第392話/逃亡者くん④
東京でしでかしてしまったことのもたらす不安と、沖縄での疎外感のようなものがマサルをひどく弱らせてしまっている。仲間という、沖縄で唯一村田仁がマサルだということを知っている人物に、なかば無理矢理紹介されたデリヘルでは、しかしマサルは感情を解放して泣いていた。そのときのことが思い出されるのか、マサルはまた彼女を寄越すように仲間に伝える。仲間は大学生みたいなのりでひやかす。なんだかよくわからないやつだよな・・・。
あの女の子は「のどか」というらしい。あとで夫もそう呼んでいるので本名だろう。ふつう、こういう仕事はトラブルが多いから源氏名をつかうものだろうけど、そうでないということは、沖縄ではトラブルが少ないということかもしれない。
前回引きに使われた、マサルを尾行する黒い影、これは、高田でも誰でもない、カメラをもった丸メガネの男である。探偵かな?マサルの関係者というより、マサルの関係者がやとった誰かというところだろう。
呼んでもらえてうれしいと、のどかは素直に表明し、マサルは顔を赤らめている。なんだろう・・・、前回黒い影が登場したとき、同誌連載のアフロ田中では久しぶりの登場だった大沢もまた黒い影のあやしい人物として登場していた。そして、マサルが顔を赤らめる描写のある今週号では、頭髪がすっかりアレになった大沢が田中たちのマドンナ・エリちゃんにマジ惚れしている。頭髪ネタで進行する田中の流れからするとマサルの頭髪もまた・・・。
終わったあと、マサルがのどかにいろいろ訊ねている。のどかは、昼間保育士をしている。手取りは12万で、土日ほぼ休みなしで家に帰ってからも仕事があるというから、なかなかしんどい生活である。子どもが好きじゃないとやっていけない。しかし、お給料的に割りに合わないといっても、いちおう12万はもらえている。8万もあれば沖縄では暮らせるんじゃないのかと、どこで聞いたのか、マサルはいう。風俗やる必要はどこにあるのかと、やらなくてもいいんじゃないかと、こういうおはなしである。
のどかは、一瞬停止して、じぶんには1歳半の子どもがいるのだということを説明する。同居している親にほとんど面倒をみてもらってるみたい。ちょうど表情はうつらないが、おそらくマサルはあわてて「結婚してるのか」と訊ねている。してるけど、離婚しようと別居中だという。
それから、母親の借金も100万くらいあるという。借金ということばにマサルは敏感に反応する。消費者金融か闇金か、のどかにはちがいがよくわからないが、個人のところからいくつも借りてると。だとしたらマサルでもどこから借りてるかわかるかもしれない。マサルが母親の名前を訊ねる。母親は高良栄子。金城がマサルなどに他業者のふりをさせて105万貸し付けている、あのおばさんなのであった。
仕事場でマサルが高良の写しを見ている。いろいろ記録されているだろうから、じっさいの借金額がわかるのだろう。それを見て、金城は比嘉のはなしを始める。例の、野球賭博に勝ったといっていた男だ。うそをついている感じはなかったが、マサルの予感したとおりじっさいはボロ負けしており、逃げたらしい。担保にするといっていた漁船はとっくに銀行におさえられていた。沖縄ではあんまり深く追いかけることはしない。金城は比嘉から30万回収することをあきらめている。ただ、かわりに別のところで利益を出せばいい。マサルが高良栄子の記録を見ていたから、そのプランを思い出して話題にしたのだろう。金城は高良にもっと金を貸して、利息をたくさんとるつもりである。高良について金城は妙にのんびりしたところがあり、「打ち出の小槌」があるとしていた。前回調べたところで、米軍に関係することかと推測したが、そんなややこしいことではなく、要するにのどかのことなのである。若くて美人で、しかもすでに風俗の仕事に片足をかけているのどかである。本格的に高級ソープに沈めれば100万なんてかんたんだと、こういうことなのだった。
のどかが自宅に帰るところだ。気づかれない位置にマサルがいる。たぶん、さっき事務所で記録を見ていたのは、住所を確認していたのだろう。家の中には迷彩服のえらそうな男がいる。これが旦那のようだ。奥には子どもを抱いた高良栄子も見えるが、震えている。
