今週の刃牙道/第104話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第104話/何者






銃を持ち出して武蔵とピクルの対戦を阻もうとしたペイン博士だが、武蔵の実演つきイメージ刀でずたずたにされ、あっさり敗北してしまった。前回その後の描写はなかったのだが、今回は部屋のすみっこにうずくまって呆然としているペインが描かれている。右手首がはずれているのでそれも痛いだろうから、こう、右ひじあたりをおさえているが、それも気にならないくらい、さきほどのイメージ攻撃に衝撃を受けている。ペインは、刃の冷たさまで認識して攻撃を受けてしまった。このひとの専門はなんだったんだっけ。いずれにしても学者であるから、人体の構造は熟知しているにちがいない。そのことがおそらく、ペインの想像をよりリアルにさせる。断たれる筋肉や脂肪、骨、内臓のイメージが、ありありと浮かんでくるのである。頭部を断たれたことによって噴出した血液の温かさやその軌道まで認識してしまった。ふつうのひとは首を斬られた感触を語ってきかせることができない。それは死と等しい状況であり、死について誰も語ることができないのと同じく、それがどういうものかは実際には誰にもわからない。つまり、ペインは想像的に死ぬことを経験したのである。


体育座りで脱力しきってしまったペインの目前では、武蔵とピクルのたたかいが本格化している。ピクルは大きく叫んで、武蔵がもたらしてくるイメージを振り切ろうとしているらしい。それは、火山爆発の猛威であり、デイノニクスのシャープさと狡知である。火山は、おそらく武蔵のもたらしうるものの規模を、デイノニクスは機能そのものの広さとか豊かさみたいなものを示しているとおもわれる。

ピクルが仕掛ける。常人なら一撃で即死するとおもわれる横蹴りで、ピクルの打撃の描写はほんとに気持ちいい。しかし武蔵は上体をねじってそれをかわし、同時に振りかぶることになった両手を、伸ばされきったピクルの足に叩き込んだ。手が上にある時点では、例の人差し指で保持した、刀を仮想した構えになっているが、叩き込むときにはふつうに鉄槌になっている。じっさいに鉄槌で攻撃し、なおかつイメージで刃物での攻撃を行っているわけである。なるほど、この、じっさいに行われていることと、武蔵が刀をもっていた場合に起こりうることの一致が、無刀の極意なのかもしれない。ピクルはふつうに痛がっている。ふくらはぎを一周するようにあざもできていて、ほとんど超常現象である。これは、リアルシャドーの説明をバキがしていたときの例の、赤ん坊がやけどをする現象に近いのかもしれない。なにか熱いと理解したものを、冷えた状態であてがっても、赤ん坊はやけどするというものだ。しかしそのためには、今回でいうと刀で斬られるということをピクルは経験していなければならない。そのために、おそらくピクルにおける「刃」であるところのデイノニクス想起が必要だったのだ。ピクルは、デイノニクスの爪で切られるという経験を経由して、武蔵の刀をみずからの身体に実現しているのである。


また、武蔵のほうでも、じっさいには断っていないピクルの身体を実感している。せいぜい肉に食い込む程度で、骨を断つまでにはいかない。ピクルの豪快なアッパーもぎりぎりのところで見切り、今度は胴体を斬りつける。しかしやはり深くは傷つかない。飛び出す臓腑が見えないと。武蔵はこれまでたたかってきた強者、勇次郎、バキ、烈、渋川、独歩を思い浮かべ、そのどれとも異なっていると考える。いったい何者であるかと。そしてその問いは、そもそもピクルが「何者」であるかというところから、ピクルが「何者」とたたかってきたか、というふうに変化していく。これは、たたかう相手によってその人物が「何者」であるかが変わってくる、という認識のしかたを武蔵がしていることを示す。


そうやって考えつつ、武蔵はピクルのイメージをはっきりと見るようになってきた。勇次郎に見たのとほぼ同じとおもわれる黄金の山と、たぶん武蔵を讃えているとおもわれる無数の手、つまり名声である。これを見て武蔵は笑い、とっとと決着をつけようという気になるのであった。





