第366話/ヤクザくん⑬
なにやら不審な行動をとる井森と家守。レンタルビデオ店で車を盗んで、そのままホームセンターに向かう。選ぶものは服や靴、それにバールなどである。
ふたりは獏木と最上を例の拷問を行う倉庫に呼び出し、準備させる。これから強盗(タタキ)をするというのだ。ひとつひとつのアイテムを別々の店で買って回ったらしい。こういったものを一そろい同じ店で買えばレジのものがあやしんだり、あるいは強く記憶に残ってしまったりするからかもしれない。服や靴はなるべく売れてそうなものを選んで足がつきにくくしている。まあ、もし警察が近辺のホームセンターすべての監視カメラをあたることになったら、ここでもあそこでも買い物している、という具合にむしろ目立ってしまう可能性もあるが。
靴はあえてサイズの大きいものにしてガムテで足首に固定している。そうすれば足跡などが検出されたとしてもじぶんにはつながっていかないからである。
マスクは・・・これはなんだろう。どこに売ってるんだ。なんか「犬神家の一族」みたいな、顔全面を覆う怖い感じのやつだ。紐なしの不良品があたった最上は、家守にいわれてキャップのメッシュのぶぶんを出してかぶることになる。小学生のときこういうかぶりかたしてふざけてるやついたよね。おれだけど。
最上の運転で例の盗難車で出発。道中、家守が説明する。相手は何軒も裏風俗を経営している久米原源太という男だ。違法経営だから税金もぜんぜん払っていないし、売り上げはそのまま愛人のところに隠してある。そしてその愛人は韓国人らしく、いま里帰りしているから家には誰もいない。久米原としても存在しないはずの金を盗まれても通報することはできない。5000万円はあるらしい。家守はそれをいじめていたホストから聞いた。久米原の愛人というのがこのホストに貢いでいたらしく、ホストは家守に勘弁してもらうために告げ口したと。
全員マスクをつけてしまっているのでほとんど区別がつかなくなってしまったが、後ろ髪が金髪で右目に眼帯が獏木、若干腹が出ているのが家守、肩幅がものすごいのが井森、そしてたぶん車で待機の細いのが最上だろう。全員万が一のために催涙スプレーを装備。警備員がくる可能性もある、金がなくても5分たったら車に戻るという計画だ。
まず獏木が窓を破る。火を当てて高温になったところに水をかけ、穴を開ける。そこにドライバーかなんかをさしこんでカギを開けて侵入、玄関の戸を開ける。
なかに入った三人は、最初から当てがあったのか、まっすぐに二階に向かう。計画じたいも鮮やかなものだし、井森たちは慣れてるんだろうけど、獏木はドキドキしている。棚を開けたり引き出しを引いたりして、急いで金を見つけなければならない。その過程で、机の引き出しに拳銃を見つけた。流れからして見つけたのは獏木とおもわれる。
家守がテレビのあたりを調べているとき、背後でわずかに物音が。振り返ったソファーには人型のふくらみの毛布がある。なかではひとりの男が震えているのだった。
つづく。
男は久米原なのだろうか。
たしかに、愛人宅であり、愛人はいないというだけのはなしであって、久米原がいても不思議はない。描き落としかもしれないが、三人が侵入した直後のそのソファーには人型の毛布は見えない。べつのところにいたが見つかりそうになったので、そっと動いてソファーに移動したのかもしれない。ただ、居間には生活の痕跡がない。階下で物音がして、思い当たることの多すぎる久米原のことだから、あわてて隠れたんだろうか。しかし拳銃はそのままである。あれがホンモノだとしたら、こうした業界の人間なら特に、拳銃というのは非常に信頼のおける武器だろう。それがそのままということは、三人があがってくるまでに拳銃を手元にもってくる余裕がなかったか、あるいは万が一捕まったときなどに敵意を感じさせないとか、拳銃だけでも奪われぬよういじらずにおいたとか、そういうことになるだろうか。久米原というひとの性格がわからないのでなんともいえないが、毛布にくるまっておびえている姿を見るかぎり気性的にはいたってふつうの人物のようである。あわてて拳銃のことが思い出せなかったり、あるいはくるくるあたまを働かせて「拳銃はもたないほうがいい」と判断したり、どうとでも考えられそうだ。いくら暗いとは山奥ではあるまいし、彼らもライトをもっている、三人が侵入したじてんでひとりくらいはソファーのうえのふくらみに気づきそうなものである。となるとやはり最初の絵は描き落としではなく、たぶんいなかったのだ。べつの見えないところで寝ていて、誰もいないタイミングを見計らって移動したのかもしれない。居間には家守しかいないので、二階はけっこう広いようである。誰もいなくなる瞬間があったとしても不思議ではないだろう。