もう別れるつもりであることは伝えてあるはずだという意味だろう、もう他人のはずだと、のどかは弱々しくいう。が、旦那は通して強気の態度で、どういう論理か不明だが、唐突に10万よこせという。事実として生活は苦しいし、母親は借金している。「他人」である旦那にわたす金などない。しかし旦那は勝手に財布をあさり、数万を手に帰っていく。そのとき、のどかを突き飛ばすような音がして、マサルもそれを耳にしている。なかが見えたわけではないが、男の様子などからして、マサルのような人間には手に取るように風景が見えたことだろう。なにかこう、悔しそうにマサルは目をつむる。のどかはじぶんが救う。そういうふうに決断するマサルの背後を、今日も丸メガネがつけているのだった。
つづく。
ちょっとだけ方向性が見えてきたな。
まず黒い影の男は、知らない丸メガネだった。おそらく、誰かに雇われて、マサルのことを調査しているのである。調査するからには、マサルのことをよく知らないということになる。丑嶋や井森やなんかが、最近沖縄にきて闇金をやっている男を一通り撮ってきてくれ、などと指示するはずがないし、男は明らかにマサルに目的をしぼってつけている。村田仁がマサルであることがわかっているなら、動けないとしても丑嶋たちならもう少し直接的な方法をとるだろう。だから、おそらくこの男は背景が不明の「村田仁」という男を調べているのである。沖縄にきてから登場した人物でこんな男を雇えそうなものは仲間と金城しかいないが、仲間はいくらなんでも軽すぎる気がする。たぶん、いろいろ不審な点のある「村田仁」を、金城が探っているのだろう。まあ、おもえば、こんなアウトローの業界で、みんなが逃げてくるような沖縄に開店しているわけだから、これくらいのことは経営者として当然かもしれない。
金城が高良に見出していた「打ち出の小槌」とは、のどかのことだった。これはまた、どうとらえればよいのか混乱する展開である。「ゆいまーる」が基本的な精神としてあるといっても、金城のところが違法金利であることはまちがいないし、善をなそうと努力しているのでもない。そのあたりは、ときにはまるで善人のように見えた丑嶋も、じつはたんに利益を追求した結果そういう行動になっただけだった、というのと似ている。特に彼らは金融屋である。とことん実利的な生き方を選択したものたちなのだ。原則としてゆいまーるがあっても、「助け合うこと」に含まれているモラルと闇金業のエゴが同居することは可能なのだろう。殺人犯でも敬老精神を忘れないものはいるだろう。仲間がふざけ半分でくちにしたように、「ゆいまーる」が、都合のよいときだけ引き合いに出される標語にすぎないという可能性はある。しかし、直観にすぎないが、この沖縄のひとびとにとってゆいまーるは「ロールモデル」ではない。「ひとというものはこうあるべきだ」と、当為の理想として掲げられるものではなく、おそらく外部的評価のもとにされたただの「説明」である。たとえばわたしたち日本人に「和の心」というものがあるとしよう。その内実はなんであるかはとりあえずおいて、日本人独特の精神があると仮定する。これについて、「和の心」をもたぬ外国人が日本人のふるまいについての違和感を表明したとき、「それはけっきょく和の心なんだよ」と、果たして我々は説明するだろうか。この外国人を西洋人と仮定すると、あるいは仮定であっても無意識下の劣等感を覚える可能性があるから、もう、宇宙人とかを想定したほうがいいかもしれない。右も左もわからぬ宇宙人が、その理屈はおかしいのではないかとわたしたちに言い立てたとしたら、そもそもわたしたちは、その言い立てられたときにはじめて、じぶんたちにある独自の精神について気づくのではないか。そうした「和の心」がほんとうに民族的な奇習だとするなら、そもそも、その民族を出ないうちは、わたしたちはそれに名づけるということをしないのである。
そういうわけで、沖縄人が「ゆいまーる」とくちにするのは、決まって外部の人間、あるいは外部の思考法に対してなのである。したがって、何重にもわたって危うい推論だが、ゆいまーるの精神はたしかに金城のなかにある。ただし、それは相対化されている。名づけられ、説明されるということがそれを示している。相対化されたものは、その構造が暴かれ、コントロール可能なものとなるだろう。