つづく。





短いし相変わらず全然すすまなかったが、いろいろおもしろいことが起こっている。


まず前半の、ほとんど不要にも見えるペインの感想だ。これは要するに、ペインのような武術の素人でも、斬られるということについてある程度の補助があればリアルに想像することは可能だということである。それまでの武蔵は、じっさいのからだは動かさず、ただイメージを投げかけることで相手に攻撃をしかけていた。しかしこれには、イメージを受け取る側にも熟練を要求する。武蔵ほどの達人でなくても、ふつうの組手の最中ではごくわずかな技の兆し、サインの投げかけあいが、わたしたちの防御行動を可能にしている。蹴り足が地面を離れてから蹴りがくることを認識し、さばきの行動にうつったのでは間に合わない。くりかえしの訓練によって、それこそ僕みたいな色帯の道場生でも(もちろん互いに同レベルであればということだが)、しっかり蹴りをさばいたりカウンターをとったりできるようになるのは、相手の重心の移動とか、肩の動きとか、そうしたことを経験してからだが覚えていくからなのだ。武蔵のイメージ攻撃はそれの超応用といってよいだろう。目線や表情に限ったごくわずかの動きで、続く動きを相手に投げかけていくのだ。であるから、受け取る側にもそれ相応の力量が必要になる(バキたちに比べればほぼ素人といってもよい警官がこれを受けていたこともあったが)

だから、これはずぶの素人には通用しないと考えたほうがよい可能性があった。その点でいえばペイン、そしてじつはピクルは、まさしく素人である。武蔵のイメージを明瞭に受け取るために必要な要素はなにか、はっきりとしたことはいえないが、ひとつには刀をふるう人間をいちどでも見たことがある、というようなことも、けっこう重要なのかもしれない。また、動作じたいの合理性とか、それに似た動きを経験したことがあるとか、そういうことも重要だろう。また、ピクルは前言語の世界に生きているので、「イメージ」というものをそれとして受け取ることも困難だろう。バキが形象拳で恐竜を実現していったことにピクルがあれほど慄いたのも、イメージ界と現実界が截然と分離してはいなかったからではないかとも考えられる。もし目の前にいる武蔵がじっとしたままイメージ攻撃を仕掛けて、ピクルの脳裏になんらかの動きが察知されたとしても、それが現実とは異なるイメージの動きであるということが認識されないため、ピクルは現実の動き以上のものとしてはそれを扱わず、たたかいの緊張感のなかではほとんど前景化しないのではないだろうか。ピクルには、イメージだろうが現実だろうが、脳裏にうつっているものすべてが対応すべき「現実」なのであり、そうした状況では、わたしたちが現実と呼ぶところの「じっとしている武蔵」をおそらく優先させるとおもわれるのである。

しかし、それは技の細部がわからないというだけで、殺気のかたまりのようなものは、脇で見ているだけの光成でさえ、最近は認識できるようになってきた。ピクルも、寝ているところ起こされたのはそういう殺気の塊が原因だったとおもわれる。ただ、武蔵は首を斬ったが、ピクルはどうも「首を斬られた」とは認識していないようだった。要は、なにか迫力のある波動のようなもの全体を感じ取って、起き上がったのである。

そうしたピクルの素人具合に気づいたのかなんなのか、以降武蔵は素振りの実演つきでイメージ刀をくりだす。これは、殺気の塊の細部を解釈する技量をもたぬものにそれを伝えるのに有効な方法だろう。ペイン博士の、斬られたことについての感想は、つまりピクルの感想と実は等価なのだ。武術を修めているわけではないという点で、ペインとピクルは武蔵の前で等しい存在だ。これは、武蔵がピクルに向かって行っていることについての感想なのである。


しかし、ペイン博士とは比べ物にならない頑丈なからだのピクルは、かんたんには斬れることがない。武蔵は今回、振り下ろすイメージ刀にあわせて鉄槌を叩きおろしていたが、おそらく同様に、手刀なども、ただあてがうだけではなく、ホンモノの刀をそうするように滑らせ、場合によっては叩きつけているとおもわれる。ここに彼の奥義であるところ無刀の正体があるようにもおもえるが、まだ描写がたりないので、そこには深入りしないことにしよう。

