第58話/拳法家
刀をパスして素手のまま迂闊に近づく武蔵にキレた烈が武蔵をダウンさせた。しかし倒れた武蔵を追撃することはない。これをもって、武蔵は「烈海王、敗れたり」と宣言する。それはわたしたちのよく知っているセリフだった。観客も烈も、名言を意味も文脈もなく消費することに慣れた現代人なので、これにウケる。それに戸惑う武蔵ではあったが、ウケている烈の隙を見逃すことはない。若干ワンピース的というか、ギャグがそのままシリアスストーリーの展開につながっていくような不思議な流れではあるが、ともかく烈は武蔵の接近を許してしまう。武蔵は帯刀していない。素手である。といっても、武蔵が素手になったのは烈がウケている最中なので、刀をもった状態でここまで接近されていた可能性もある。そうしたら一瞬で決まっていたかもしれない。
武蔵は烈を挑発する。素手で接近するなというはなしだったけど、ほれ、近づいたぞと。反応が遅れはしたが技はいつでも最高の状態で出せるのが拳法家たるゆえんかもしれない。たぶんいちばんはやく相手に到達する左の縦拳が飛ぶ。たぶん、これは例のサムライの霊感で読んでいたのだろう、武蔵はぎりぎりでかわして、肩と脇のあたりに手をあてる。関節をとろうとしているようにも見える。その感じを烈も即座に感じ取ったのかもしれない。脇固め的な行動に出るとすれば、武蔵は右手を前に出してくるはずだ。烈はその流れに逆らわないように回転し、三つ編みの髪の毛を武蔵の目にあてる。先っちょのふさふさのところが右目に当たったようだ。爪だか歯だかが刺さっても動じなかった武蔵だが、ここで涙を出しながら目をつぶる。痛みの質が異なるか、あるいはさっきとは緊張感がちがうのかも。武蔵にはなぜか余裕があるのだ。
やっぱり烈はバキ世界でも最高位の達人だ。相撲みたいにくっついた間合いから、垂直に武蔵の顎を蹴り上げたのだ。中国拳法のキャラがよくこれをやるけど、じっさいに軌道はどうなってるんだろう。いちど上体を水平くらいにまで倒して膝を抱え込み、そこから蹴り上げる感じだろうか。
すごいいい一撃だった。武蔵はふつうにダメージを受け、脳震盪を起こしているっぽい。烈にも打撃の接近戦では負けないという自信がある。これで実感してくれただろうと、烈は心の中で武蔵に語りかける。
膝をついた武蔵の顔面をふたたび左の蹴りが狙うとき、武蔵が急に軸足の、義足のほうの足を右手で払うようにしてつかんだ。そして持ち上げる。力持ちキャラではよく見る光景ではあるが、烈の義足がまたすごくもちやすい感じのかたちであることも手伝ったかもしれない。観客も烈も、100キロを超える烈が片手で持ち上げられていることに驚愕している。具体的にどこの筋肉が発達していればこんなことができるのかわからないが、烈は握力に驚いている。烈は握力キャラではないが、握力キャラであるはずの海王を圧倒する程度には強い握力をもっている。「こんな握力があるのか」というよくわからないおどろきかただ。これは、「こいつ、こんなに握力があるのか」という意味なのか、それとも、「このような種類の(あるいは「こんなレベルの」)握力があるものなのか」という意味なのか、どちらだろう。前後見てもどちらとも考えられる。オリバやピクルがこういうことをできても別に自然だが、たぶん170センチ後半で90キロというところの武蔵がこういうことをするのが驚きなのかもしれない。「こんな握力がこの世に存在するのか」というのはさすがにおかしい。オリバもこれくらいならできるし、烈だってがんばればできそう。やはり、武蔵の体格と、筋肉キャラではないという意味での武蔵じしんのスタイルも含めて、ありえないと驚いているのだ。
加えて、それ以上に驚きなのは、武蔵がたしかに烈の蹴りを受けてふらふらだということである。目がすごい。散眼みたいにそれぞれべつの方向を向いてしまっている。そして顎への打撃のすさまじさを堪能しているのだ。そうこうするうちにダメージは回復し、武蔵は烈の体重を量っている。そして、髪の毛まで武器にする烈の器用さをたたえる。いやな感じの流れだ。烈は残った足で攻撃をしかけるが、いつかバキがされていたように足を微妙に傾けられて当たらない。
