■『路地裏の資本主義』平川克美 角川SSC新書
- 路地裏の資本主義 (角川SSC新書)/KADOKAWA/角川マガジンズ
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「もっとも広く世界で採用された資本主義だが、今や穏健で理想的なシステムというより、格差を拡大させながら、地球規模で迷走し始めた暴力的な収奪システムに変貌しつつあると言えよう。資本主義は何処へ行こうとしているのか。それとも、資本主義に代わりうる経済システムが構想されるのか。実業家・大学教授・文筆家としての顔だけではなく、今年から喫茶店店主としての顔も持つ著者が、商店街や路地裏を歩きながら、身近な経済を通してわたしたち現代社会の問題点と将来のあり方を考察していく。コラムニスト・小田嶋隆氏も「縁の結び目が金の繋ぎ目! 路地裏経済の再生を考える快著」と絶賛! 」Amazon商品説明より
久々に平川克美です。
平川克美を最初に知ったのは、多くのひとがそうであるように内田樹であった。なんでも若いころふたりで翻訳の会社を経営をしていたことがあるとかで、平川克美はそのまま経営者なので、ビジネス関連の本が多い。思想的には内田樹の同志といってもよく、『9条どうでしょう』をはじめてとしてたくさんの仕事をともにこなしており、じしんも経営者視点の本、特に本書のように経済成長批判、株式会社批判のものが多い。
そういうわけで、内田樹から大きな影響を受けている僕みたいなものには非常に親しく読みやすいものなのだけど、以前から感じられていたことのひとつとして、たんに世代の問題なのか、あるいは親しすぎるということか、ちょっと平川克美じしんが内田樹の影響を受けすぎじゃないかということがあった。思想的に似てくるとか、あるいは類は友を呼ぶということで似ているから親しいのだとか、なんとでもいえるとおもうが、しかし書き手としては内田樹のほうが一枚上手というところがあり、トータルの印象としてもそのように見えることが多かったのである。なによることばの使い方がよく似ている。内田樹独特のものとして、それ以前までは無学な僕などでは目にしたことすらなかった古めかしい漢語や翻訳語、あるいはフランス語などに由来した難しいカタカナ文字を、論理的な組み立てのなかにひょいと投げ込む方法がある。難しいはなしを難しいままにわかりやすく説くというのが内田樹の文章の骨法で、そうしたなかになにげなく配置されているそうした言葉にはなにかみずからの教養度とか知性が活性化されて、いまこの瞬間自分はあたまがよくなっていっているというような実感をもたらすぶぶんがあり、当初は魅了されたし、影響も受けたものである。そうしたある意味ではペダンチックな、気取った書き方というものじたいをこれまであんまり見たことがなかった、というのもあるとおもうが(もっと古い批評家になるとそうした硬さはことばひとつにとどまらず全体にわたるので、結果として「知性の賦活」ということについて即効性は弱いのだろう)、だから平川克美にも同様のものが見えたときは「あれ?」とおもったものだ。くりかえすように世代的なものか思想的なものという可能性もあるが、じっさい、平川克美じしんが、対談でだったか、文章が内田樹に似てきてしまうということをいっていたような記憶もある。内田樹を読んでいてなおかつ日常的に文章を書くひとならわかることだが、ほんとうに似てしまうのである。
加えて、平川克美というのはいわゆる学者ではない。いままでなかったことで、本書だけの特別な傾向だとおもうが、今回はいやに「深入りしない」という態度が強く出ていた。ほとんどが新聞に寄稿されていたものなので、集中力と時間を要する論文形式には不向きということでそうした文体が採用されたのかもしれない。その意味で、さらに説得力は減じたと見ることもできるかもしれないが、僕はこれでいいというふうに感じた。というのは、へんに賢くふるまわないで、平川克美は「教養ある経営者」として書けばいいんじゃないかとはおもっていたからである。あたまのいい経営者、あるいは経営者として時流を読む経営者、というのはたくさんいるけど、教養ある経営者というのはなかなかいないものである。ここでいう教養というのは、要するによく本を読んで、さまざまな知見を備えている、ということである。あえて言い直せば、経営以外のこともたくさん知っているし、経営を経由しない思考も深く可能である、ということである。本書の丁寧な言葉遣いや、ある意味ではブログ的で無責任な、自分語りの延長のような文体は、むしろこのひとのばあいはふさわしいのではないかと、そんなふうにおもったのである。
