第71話/喝あつッッ
武蔵を逮捕するため、光成の豪邸に警官がたくさん押し寄せてきていた。光成はそれを強権的に抑えつけようとするのだが、武蔵は別に気にしていない。すぐ戻る、ということで、外に出てしまったのである。
と、今回はなにかの回想シーンではじまる。1921年に起きた大本事件というじっさいにあった事件についての語りだ。今回はじめてこの名前を聞いたので、細かいことはわからないが、新興宗教「大本」弾圧事件ということである。
なんだかよくわからないが、要するに、警察がその教祖である出口王仁三郎の逮捕をしようとしているところのようだ。
しかし問題があった。出口の側近であったひとりの武道家というのが、合気道開祖の植芝盛平だというのである。バキ世界には御子柴喜平という、植芝にそっくりで、なおかつ後述の塩田剛三にそっくりな渋川剛気の師匠である男が存在するが、もちろん別人である。わたしたちの世界における実在の人物である宮本武蔵が漫画内に登場している以上、もはやこんなことを気にしてもしかたないかもしれない。おもえば宮本武蔵をモデルにしたキャラというのは、これまでもいそうでいなかったな。
植芝は当時警視庁で指導もしていたという。だから、彼らは植芝が普通ではないということを実感としてよく知っていたのだ。人数の多さでどうにかなるものでもなく、軍の協力は得られないのかとまでいっているものもいる。出口を捕まえるためには、植芝をどうにかしなくてはならない。しかし指導を受けている彼らが、植芝の超人ぶりをよく知っている。人数や安っぽい装備ではどうにもならないのだ。
そうして議論を重ね、彼らは奇策を考え付く。まず消防車で植芝をかこむ。その周囲には数え切れないほどの人間がいる。たぶん100人くらいいるだろう。それくらいの人数でかかっていってもどうにもならないということなのだろうか。
ともかく、その状態で放水をする。当時はどうだか知らないが、消防車の水圧というのはふつうではない。四方から撃たれたらよけるのも難しいだろう。いちどでもとらえることができたら、あるいは絵にあるように植芝でも丸くなって防御の体勢をとるかもしれない。そうなったところで巨大な網をかぶせる。放水で丸くなっている最中であるならこれもかぶってくれるかもしれない。自由がきかなくなったところで、今度は5メートルくらいの長―い棒で10人くらいでめちゃくちゃに打ちまくる。戦闘不能になったところで逮捕と。このはなしを、作者は植芝の高弟である塩田剛三から直接聞いたそうである。渋川剛気そっくりだけど、こっちがオリジナルです。作戦じたいは、植芝が姿を消したために行われることはなかったが、ここで重要なことは、完成された武道家は国家権力をしてここまで畏怖させる、ということだ。
武蔵を見て緊張した様子の警察官たちを内海警視総監が制止する。武蔵は陽気に声をかけて様子を探っているようだが、内海はごにょごにょと小声で隊長っぽいひとに指示して撤収させる。どうも、「万が一」に備えて内海は用意したようである。それが、おもったより武蔵は協力的というかなんというか、別に抵抗もしないので、帰っていいと。
しかしそれを武蔵がとめる。あんまり近くですばやく両手をあげつつ大声を出されたものだから、内海がビクッとなっちゃってる。
武蔵は隊員たちを「兵士(もののふ)」たちと呼ぶ。なるほど、そう見えるか。いわれてみるとたしかにこれは兵士以外のなにものでもないかも。
内海と隊長のはなしが聞こえたわけでもないだろうが、武蔵は、この配備は万が一じぶんが抵抗したときのものだろうと指摘する。多勢に無勢でおさえこむつもりだったのだろうと。そのことについて武蔵の感想はよくわからない。問題なのは、この程度の兵力でこの武蔵を制圧するつもりだったのかと、そういうところだ。そりゃまあ、内海が武蔵の正体をどこまで知っているのか、あるいはどこまで信じているのかわからないとはいえ、ふつうの感覚でいえばじゅうぶんすぎるほどの兵力である。全盛期の大山倍達が暴れたとしても、この人数がいればまず大丈夫だろう。というか、武蔵がホンモノだろうと、あるいは達人は達人でも武蔵を名乗るニセモノだろうと、内海は武蔵のたたかいを見たことがない、ばかり歩いている姿すら見たことないのだから、見誤るのも自然なわけだが、武蔵はそこに食いつくのである。これは、みくびられたとしてほんとうに怒っているというよりは、独歩なんかが上手にやってみせるあの喧嘩のはじめかたみたいなものじゃないだろうか。例の悪魔的オーラを発しながら武蔵は感情を表明するが、じっさいにそうやって気分を害した、というより、ちょっと試してみよう、というくらいなのかもしれない。
