関しては、興味がないとはいわないが、このあいだの、宝塚雪組のるろうに剣心を諸事情で見逃したようなことと比べれば(20年以上宝塚を見ているがたぶんいままででいちばん悔しい)、いまだに映画を1本も見ていなくてもそれほど切迫感はない。ドラマのほうは、シーズン1のほうは毎週見ていたし、シーズン2も、見逃した回もあったけどいちおう触れていて、嫌な気持ちになるこのおはなしをテレビでやるにあたっておそらく施された意図的な軽薄さは見事なもので、これはこれでおもしろいのだし、それとして成立しているものなんだなと、あんまりドラマというものを見ないものとしてへんに感心してしまった。とはいえ、好きな漫画がさらに耳目を集めていろいろなひとの感想が流れることじたいは作品にとっていいことだし、言祝ぐべきことだとおもう。


それで内容なんだけど、映画のほうはまだなにもわからないようだが、ドラマが洗脳くんをやるというのである。見間違いではなかった、映画ではなく、ドラマで洗脳くんをやるのである。洗脳くんといえばウシジマくん屈指のグロ描写にあふれていて、ふつうにやったらR15とかになりかねないおはなしだ。同系統だが描写的にはたぶん洗脳くんを上回る「冷たい熱帯魚」が18禁なので、だいたいそのくらいだろう。テレビではそういう制限ができないので、ふつうに考えたら洗脳くんは映画がふさわしいとおもわれるのだが、そこは製作者のチャレンジというところだろうか。つまり、グロ描写はおそらくされない。それを踏まえたうえで、つまり具体的な描写なしで、洗脳くんの恐怖は実現可能なのかどうか、難しいわけだが、あえてそれを選んでいるところに、製作者の作品作りへの意欲が逆に見て取れるのである。


配役としては、上原まゆみに光宗薫という、AKB出身のカワイコちゃんで、神堂に中村倫也(ともや)という、映画や舞台が活動の中心っぽいかたになっている。中村さんのブログ によれば撮影は去年の夏に行われたらしく、やはりこの告知に関してはかなり計算されているものらしい。映画のほうの状況とも合わせて、ちょうど400回ということもあるから、一気に周知しようということになったのだろう。

レクター博士を演じたアンソニー・ホプキンスみたいに、ある特定の役がハマりすぎて、イメージを払拭できず、のちのちの仕事に影響するということはよくある。ブルース・ウィルスがマクレーン刑事にしか見えないということがあってもたいして問題はないかもしれないが、しかしその役がレクターみたいな猟奇殺人の犯人だったりするとわりと厄介である。そういう意味では神堂なんてだれもやりたがらないとおもうんだけど、中村さんのブログを読む感じではそういう素人の心配は余計なようだ。

ドラマ版の軽薄さは、テレビという、慎重さを要するメディアで、不特定多数のひとびとが目にするという状況で考え出された方法で、ひとことでいえば読者(視聴者)の距離感にかかわっている。たとえば、原作1巻におけるウシジマくんでは、基本的に丑嶋社長は身体的に、身の危険を感じる近い距離に立っていて、わたしたちは丑嶋社長を見上げるようにして、その威圧感を感じていたはずである。2巻以降、その雰囲気は失せていったが、その第三者性のようなものが、異形のものとしての債務者たちが抱える地獄が、実はわたしたちの抱えている地獄と、形状としてはたいしてちがいがないのではないかということを悟らせる仕掛けになっている。彼らの転落を読者は基本的に(ベラのときほど近くではなく)他人として眺めているが、しかし、感情移入不可能におもえる「異界のひとびと」の人生に、なぜかわたしたちはじぶんの人生を見出してしまうのである。1巻までは、わたしたちは、ベラの痛みを感じながら、社長を見上げてきたが、2巻以降、視点は少し離れ、社長の脅威を感じることはなくなったが、それを受ける債務者に感情移入しないわけにはいかなくなってしまったわけである。

そして、ドラマでは、わたしや、わたしたちや、債務者ではなく、不特定多数の「大衆」がそれを受け止めることになる。それを想定したものが、よくもわるくもテレビ的表現というものなのだ。シーズン1に片瀬那奈の大久保千秋というオリジナルキャラが置かれたのはそういう意図があったはずだ。当初千秋は、カウカウを理解できないものとしてなかば「上から目線」で見ていたが、これは物語をじぶんとはかんけいないものとして、異物としてとらえる大衆の立ち位置なのである。だから、ドラマ全体もおかしみを含んだどこか軽いものになっている。

その軽さを保持するためか、ドラマはひとつのエピソードにかかりきりになることがなく、ポリフォニックに、カウカウを訪れるひとびとの物語が、交わるでもなく、同時進行するという方法も採用していて、じっさいこれは有効だった。ドラマ内の物語がいち挿話にすぎない、「特殊」ではないということが、そのことによって告げられているように感じられたのだ。しかし、今回は「洗脳くん」をやるということになっているし、だいたい洗脳くんにほかのエピソードがからんできてもどうしようもないかもしれない。逆にいえば、あの軽さと洗脳くんの重厚感のあいだにどう折り合いをつけるのかというところが、非常に気になるわけである。


映画のほうは、まずパート3を踏まえて、そのあと完結編をやるらしい。映画はひとつも見ていないのだが、ドラマと同じ世界と考えてよいのだろうか。完結ということになると、ヤクザくんをやるのかなという気もするが・・・。





↓闇金ウシジマくん 37巻 6月30日発売予定





闇金ウシジマくん(37): ビッグ コミックス/小学館
¥596
Amazon.co.jp