ゆいまーるは助け合いの精神である。単純に受け止めれば、沖縄には利害ぬきで助け合う習慣があるということである。助け合いでは、見返りを求めてはならない。助けたぶんと等価の助けを求めてはならない。しかしそれは求めてはならないというだけで、結果そうなるぶんにはかまわないだろう。助け合いを民族が選択するのは、そうしたほうがより生きやすい世の中になるからである。あるひとを助けても、じぶんには結果としてなんの得もないかもしれない。しかし得が得られないかもしれないからといって助けないようでは、そもそも誰も助け合おうとはしない。そんな不安定なことに労力を払うより、じぶんの利益を優先したほうがリスクが少ない。とりあえず誰かが見返りぬきに「助け合い」を起動し、しかもそれが運動し続けないかぎり、この精神は民族レベルでの効果を生まないのである。
だから、ゆいまーるを量で、つまり「貨幣」で解釈することはできない。おもえば金融業とは無縁の原則なのである。金城がこれをどう解釈し得るかというと、とりあえず彼は高良に金を貸すことでじっさい助けることができる。そして、金融業としては、そうすることで利益を得ることができる。けれども、ゆいまーるは、結果として利益を得ることとは無関係に、見返りを求めてはならない。性善説的に考えていけば、闇金業というものじたいが金城においては「たまたま」ということになる。ゆいまーる的を行いを金融業において行った結果、偶然、利益を呼ぶ結果になったのである。しかし、沖縄人的心性が「ゆいまーる」と名づけられていることが示すように、これは相対化されている。すでにその構造は外部の目線を経由して当の沖縄人によって分析され、それを計るための、「ゆいまーる」を超えるおおきさのものさしを、彼らは手にしている。彼らはそれを解釈し、利用することができる。誰かを助けることが、助け合いの精神を世間に流通させ、めぐりめぐってじぶんをも救うことになるということを、彼らはすでに知っているのである。くりかえすように助け合いの精神じたいは、見返りを求めることができない。いってみれば、長時間のモデルである。しかし、これを相対化し、分析したものは、「ゆいまーる」が完結し、結果どういうものをもたらすのかを知った地点に立っている。だとするなら、最初からその結果ありきで最短距離を動くのが理性というものである。こうして、おそらく無自覚に、また無邪気に、金城は「ゆいまーる」を採用しつつ、比嘉によって失われた金をこれまで助けてきた高良をさらに助けることで回収しようとするのである。
高良栄子がどうしてそこまで借金することになったか、経緯はくわしくはわからないが、ともかく、親の借金を第一の事情とし、子ども好きだからと続けている保育士に加えてそれほど抵抗なくのどかが風俗の道にすすむのも、おそらくそうした助け合いの精神が起動しているためかもしれない。のどかからすれば、「そういうもの」なのである。しかし、のどかにお金がないのはそれだけが理由ではないだろう。あの様子からして、同居していたときからおそらく金使いはあらかっただろうし、あんなふうにときどきやってきて暴力的に大金を請求してくるのである。そうして奪われるお金は、本来弱い母親のため、そして弱い子どものために稼がれたものであるが、個々のお金には区別がないので、結果としては強い旦那のために彼女は働いているも同然になる。したがって、ここでは、強いものが弱いものを助けるというゆいまーるの精神に生きるものが、弱いものが強いものを助ける(金を払う)という非ゆいまーるの精神によって虐げられているのである。しかも、そもそも彼女が今回ほんの少しでも金をもっていたのは、一生懸命働いたからなのだ。彼女は、ゆいまーるに生きるがゆえ、非ゆいまーるに奪われるのである。ゆいまーるをはじめとした、社会全体に無意識レベルで広がるモラルが、ひとりの人間のエゴに劣るのは、それが民族的選択であるという意味では人工的だからである。各自がおのれの利益のみを追求して行動すれば、世界は普遍闘争に陥る。あるものは一時的に利益を独占するかもしれないが、それもまた論理的にいってまたべつの強者に奪われる。一時的かつ不安定な利益を求めるより、社会相対の幸福の総量をもっとも大きくするルールを定めたほうが、安定的であり、恒常的であり、またひとも死なない。