とにかく、ピクルのからだは切れない。それについて、武蔵はピクルが「何者」であるかと問い、やがてその問いを発展させて、「何者(なに)とたたかってきたか」と問うようになる。これは、武蔵がその人物の分析をして、何者であるかを考える際に、彼がなにとたたかってきたかをもとに考えるということを示している。つまり、少なくとも武蔵においては、そして格闘においては、その人物は「たたかってきた相手」によって構成されているのである。これはなかなか重要なことにおもえる。もちろん、技術の成り立ちというのは、無数の他者によるものだ。ピクルがバキの技術に恐怖したのは、そこにバキではない別の人物の歴々とした足跡を感じ取ったからである。つまり、ピクルもまた、武蔵が見抜いたように、無数の他者、つまり恐竜たちから成り立ってはいるが、それとバキの成り立ちは異なっているのだ。構造主義的な言語学でいえば、わたしたちはつねに「それ以前に誰かが口にしたことのある言葉」を使用している。母親が、父親が、先生が、友人が口にすることばを吸収していくことで、語彙が堆積していき、個人のエクリチュール、つまり文体というものが形成されていく。わたしたちが他者から成り立っているという発想は、だから構造主義のものなのだ。そこにはオリジナルというものが存在しない。ピクルが感じ取ったバキのそうしたありようは、彼が強くなるための目的に一致している。彼が目指していた父・勇次郎は、世界そのものと等号で結ばれる強さの持ち主である。バキが世界を巡って修得し、また体験したどのようなことも、父はすでに修めているか、実行できた。そんな勇次郎に追いつくためにバキが強化したのが、ゴキブリさえも師匠にしてしまう無限の想像力である。通常、修得すべきものとして想定されていないものからさえもヒントを導き出し、強くなってしまう、そういう方法でしか、バキは父に追いつくことができなかったのだ。

そういう目的があるから、バキのなかには、これまで世界のあらゆる場所から掬いだしてきたヒント、つまり他者が息づいている。バキは流派をもたない。それは、「なにものでもありうる」父に追いつくためには、「なにものか」であってはいけないからだ。その「なにものか」がどのようなものであっても、それはすでに父に含まれているものである。だから、バキはオリジナルをもたず、なにものでもない流儀と構えで、無数の、勇次郎さえ想像しないような他者を宿していったのである。

そういう意味でいえば、バキも「なにとたたかってきたのか」ということでその強さのありようが決定しているわけだが、おそらく武蔵のいっていることはそうではない。そもそも、バキでは「何者であるか」ということが重要ではない。それどころか、それにこだわることは、父への道を阻む障害となる。ところが、武蔵はピクルに「何者であるか」と問いかける。まずこうした問いが出てくるということは、そしてそこから「何者(なに)とたたかってきたか」という疑問が出てくるということは、武蔵じしんの、じぶんについての発想がそのようなものであることを示している。たたかってきた相手によって決定するわたしは、にもかかわらず、「わたし」であることをやめることがない。ある変わった相手と対戦することで、「わたし」は微妙に変化するかもしれない。バキは、そもそもその「わたし」を想定しない。しかし武蔵では、「わたし」は変化するだけであり、失われることはないのである。


バキが打倒勇次郎のためにいわば他者の「量」でその強さを蓄えていったとすれば、武蔵はその形状、「質」で強さを決定していったと、乱暴にいえばこういうことになるかもしれない。たたかってきた相手が豊かであればあるほど、表面の形質もさまざまであり、柔軟な対応が可能になる。このあたりは武芸百般にも通じるものがあるかもしれない。そして、このエゴイスティックともいえるありようは、武蔵の動機ともかんけいがあるだろう。武蔵はピクルにも富と名声を見る。こんな地下の小部屋でピクルを圧倒しても、じっさいにはなにも得るものはないかもしれないが、これは要するに武蔵なりのスカウターである。その強さの大きさを、それが可能性としてもたらし得るものに変換して、武蔵は見ているのだ。たとえば、ごくたんじゅんにいって、ドラゴンボールの世界のスカウターなら、相手の強さを数字で算出するわけである。これはこれで、各自の強さを交換可能なものと想定してしまうので、方法としては問題はあるわけだが、各個性を認めつつも、似たようなことは各自やっているだろう。それは、武道の技術というものが多かれ少なかれ他者の蓄積であることと無関係ではないかもしれない。絶対者であった勇次郎がそういう存在であった、ということもあっただろう。最強者が無限の存在である以上、強くなるということは量を極めるということにほかならなかった。しかし武蔵は、相手の強さを「じぶんになにをもたらすか」というふうに測定する。達人にはお花畑を見たり、そうでない場合も多いわけだが、このお花畑も、武蔵にとっての楽園、未知の、新しい技術の入れ物という意味合いがあったことだろう。つまり、武蔵における相手の強さの測定方法は、いわゆるスカウター的なものが客観的な数字に基づいているのに比べて、完全に主観なのである。「わたしにとっては」なのだ。徹底的に「わたし」にこだわりながら、その形状の変化については他者に依存している、そういう、やはり勇次郎とはまた異なったありかたの人物なのである。





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