『病む女はなぜ村上春樹を読むか』小谷野敦 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『病む女はなぜ村上春樹を読むか』小谷野敦 ベスト新書






病む女はなぜ村上春樹を読むか (ベスト新書)/ベストセラーズ
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「どんな女が村上春樹を好きかというと……
「春樹を好きな理由はない」と言ったさきの女性には、過去の恋愛で不本意なことがあったらしいが、「それについては、詳しく言えない、墓場まで持っていく」と言う。そういうことは、人によっては、まったく誰にも言わないというのから、親しい友人にだけは言う、というレベル、果ては私のように、普通の人なら墓場まで持っていくだろうようなことを私小説にしてしまう人間までさまざまなレベルがある。
そしておそらく、「墓場まで持っていきたい」と考えるような人に、村上春樹の作品は訴えかけるものがあるのではないかと思うのだ」Amazon商品説明より





村上春樹は登場以来文壇からは微妙な評価を受け続け、ついに芥川賞をとることがなく、『ノルウェイの森』のヒットでそうした批判が最高潮に達し、好悪両面の評価が煩わしくやがて日本では生きにくくなって海外に飛び出した・・・というのはに好意的な評論(内田樹や加藤典洋)や春樹じしんの随筆なのでよく語られていることなので、その事情じたいについては知っていたが、あるいは直接村上春樹の名前を出して否定的評価を下す文章を読むのは初めてかもしれない。この本を手に取ったのも、それはちょっといい傾向ではないよな、みたいなことがあってのことかも。


僕個人の春樹評価というか春樹歴を明らかにしておくと、とりあえず社会現象レベルでヒットした『1Q84』、つづく『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は読んでいない。いま日本に存在している「村上春樹を読んだことのあるひと」のほとんどが読んでいるであろう2作を読んでいないのだ。理由はいくつかあって、まずブログをはじめてしまったことが大きかった。いまはなるべく気にしないようにしているが、いちおう、読んだものすべてについて批評を書くということを日課としているので、そうなると当然このヒット作についてもなにか書かなければならなくなるわけだが、対象が村上春樹となると渾身のものを書きたくなってしまうし、それをおもうとちからが抜けてしまうのだ。そういう、読むことより書くことが動機になってしまっていることじたいがよくないので、読書メーターなどをつかって、そこから脱しようと努力してはいるが、まあそういう心理的事情がある。それに、多崎つくるはともかく、1Q84なんかはちょっと長すぎて、ふつうに時間がとれないというのもある。ただ、それ以外の春樹の長編はいちおうすべて読んでいる。短編となると全集のみ収録のものなどがあるのではっきりとはいえないが、これもほぼ読んでいる。最初は高校生のときに、たんじゅんに教養として、なんか聞いたことがあるくらいで「ノルウェイの森」を手に入れたのだったとおもうが、それからすっかりはまってしまって、ずいぶん長いあいだ読書の中心に春樹がいる時代が続いたのだった。そういう過去への憧憬もあって、なにか春樹に聖性をほどこしてしまっているぶぶんもあり、結果思考停止してしまうのである(ちなみに高校生のときいちばん読んでいたのは『1973年のピンボール』と『ダンス・ダンス・ダンス』でした)

と書くと内心春樹には納得できないぶぶんがあってそれが抑圧されてきたようではあるが、そうではなく、いまでも春樹は好きでときどき拾い読みしているし、随筆も文庫で発売されれば買って読んでいる。だから、否定的な文章も読まなくては、というのはなにもそうした抑圧からじぶんを解き放とうとするものなんかではなくて、たんじゅんに知性のバランスの問題である。


