■『どくろ杯』金子光晴 中公文庫
- どくろ杯 (中公文庫)/中央公論新社
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「唇でふれる唇ほどやわらかなものはない―その瞬間、二人の絶望的な放浪が始まった。詩集『こがね虫』で詩壇にはなばなしく登場した詩人は、その輝きを残して日本を脱出、夫人森三千代とともに上海に渡る。欲望と貧困、青春と詩を奔放に描く自伝」Amazon商品説明より
たぶん一年以上、お守りのようにかばんに忍ばせて、電車とか休憩時間とかに拾い読みしていた『どくろ杯』をやっと読み終えた。僕にとって金子光晴はそのままお守りで、疑いつつもどこかいまだに神秘性とか全能性を信じ続けている言語の活動においては、全部の小説や詩が無意味におもわれても最後には残っているにちがいないもののひとつとして別格の位置にある。本書は、そうやってつねに携帯されてきたので、雨や風や雪にさらされ、満員電車でおしつぶされたり、職場の事務所でへんなふうにものが置かれてあとがついてしまったり、麦茶をこぼしてしまったりしてもう物質としてはへなへなになってしまい、ほとんど本書における貧乏のきわみに達した金子光晴と、著者紹介にある写真のようなしわくちゃの金子光晴が融合したような、ずいぶんおもむきのある状態になっている。
じっさい、詩としてだろうとたんに小説的な散文としてであろうと、日本語としてはこれ以上ない、最高品質といってよく、小説家志望が誰か優れた小説家の文章を学びたいとき、読書のもっと深いかたちとしては書写ということが考えられ、保坂和志などは小島信夫をもってこれをすすめていたとおもうが、僕はいつか金子光晴の文章を一冊まるまる書き写してみたいなどと考えている。そういう文章なのだ。
はなしとしてもずいぶんおもしろく、ふつうに時間がとれていれば拾い読みなんかではなくてじっくり読んでいたところだろうが、とにかくむちゃくちゃなはなしで、むちゃくちゃなはなしを淡々と、美しい風景描写や、金子光晴独特の固有名詞のつかいかた、いつの間にかはじまっている詩的なおもいの表現と合わせつつ展開し、ぜんぜん飽きることがない。まあ、物語作品ではない作品で、加えて著者が詩人だったり、すごくあたまのいい人物だったりしたときにどうしてもそういう考え方になりがちなのだが、はなしがおもしろいことと、金子光晴がすばらしい文章を書くこととを分離して指摘することには、じっさいにはあまり意味がないかもしれない。金子光晴じしん、歳月が経過したことではじめてこのときのことがつまびらかに書けるようになったというようなことをいっている。このときの金子光晴はすでに70代で、40年前のことを、記憶を遡りつつ書いているわけである。体験じたいのおもしろさと、年をとった金子光晴の文章がもし分離していたなら、そもそも本作はこんな傑作としては自律し得なかったであろう。40年前の、詩人から落ちぶれた貧乏の底をしぶとく生き抜く金子光晴にも、すでに70歳の金子光晴の文体が潜在していたのだし、同時に、70歳を超えた金子光晴には、じしんの散文を通して、そのころのことを再体験し、一致するように動的に描くことが可能になっていたわけである。
表面的にいって金子光晴のなにがそんなにすばらしいかというと、とにかく語彙なのである。それも、辞書的な、量的な意味での知識ではない。もちろん、いまでは考えられないほど、むかしの文士というのは誰でもおそろしい教養の持ち主ではあったのだが、そういうことでもなく、そもそも辞書的な意味合いでそのことばのつかいかたとか組み合わせは正しいのか、といってわるければ適切なのか、ふつうなのか、というような表現が、はじめて見たような漢字や言い回しとともにさらさらと流暢に線を描いていくのだ。たぶん、けっこう推敲しているとおもうんだけど、そういう感じは全然なく、文字通り言葉があふれ出てくるように感じられるのである。さらに、これは印象レベルで、じっさいにはそんなことがあるはずはないが、なにか、同じ物事を表現するのでも、同じ表現やことばがほとんどつかわれることがないのである。もちろん、近接した文章で、なるべく同じ言葉を使わないようにとか、語尾を一定にしないとかいうのは文章を書くうえではごくごく当たり前のテクニックなのだが、それが全体にわたって行き届いているようにさえ見えるのである。常識的に考えてそんなことはありえないので、錯覚だとおもうが、ではなぜそう錯覚するのかというと、それはつまり、以前知覚された風景や情感が、二度は同様のものとしてもどってはこないということではないだろうか。生の一回性である。それだから、ことばの密度からして相当の推敲が推測されるのに、まるで即興で書いたかのような、いま考え、しゃべっているかのような緊張感に満ちているのである。生の一回性の美しさは、裏側に死を貼り付けていることでよりいっそう有り難い、はかないものとなる。わたしたちが、造花では決して満足せず、生きた花の弱々しい美しさをあれほどに愛でるのは、そこに滅びが含まれているからなのだ。即興が生む一回性の緊張感には、それの喪失、生の観点からいえば「死」が含まれている。それが、はかなさの内に先取りされるからこそ、わたしたちはそのありようが二度と返ってこない、交換不可能なものだということを知り、所有しようとあがいたり、あるいはそれとしてまっとうしようとしたりするのである。
あまり内容をくわしく書けるほど短期間の集中した読み方をしたわけではないので、そのあたりは書かないが、貧しさのきわみ、よくそれで生きていけたなというような状況で、しかも中国・上海という、人間のなしうる窮乏や残酷さを徹底して集合させたかのような街を舞台にしているので、よりいっそう「死」が、どくろ杯という具体的なかたちをともなってさえ迫ってくる。しかしそこに息苦しさとか憂うつさとかはなく、金子光晴じしんの人格もあるとおもうが、じっさい、このひとは生き延びてみせる。その生き延びかたも、客観的にみれば、宿代を踏み倒したり、金を借りパクしたり、その場その場の思いつきでぎりぎり間に合っているという感じなのだが、そこに急迫した雰囲気はまったくない。それが、「死」をなにかすっきりした清潔な、ちょうど洗いたてのどくろのようなものに見せかける。生々しい「死」との不思議な共存である。
そういう、一度きりの出会いや生活などに混じって、なにかそれじたいで音韻的効果があるのを見込んでいるかのように地名や人名などの固有名詞が配される。詩として金子光晴がどこまで計算したものかわからないが、「マレー蘭印紀行」をはじめて読んだときから僕はこの固有名詞の響きの中毒になっている。固有名詞は、当然「顔」をもっている。流れたきり二度ともどってはこない一回性の文章のなかに、くっきりとした意味が呼吸しつつ佇立するのである。旅の途中、夫婦は数え切れないひとのお世話になり、また悲しい別れもいくつか経験するが、金子光晴はそれに必要以上に感傷的にはならない。涙を流して悲しんではいるのだが、今日考えられるような別れの感触は弱いのだ。ことばは流れ去っていくが、金子光晴じしんは岸の同じ場所に立ち続けているわけではないのである。いってみれば彼らはそれに流される舟に乗っているのであり、固有名詞たちは流れに打ち込まれた杭なのである。したがって、それらはやがて遠ざかっていく。生が一回であるのなら、それもまた必然なのである。
本書は金子光晴自伝三部作の一冊目ということで、続く二冊目は「ねむれ巴里」であり、もちろん手に入れてある。これもまたお守りとしてかばんに入れて持ち歩き、拾い読みしていくつもりです。
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- 金子光晴詩集 (現代詩文庫 第 2期8)/思潮社
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