ただ、どっちにしても彼は見つかってしまうだろう。問題はこの展開がなんなのかということだ。だいたい、これはハブに許可をとっているのだろうか。金にかかわることでもある。いい仕事だとしても、勝手に動くのはよくなさそうだ。げんに獏木たちは井森に無許可で(じっさいはハブの命令だったわけだが)丑嶋の金を狙っていたからシメられていたわけである。だとするなら井森たちもそうしなければならないだろう。
なんの根拠もない直感ではあるが、しかしどうも井森たちは許可をとっていない感じがする。ちょうどヤクザくんが1話から載っている33巻が出たばかりなので読み返してみると、ハブへの不満があるふたりは丑嶋から金を奪って薮蛇の組長に金を積み、直参にしてもらおうという相談をしている。直参というのが正確になにを意味するかよく知らないが、いずれにしてもそれでハブと五分になる。そうすれば、高いジャージを売りつけられることもなくなるし、対等になれるのだ。しかし丑嶋はハブの獲物である。ハブのために丑嶋を狙うのはまだいいとしても、金を奪って独占することはできない。要するに金があればよいわけだから、丑嶋でなくてもいいわけである。今回の強盗の動機にはそういうものがあるのではないかと想像されるのである。だとすれば当然許可などとっていないはずである。
たぶん久米原にもケツモチがいる。誰がやったのかは絶対わからないようにしなくてはならない。もし久米原が、井森たちに発見されるばかりか彼らの顔を見てしまうようなことがあったら、彼は殺されてしまうかもしれない。そうなると、裏風俗だからという理由で警察にはいけないという利点は失われる。久米原の意志にかかわらず、殺人事件になるからである。本当に家が留守かどうかはかなり重要なポイントだったのではないか。脅して済めばいいけれど、金がなくなるのはたしかなわけで、もし久米原にケツモチがいたら、上納が滞ることになるわけで、そのケツモチが犯人探しをはじめるかもしれない。それはすごくめんどうくさいことだろう。ま、それをいったら、丑嶋を襲っても同じことだけど。
今週の描写では井森たちの動機やハブの動き、またそもそもこの男が久米原かどうかということさえわからないので、なんとも言いがたいが、以上のようなことだとすると、これらはすべてヤクザくんにとっての「不遇の時代」とハブの暴力による支配が原因となっているはずである。たとえば滑皮は、ヤクザ組織の成立について、もっともミクロな上下の関係性において「あこがれ」の方法を用いている。じぶんが熊倉にあこがれたように、「かっこいい先輩」としてふるまうことで、梶尾たちもまた「ヤクザ」になっていく。こうした思考法が自然にできるというのは、違法行為で食べるワルモノとはいっても、少なくともその世界では一人前だといっていいだろう。誰も他者にあこがれず、自己利益を探究するばかりでは、当の自己利益を維持していくことが難しい。滑皮じしんがそうやって一人前になっていったので、おそらく同様のおもいを後輩にさせようとしているだけのこととおもうが、いずれにしてもそういう原動力がなければ組織は老いてしまう。おもえばここにも父子の構造があるかもしれない。それは丑嶋とマサルの関係のことだ。マサルは、「愛沢以後」の「この生」を丑嶋から授かった。債務者を叱りつける口調、取立ての周到さ、喧嘩の腕っ節、なにからなにまで、マサルをマサルたらしめるアウトロー的エクリチュールのすべてを、彼は丑嶋から学んだのである。したがって、彼がアウトロー的に丑嶋をつぶそうと考えるそのしぐさも、実は丑嶋から学んだものである。彼が丑嶋を否定するそのことばは、要するに「日本語という言葉には致命的な欠陥があるので、正確に意図を伝えることができない」と日本語で表明するような事態なわけである。ここでいう父子の構造というのはそういうことだ。子は、父の存在を前提として存在している。おそらく、そこでたとえば「母」というときには、彼の存在それじたいの原因のことを指すだろう。しかし「父」というとき、それはもう少し述語的な、実存的なものになる。フロイトでは父性は彼の行動を社会的に監視する審級としての超自我になるが、たぶんそれとほとんど変わらないだろう。ことにおよぶ際、そこにいたる価値観や、じっさいに使用される手法など、動性という点において、「子」は「父」に依存するのである。