さて、本書であるが、ほんとうに通して春樹に否定的でびっくりしてしまった。春樹に限らず、こんなふうにひとりの作家を否定しまくる文章じたいを僕はあんまり読んでこなかったのかもしれない。著者は作家であると同時に比較文学者ということで、比較文学という分野じたいをはじめて知ったのだが、2カ国以上の文学を比較して、相互の影響や関係性を明らかにしつつ世界の文学全体の流れを説明していこうとする学問のようで、そのせいか著者の読書量、少なくとも文学史的知識量は尋常ではない。とにかくものすごい数の作者と作品の名前が流れ出てきて、臆断にもおもえる関係性の推測は、その比較文学の論文ではないのであまり論理的とはいえない、どちらかというと春樹が嫌いという感情に駆動されたものではあるのだけど、それでもじゅうぶんにスリリングでおもしろく、正直論理的でないとしてもこれだけ読んでるひとがそういうならそうなのかもしれないなというような説得力がある。


引き込まれるように一気に読んでしまったし、最終的には著者に親近感さえ覚えてしまったことはまちがいないのだが、かといって内容について全面的に同意できるというわけではなく、その意味では、本書はやはり買って正解だったかもしれない。とりわけ政治経済の分野でそういう本が大量に生産されているが、そういうものを通して培われてきたもので、習慣的に、書店ではどうしても「強い言葉」に警戒してしまう。最近ではただ当為の言葉遣いで断定するのではなく、それを「なぜ~するのか?」というような疑問形で包み込むことで、あたかもその問いじたいは自明であるかのようにはかってしまうような向きも見られてきている。つまり、本書でいうと、「病む女は村上春樹が好きである」という命題である。たしかに、こういわれてみると、そういう面はあるかもしれないと感じることは否定しないが、よくよく思い返してみると、その感想じたいは、春樹の小説に「病む女」がよく登場することからきているのではないかとおもわれるのである。そもそもよく本を読む女性じたいにあまり出会ったことがないというのもあるし、特段じぶんが読書好きであることをアピールして生きているわけではないので、さして仲のよくない女の子が果たして読書家か、そして村上春樹を読むかを知る機会が少ないというのもあるかもしれない。文学部とかにいっていたらそういうこともあったかもしれないが、とにかく、経験的に村上春樹を好きだと表明していた女の子は僕はひとりしか知らないが、彼女は別に病んでいなかった。迂遠な言い回しになってしまったが、要するに、「病む女が村上春樹を好んで読む」というのは事実なのかということである。「いや、じっさいそうだよ、オレはそういう子を10人くらい知っている」というひとも出てくるかもしれないが、同じように、「たしかにそんな子見たことない」というひともいるかもしれない。数学的な証明でもない限り(それであっても統計学を出ないはずだが)、これは皮膚的直観を出ない。つまり、これは主観にすぎないのである。これが「どのような層が村上春樹を支持しているのか」という問いから発する検証であるならなんの問題もない。しかしそうではなく、まあ新書のタイトルというのは扇情的であるのがお決まりということもあるとはおもうが、主観にすぎない(とおもわれる)ことを自明のように語り、それの理由を調べていこうというわけである。じっさいには、この問いがたてられ、順を追って調べていくというような内容の本ではなく、筋道としてはけっこう雑多で、文学史の勉強をしているような気分もおもしろい。だから、タイトルと内容はほとんど無関係ともいえる。しかし、内容との関係性はともかく、このタイトルそのものには、著者の春樹に対する姿勢が出ているととれないこともない。ひとがひとを好きになったり嫌いになったりすることに理由はない。論理的に説明できる必要もぜんぜんない。いちおう、じぶんが春樹を嫌いになったのはいつからか、というようなことも書かれているが、そこもまた特に深い意味があるということではなくて、やっぱり生理的な嫌悪感とか、要するに嫌いなんだよという感情が中心にあるようにおもえる。つまり本書は、批評というよりは感情表明なのである。その意味でいえば、これは批評とか、あるいは比較文学の本とかでは当然なく、主観を大切にした作家としての仕事といったほうがいいかもしれない。