オーラを放つ武蔵は、烈でも「仕掛けられた」と判定して攻撃してしまうような、じっさいおそろしいものである。内海やうしろにいる隊長は顔面蒼白になってだらだら冷や汗を流している。
そんな彼らを、武蔵は「喝あつッッ」と大声で叱りつける。ただの大きな声だろうに、衝撃波でも発したかのように周囲の隊員は武蔵を中心にした円を描いてすばやくはなれてしまうのだった。内海がいないなとおもったら、ひとりすばやく隊員の群れの奥のほうに逃げてしまっている。まあ、ほかのひとちがってなにも装備してないしね・・・。こわいよねそりゃ。
大声でみんな逃げてしまうくらいでは、武蔵的にははなしにならない。まあ、いてもいなくても同じことだったわけである。
というわけで、武蔵は明確に「自主的に」捕まることとなった。移動の車のなかで、内海が今回の件の意味について語る。警察は武蔵の罪を問うつもりはないという。そのかわり、取引をしないかともちかけるのだ。警視庁の剣道場では有段者の三輪猛丈という男が待機している。どうやら彼と関係している取引らしい。が、武蔵はそれどころではない。相変わらず移動する車に乗るのは苦手なのであった。
つづく。
なんだか不思議な回だったなとおもったら、今回のはなしにはレギュラーのバキキャラがひとりも登場してないんだな。ドアの向こうにいるにちがいない光成さえいちども描かれなかった。久々にバキを読むというひとが今回だけを読んだら、タイトルを確認してしまうかもしれない。
はじまりかたも変わっていた。梶原一騎の手法ということでいいだろうか、「作者」の名前が登場したことは過去にもあっただろう。たしか克己対花山で、みぞおちを踏み台にして云々という大技を克己がくりだしたとき、この方法がとられていたはず。それから、今回植芝盛平と塩田剛三そのものが登場した。作中に実在の人物が登場したこともまたいくらでもある。作中にその人物をモデルにしたキャラクターがいたうえで登場することもあるのである。たとえば、大山倍達やモハメド・アリである。このことについては、あくまで手法であるということで片付けることは可能だろう。難しく考えることはない。板垣恵介という人物が「バキ」という世界をつくっていて、そのなかのエピソードに箔をつけるために、読者にとってより身近な、つまり「実際の」出来事を引用するのである。そうすれば、作中の奇抜な展開も真実味を帯びることになる。なにも問題はない。ただひとつ問題があるとすれば、当の作中に実在の人物である宮本武蔵が登場しているということである。
これまでたくさんの実在の偉大な武道家や格闘家がモデルとされ、キャラクターが創出されていったが、おもえば宮本武蔵をモデルにしたキャラはいなかった。いやまあ、それをいったら、織田信長をモデルにしたキャラもいないし、呂布も関羽もいないし、きりがないが、宮本武蔵も「実在の偉大な人物」として描かれてきたことはまちがいない。つまり、作品として、作者として、偉大でなおかつ近しい人物として、武蔵は認識されてきたはずである。そしてそうした人物こそが、これまでモデルに採用されてきたのだ。現実的な理由としては、たんにこれまでのたたかいが素手中心だった、ということはあるだろう。闘争への心構えとか精神性を語るときに武蔵はつかえたが、具体的な技法になるとバキたちの演じるものとはまた異なってしまうからだ。しかし、直覚的には、武蔵というのはなにかこう、わたしたちの住む現実世界と漫画の世界の接合点のようなもののような気がする。宮本武蔵は光成の姉・寒子に魂を呼び寄せられてこの時代にやってきた。武蔵というのは実在の人物なので、だとするなら寒子はわたしたちの世界に住む人間の魂とも接触できることになる。