そして武蔵が振りかぶる。空中で両手に持ちかえ、気合とともに地面に烈を叩きつける。バキは背面から落ちたが、烈は顔面でこれを受けてしまった。
跳ね上がった烈は空中で回転しいつもの構えで着地する、が、どうも意識はないようだ。あるいは、ピクル戦で30メートル落下したバキのような状態かもしれない。構えはしたが、なにができるという状況でもないのだ。
それを見てすべてのものが、「烈海王 敗れたり」と考えたのだった。
つづく。
烈はもう動けそうもないが、最後のコマでは武蔵が烈に歩をすすめているようにも見える。武蔵は烈にとどめをさすのだろうか。いままでの武蔵の行動に振り返ってみても、これからどうなるかがいまいち見えてこない。どことなく一貫性に欠けるぶぶんがあるからである。
観客は動けない烈を見て烈が負けたと感じ取った。それは現代の感覚だ。現代では、道場での稽古や試合でいちいち相手を殺すことはできない。これで決着がついたという見込みを含めて、その前の段階で決着とするのである。だから、観客は「敗れたり」と感じたのである。もうこれ以上やる意味はない。もし烈が気絶しているのなら、武蔵の斬りたい放題なわけで、そのことが確信できる状況にあるなら、あえてやることもないと。しかし武蔵はこれをどうとらえるだろう。じっさいに殺してしまうまで相手がどう動くかはわからない、というのは、いかにも武蔵が、実戦的な人物がくちにしそうなことばではある。ところが、これまでの武蔵を振り返ってみると、むしろ逆なのである。武蔵じしんが、独歩やバキにそのようなことをいわれてきたのだ。バキは、倒れているじぶんを仕留めなかったのが失敗だったと指摘し、独歩は、イメージ刀で斬られても、イメージはイメージにちがいないわけで、じっさいに斬られたわけではないといったのだ。イメージ刀を是とし、ダウン中の攻撃を見込みとして含める武蔵であるなら、烈についてもこのじてんで勝負がついていると考えそうなのである。しかし武蔵はどうやら歩を進めている。これは、武器を解禁したこの試合の流儀と、それを持ち出した烈の心意気に応えるものだろうか。ひとによってどうとらえるかは異なるとしても、バキなどはじっさいにイメージ刀でダウンしていた。そこにはバキの人並みはずれた想像力が逆に作用してしまった可能性もある。そして、徹底して事実にこだわる独歩のばあいは、逆にそれが通用しなかった。しかしたいていの場合イメージ刀はつかえる。武蔵がなぜイメージ刀をつかうようになったかの理由はまだ語られていない。ひとつには、現実的に武蔵の振りにたえる刀が少ないということがあっただろう。警官隊に囲まれた程度の事態でいちいち國虎を持ち出すわけにもいかない。そういわけで、日常レベルの闘争では、イメージ刀でじゅうぶんなのだし、現世最強ともいえるバキだってこれで倒せたのだから、独歩のほうがむしろ例外であり、たんに護身ということであればイメージでじゅうぶんなのだ。なにしろ独歩のモデルのひとりが大山倍達であり、当てなきゃどうなるかわからないしそれをよけられなければ空手家ではないと、寸止め空手を否定して直接打撃制を提唱したような非常な現実家である。そんなリアリストがそうそういるものではない。独歩だって、イメージ刀には衝撃を受けていた。が、それを理屈で押し隠したようなところがあったのだ。