そういうわけで、とにかく村上春樹が嫌いな作家が、比較文学者としての知識を活用して、嫌いな理由をあれこれひねり出している、という印象がかなり強いわけだが、あまり不快感がなかったのは僕がもうハルキストではないからなのだろうか。そんなことはないとはおもうが、いずれにしてもこういう「強い言葉」の本を読まなくてはいけないとはおもっていた。といっても、政治経済の本がそうであるように、この命題に最初から同意する読者が共感を求めて購入し、溜飲を下げる、というようなものではないとはおもうのだが(著者は共感を非常に重視している感じがあった)、明らかに考え方の異なるひとの本をもっと読まないと、とはおもっていた。僕でいえば、まずこういう主観に基づいた命題をまるで自明のことのように「強い言葉」で語るタイプがかなり苦手である。「~べき」などの当為のことばで排他的に語る国際情勢の本に比べたらはるかに知的でおもしろかったが、この年になってつくづく、ひとのほんとうに考えていることというのはわからないものだということを実感している日々である。インターネットを手に入れて世界は広がったように感じているが、たとえば選挙のとき、ツイッターでひとびとの一喜一憂を目にしていて、これはもう決まりだな、とほくそ笑んでいたものがじっさい結果をみるとぜんぜん逆でびっくりしたということはないだろうか。インターネットはひととひととの距離を縮めたかもしれないが、かといって無作為に誰でも関係なく抽出しているわけではない。ツイッターなら、趣味や考え方、知的レベルや行動範囲などがかなり近い人間が選択的にフォローされているわけで、ほとんど必然的に、タイムラインはじしんの考えに沿うような狭いコミュニティにおける評価を展開していくのである。ブログにしても同じことで、たとえば本書のタイトル検索でいまこの記事を読んでいるあなたも、わたしと同じ本を読んだ、あるいは興味をもったということで人生のあるぶぶんが似ているのであり、「まったく、ぜんぜんかんけいないひと」ではないのである。そういうことを東浩紀は『弱いつながり』で指摘し、検索ワードに規定される日々から脱するために「旅」をすすめていたとおもうのだが、そういう感覚は現代人はけっこう強くもっているのではないだろうか。最近のジレンマとしては、こういうことを書いても、すでにそういう考えをもっている、あるいは通過している、潜在的に抱えているひとが読む確率のほうが当然高くなるわけだから、ぜんぜん、なんの意味もないのではないかということだけど、まあそれをいったら、なにを書いても無意味ということになってしまうので、わたしたちとしては発信より受信のしかたを変えていくほかない。旅もいいが、書店員の僕としてはやはり本をおすすめしたい。もちろん、厳密なことをいえば、本書にしても、「村上春樹」というワードがきっかけとなっているわけだが、とりあえずはそういう姿勢をとってみることが大切だろう。


そんな壮大なはなしでなくても、じしんの考えを検証してみるためにもそういうことは有意義であって、このあたりは本書に書かれていた批評のありかたについての文章にも通じている。僕個人としては、批評というのは、採点したり、いいとかわるいとかいうものではなく、単純にいって評者の読み方の呈示であるというのがあるから、原則的に作品からは独立してしまう。しかし、普通の意味で言えば、プロの批評家も、あるいは書評ブログやアマゾンのレビューであっても、それはその本を読もうとしている人物が購入の決断を下す際の最後の決め手であるにちがいない。「こんなに分析させるような本ってなんだろう」というふうに興味をもつのはむしろ例外的なことで、たいていは、たとえばアマゾンの採点が非常に有効なわけである。46頁あたりに書かれているが、特に純文学のおいては、批評家というのは「鑑定人」なわけだ。しかし近年では作品に否定的な批評は雑誌に載らない。そもそも文学の本が売れないのに、それを否定するようなものが同誌に載っていては売れるわけがない。このあたりはなるほど、とおもわざるを得なかった。だから否定もする批評があったほうがいい、というより、そういう状況のほうが健全なのである。





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