マサルが生きてきた東京の流儀は、このいいかたでいえば非ゆいまーる、「互いに助け合わない精神」にほかならない。東京では、貸すほうも借りるほうも、「助け合わない」という一点においてのみ意見を合致させる。債務者は、すぐ逃げるし、かんたんに踏み倒す。金融は、ある面ではそれを認める。しかしそのかわり、取立ては容赦なく、また金利もふつうではない。そんな世界で生きてきたマサルが、いってみれば「ふつうに」生きているだけの、ただ母親を助けたいだけののどかに感情移入するというのは、なかなか革命的な出来事である。仲間が「ゆいまーる」を都合よくつかうように、マサルたちも、現実に債務者が「ふつうのひと」であろうとなかろうと、都合よく「東京の流儀」で債務者を読み取ってきたわけである。マサルはのどかを好きになってしまったようだが、もちろん、ここには愛情が関係しているだろう。マサルはのどか個人を守ってやりたい。その感情が先立つことにより、マサルは「東京の流儀」をおそらくはじめて脱したのである。
ただ、マサルののどかへの感情にはやや歪んだところがある。マサルは沖縄にきて、これまで培ってきた丑嶋流が認められず、偽名をつかっているのだから当然といえば当然だが、マサルという個人を見てくれるひともいない状況で、孤独感や疎外感を抱えていた。マサルがのどかの胸のなかで泣いたのは、そこに母性を感じ取ったからである。一般論として、男性というのはそういうものであるということもできるだろうから、歪みというのはいいすぎかもしれない。母性とは、それがどんなにまぬけであろうと、どんなに不良であろうと、その存在を認め、味方となる傾向のことである。細かい前後の事情ぬきでこちら側に立ってくれる、少なくともそう感じさせること、それが母性である。マサルはそれに触れることで、沖縄にきてもはやなにものでもなくなってしまったじぶんの存在を確認することができた。それはたしかに、男女の愛情とよく似ているだろう。精神分析的にいえば同一であるといってもいいかもしれない。のどかがマサルいわく「すれてない」、ふつうの女の子であったことも、これを助長した。「すれてない」というのは、要するに演技くさくない、仕事くさくないということである。そんな彼女の「よしよし」は、マサルを大いに癒したはずである。じっさい、のどかはいい子なので、単純にマサルがひどく傷ついているようだから、かわいそうで「よしよし」したんだろうとおもわれる。しかし、それは果たしてマサル個人の存在に目を向けたものだったろうか。
沖縄はウシジマシリーズでは最後の楽園的なあつかいをされてきた。これを大きく解釈すると、要するに、ゆいまーる的ありようが日本で唯一残っている場所、ということになるかもしれない。たぶんのどかはその象徴となる。それは、ひとことでいえば、かわいそうなひとに同情し、弱いものがいたら手をさしのべるような、ふつうの生き方をした、ふつうの女の子のことなのだ。そこにマサルは母性を見出す。徹底的なエゴのぶつかりあい、普遍闘争の見本のような激戦を経験し、疲れきったマサルが、沖縄で「無償の愛」に触れ、感化されたわけである。そして、構図としては、それはいま侵食されかかっている。「ゆいまーる」は言語化され、解釈可能な道具と化し、のどかは旦那によって機能不全になりかけている。マサルはそれを守るという。こうとらえてみると、マサルにとってのどかを守るということには贖罪の意味が含まれてくる。前回考察した過去との対峙である。マサルを逃亡者くんたらしめているのは「責任の回避」だ。マサルは、「愛沢以後」も丑嶋をうらみつづけ、その失敗の責任をほんとうに負おうとはしなかった。現実には、彼はあのとき死んで、高田(と丑嶋)に命を拾われているので、「できなかった」というほうが正しいのだが、マサルじしんにそのつもりがまったくなかったようなので、これでも問題ないだろう。そのことで彼の生は要所要所で断絶し、破綻をきたしたのである。今回は、物理的に彼が関わった事件により、悪人とはいえ多くの人間が死に、その罪から逃げている。いいかえれば、失敗の責任をとることから逃れている。これは、前回の文脈でいえば「子どもの論理」なのである。おそらく、孤独感やいろいろな感情を経験したことで、マサルのなかにも反省か、そうでなくても後悔の感情が強くわいてきているのだろう。かといっていまから丑嶋社長のところにいって土下座するわけにもいかない。殺されるだけだ。それでいいなら、マサルは自殺をするだろう。しかし問題はそういうことでもない。そうしたせめぎあいのなかで、マサルは贖罪の場所を探す。それはつまり、責任をとって、逃亡をやめ、大人になるということである。マサルはのどかへの感情を経由して、間接的に過去と対峙しようとしているのである。
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