描写ではふつうに生きている人間の魂も一時的に憑依させることができていたので、原理的にいえば、寒子がその気になれば、いまこの瞬間、わたしやあなたの魂を呼び寄せて、漫画のなかで活動させることもできるのである。当時はそのように考えた。しかし、武蔵というのが接合点に存在するものだとすると、そういうわけにもならないのかもしれない。現実と漫画、両方の世界を合わせて、武蔵だけが特別なのだ。わかりやすくいえば、塩田剛三と渋川剛気はよく似ているが、彼らを「似ている」とおもわせるなにか中心核のようなもの、プラトン的にいえば「イデア」が、そこにはあるはずである。わたしたちはあるリンゴを手に取り、他方でそれとは色もかたちもちがうべつのリンゴを手に取ったとしても、それもまた同じくリンゴであると把握することができる。色も、厳密には形もちがうのに、どちらも同じリンゴだとわかるのだ。そのとき認識しているものがプラトンの考えたイデア、形而上学的に個性が捨象された客観の最底部である。彼らにもまた中心をなすなにかシルエットのようなものがあり、それが、バキ世界、あるいは現実世界において起き上がったとき、それぞれ渋川剛気や塩田剛三といった個性に変わっていったのだ。
ところが武蔵はそうではない。並行世界にじぶんと同じイデアを源とした、「じぶんとはわずかにどこかがちがうじぶん」が存在している、という考え方はSFなどではよくある設定だろうが、そのはなしでいけば、要するに武蔵というのはひとりしかいないのである。奇怪な状況ではあるが、わたしたちが歴史で学ぶ武蔵と、バキ世界で語られる武蔵は、そのままの意味で「同一人物」なのである。
植芝盛平のエピソードは、究極にとぎすまされた武道家は、集団の国家権力さえおそれさせるということを指摘するためのものだ。しかし、じつはこんなことはバキ読者としてはいわれるまでもない。わたしたちは100人の機動隊をちからで押し返す範馬勇次郎という存在を知っているのである。それに近い実力をもつ人物も何人かいる。いってみれば、バキ世界の基準でいえば植芝盛平のレベルは標準なのである。しかし現実原則でいえば、このはなしが本当だとしたら、もちろん植芝盛平は超人である。したがって、流れからして、今回配備された大勢の機動隊員は、バキ世界よりむしろ現実世界のものに近い戦力として想定されているのだ。花山薫の握力を、漫画のなかに存在しているトランプや古タイヤで測定することはできるが、わたしたちがハンズとかに出かけて購入した握力計そのものでそれを計ることはできない。当たり前のことである。「花山薫」も「握力計」も、それぞれの世界の原則に縛られているからである。梶原一騎的手法で、握力100キロを出すことがどれだけのことかをいくら説得的に描いても、それはある意味幻でしかない。哲学的に厳密なことをいえば、作中の100キロとわたしたちの知っている100キロが同一であることを証明することはできないからだ。しかしふたつの次元をまたいでひとりしか存在しない超越者であるところの武蔵ではそれが可能である。宮本武蔵はバキが始まって以来はじめて、わたしたちの所持するものさしで実際に測定することのできる人物だったのである。
こうして見ると、武蔵を経由することによって、とりわけ今回のおはなしは、わたしたちの住む現実世界にバキ世界がやや接近していたのではないかと考えられる。それが違和感というか今回の不思議な感触の正体である。異界の空気が漂っているために、バキ世界のレギュラー陣は今回登場しにくかったのである。
内海のもちかける取引はなんだろうか。直感的には、バキ戦を前にしたピクルがティラノサウルスの肉を半永久的に手にしたみたいな感じで、今後の武蔵が行動をとりやすくなるようななにか特権的なものが手に入る機会なのではないかとおもうが、まあ内容としてはしょうもないものになるだろう。だって相手にするのはまちがいなく現実世界のひとだから。このすきにバキが本部からなにかを学んでいるといいのだが。
- 刃牙道(7): 少年チャンピオン・コミックス/秋田書店
- ¥463
- Amazon.co.jp
- 刃牙道 6 (少年チャンピオン・コミックス)/秋田書店
- ¥463
- Amazon.co.jp
- 刃牙道 1 (少年チャンピオン・コミックス)/秋田書店
- ¥463
- Amazon.co.jp