滑皮においてこの「父」は、たぶんヤクザ社会そのものになる。あるいは熊倉がそれを一身に宿した父的存在となるのかもしれないが、そのあたりは描写がないので不明だ。そしておそらく滑皮は、この「父」がじぶんをじぶんとして成立させているということを自覚している。そこでもしじぶんを肯定しようとしたら、「父」を肯定するほかない。たぶんそういう背景があって、いま彼は「父」の側に立とうとしているのである。そうしないと、組織は消滅する。したがってこの自分自身も、いまのようには存在できなくなる。
そういうふうに見たときハブの組はどうなっているだろうか。もちろん、ハブほどの強者であれば、あこがれる若者も自然に出てくるかもしれない。しかしそれは、ホッブズのいう自然状態、社会契約以前の無秩序の世界で、ただちからのみで周囲を圧し、すべての資源を独占しようとする姿にあこがれるのと同様である。そのあこがれは、その強者のようになりたい、というものではなく、その強者それじたいになりたい、というふうに働く。強者がすべてを独占することを認めているからこそのあこがれなのであるから、当然、強者はみずからも力ずくで奪われることについてひとことの文句もいえない。ハブもむかしはそうではなかったような気もするが、そこにも時代的なものが働いているのだろう。ともあれ、現実として、井森たちはハブの横暴にあたまきている。そこに信頼関係はない。滑皮サイドにおいては、ぜんぶ僕の妄想ではあるけれど、そうした父的なもの、彼らを彼らたらしめているものは、上下関係においてまず表出する。先輩が、ヤクザ社会の父性的なものを代表して、後輩の前にあらわれるのである。そうしたあこがれの構造じたいは組織がもたらすものではあるが、実感としては、たとえば梶尾にとって兄貴ないし父親は滑皮なのであり、滑皮にとってはたぶん熊倉だったのである。けれども、ハブの組ではその関係性がない。父性のあらわれようがないのである。もちろん、井森はすでに立派なヤクザ者であるから、そうした機能は以前まではふつうにあったはずである。が、いまはそうではない。というか、もともと自己利益を追究することが基本であるところの彼らの本性が、この時代的状況において浮き彫りになってしまっているというのが正しいかもしれない。「高楊枝」でいる滑皮のほうがたぶん例外なのだ。
ともかく、井森たちはおそらく、ハブに反逆するだろう(前回の件でこりている可能性もあるが)。それは、ハブと井森のような関係が、ただ個人対個人になってしまっているということなのだ。以前までは、あこがれの構造が慣習的に機能し、自然と父子の関係が築かれ、ヤクザ的作法を学んできたものが、時代的な必然で、彼らがもともともっていたエゴが強調されることになり、結果崩壊しようとしているのである。
暴力で抑えつけようとしても反発を招き、そうした強権的な姿がもたらすあこがれは、当のあこがれの対象を排除しようとするものである、そういう世界は決して持続しない。ハブがなぜこういう戦略に出たのか、彼ほどのキレものであったらもう少しやりようがありそうなものである。そんなハブのすべてを狂わせたのが丑嶋なのだろう。げんに、井森たちの苛立ちの発端には「なぜハブはすぐに丑嶋を殺さないのか」というようなこともあった。そのあたりのハブの動機もポイントかもしれない。
来週、再来週と休載だそうです。再開は3月23日発売の17号。取材とかたいへんそうだしなあ。どういう展開にもっていくか、真鍋先生も考え中なのかも。
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