それは本書の基本的な主張とも通じるもので、読んだあとでは余計、このスタイルのほうがよいというふうにおもえてくる。要するに、現代に必要なのは、あるいは言い直せば現代に現れうるのは、一語で世界を変える革命的なマルクス的天才よりも、「市井の物知り」なのではないかとおもえるのである。対立する主張が硬く鋭利に衝突しあい、互いにののしりあう現代の状況では、論理もことばの過激さも役に立たない。飛躍的にひとびとの意識を変えさせることばの出現を待つより、もうすこしじんわりとした、にじみ出るような影響のしかたで、周囲のひとびと、文字通りその肉体のすぐそばにいるひとたちにわずかの刺激を与えるような知性に期待したほうが、現実的だし、意味があるのではないだろうか。
内容としてはいつもどおりであり、たとえば少子化は、日本の経済の段階が最上段まで達したことを意味し、ここからはアダム・スミスなどが予測した定常経済に入っていくはずが、現代日本の政治家やビジネスマンはいまだに経済成長を希求しており、そのせいで貧富の格差は以前よりも増しており、金持ちはもっと金持ちに、貧乏はもっと貧乏に、という世の中になっている、という分析である。この少子化が「自然なことである」という観点が平川克美では際立ったアイデアで(創見ではなかったとおもうが)、なるほど、ことはそう単純ではないのだなと、『移行期的混乱』を読んだときだったか、感動したものである。
さらに、そのように経済成長信仰を支える根本的なものとして指摘されるのが株式会社というシステムだった。いわれてみればこれもその通りで、経済成長が見込まれなければそもそもひとは株なんか買わないわけである。買ったときよりも高くもどってこないと、買い手からしたら株なんてなんの意味もない。株にかかわるものからすれば、「経済成長してもらわなければ困る」という共通認識が当然あるのだ。
そういう批判は以前からいくつもの著作でされてきて、本書の大部分もそれを担っているが、先に述べた書き手としてのスタイルからいうともう少し平川克美は「現実的」なところに入ってきている気がする。会社とはべつに筆者は喫茶店を開業したそうだが、そういうことも関係しているだろう。革命を目指した言葉遣いで「説得」することはもう誰にもできない。どうすれば成長できるか、ではなく、どうやれば成長せずにやっていけるかという、定常経済のモデルを理論的に構築することが重要だといくら説いても、対立する側からすれば寝言だろうし、定常経済を主張する側にも相手をそのように見る面がないとは言い切れない。そうしたなかでは、当の政治家やビジネスマンを説得しようとしてもしかたない。まず変えなくてはならないのは「わたしたち自身の意識(223頁)」だということである。後半、猫がのんびり暮らす街を背景に語られる生き方、こういうものを生活のなかに見つけつつ、定常経済をちょっとずつ確立していこうじゃないかと。つまり呼びかけである。それが相手にも届くとはもちろん限らないわけだが、あえて文体が説得的でないぶん、反射的に拒まれることもなく、耳元で響く程度には印象に残るだろう。たぶん意識したわけではないとおもうが、おそらく喫茶店開業などと前後して、一種のあきらめとともに、そういう文体が成立していったんではないかとおもわれるのだ。僕個人としては、金とは無縁の生活であり、また仕事であり、金なんかいらないからのんびり読書だけをして生きていけたらどれだけすばらしいかと真剣に考えているようなタイプであるから、こうした思考法はじつに馴染みやすいし、そうなればどれだけ楽かなともおもう(現実問題はとりあえずおいて)。
- 移行期的混乱―経済成長神話の終わり (ちくま文庫)/筑摩書房
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