おもしろいのは、「敗れたり」というのはそもそも武蔵がくちにしたことばだということだ。このことばの表層の効果としては、相手を動揺させたり、興奮させて冷静な行動を制御したり、そういう意味があるだろう。げんに武蔵はそこから(たまたまではあるが)笑いを引き出し、烈に接近することができた。たほう、ことばのそのままの意味としては、これは予言なわけである。だとするなら、今回の「敗れたり」も予言であることになり、やはり武蔵はとどめをさしにいくのかもしれない。現代の試合におけるたとえばKOも、ある種の予言なわけである。相手がダウンして、立ち上がれないから、とどめをさすことも可能であるという見込みを含めて、審判は彼の勝ちを予め言葉にしてしまうのである。
そう考えてみると、これまでの武蔵の行動は、すべて彼の規定した予言によって決められていたのかもしれない。わたしたちは、ひとりがダウンしたのを見て、そのものの負けを、またもういっぽうの勝利を確信する。武術がスポーツ化するということは、その確信にいたる過程を省くということである。「ダウン」には、その後続くにちがいない「とどめの一撃」がすでに含まれている。それを含めて審判が「予言」をするわけだが、それがルールとして整序されていけば、やがてその過程ぬきに「ダウン」だけが有効になっていくのは自然なことである。今回のたたかいにはそういうルールはないが、しかしわたしたちには常識というものがあり、特に観客やバキたちは肥えた目をもっている。だから、たとえば「肩が地面についたらダウン」とかいうルールがなくても、これを「ダウン」とみなし、「とどめの一撃」を予め含んだ武蔵の「勝利」として認識することができる。このときにわたしたちは無意識にある種のコードを採用している。たとえば烈がいま両足を斬られてしまって、どう見ても武蔵の勝ちだが、烈の意識ははっきりしており、まだやれると彼がいったとしたらどうだろう。いくら烈が騒いでも、これはどう見ても「武蔵の勝ち」なわけである。しかし気絶をしていたとしても、烈のからだのなかに接近したら爆発する爆弾があったとしたらどうだろう。爆弾は極端だとしても、ジャックの「地上最強のファックユー」みたいなことが烈にも過去あって、観客たちがそれを目撃したことがあるとしたらどうだろう。「まだわからない」となるのではないだろうか。だからこの「敗れたり」は、烈の気絶などといった事項それじたいを取り上げて下された判定ではない。観客たちは、これまでの烈の記憶や、今回のたたかいをトータルで見て、「敗れたり」と確信するのである。映画通が映画のオチを鑑賞しながら言い当てるようなことだろうか。映画には様式があり、監督のクセがあり、スター俳優のあつかいなどといったメタ的な見方も可能なわけだが、同じことを観客たちも行うのだ。
そして武蔵もまた、これより早い段階で「敗れたり」の宣言をしている。これはくりかえすようにそのことばじたいに効果のあるものでもある。と同時に、これは武蔵じしんの見込みでもあったのだ。あの時点では、だいたい観客が笑うことさえ武蔵には予想がつかなかっただろうし、具体的なシナリオが見えたわけではなかったろう。というか、そういう、一方通行な予測でもって武蔵は対応してはいないのである。にもかかわらず、映画通が開始15分を見ただけで「この主人公死ぬよ(どう死ぬのかはわからないけど)」と「予言」するように、武蔵は「敗れたり」と予言することができたのである。
というわけで、「敗れたり」は武蔵の見立てでもあり、たぶん烈は負けるのだろうが、まだ試合がおわりとはかぎらない。というのはまだ消力をつかっていないからである。武蔵がいまの状態の烈に切りかかったとして、果たして消力は可能だろうか。気になるのは消力の練習中の烈が汗をびっしょりかいていたことである。脱力を旨とするあの技で汗をかくというのがどうもよくわからない。だから、烈の消力は脱力によって行われているものではないのではないかとおもわれるのだ。つまり、たとえば正面から打撃なら、同じ速度で後ろにとびのくといった、そういう種類の消力なのではないかと。だとしたら意識のない烈には難しいかもしれない。
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