■『最貧困女子』鈴木大介 幻冬舎新書
- 最貧困女子 (幻冬舎新書)/幻冬舎
- ¥842
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「今や働く単身女性の3分の1が年収114万円未満。中でも10~20代女性を特に「貧困女子」と呼んでいる。しかし、目も当てられないような地獄でもがき苦しむ女性たちがいる。それが、家族・地域・制度(社会保障制度)という三つの縁をなくし、セックスワーク(売春や性風俗)で日銭を稼ぐしかない「最貧困女子」だ。可視化されにくい彼女らの抱えた苦しみや痛みを、最底辺フィールドワーカーが活写、問題をえぐり出す!」Amazon商品説明より
てっきり新刊かとおもっていたけど、出たのは去年か。著者の鈴木大介という名前がどこかで見覚えがあるような気がしていたら、なるほど、モーニングの『ギャングース』の共同制作のひとだったか(マンガじたいは未読です)。
とにかく非常にショッキングな内容である。それ以外ことばが出てこない。著者じしん、セックスワークの最底辺にサバイブする女性たちのほとんど絶望的な状況を前にして、限界だといってみたり、声を失ってみたりしているけど、目の前で見ていれば当然のことだろう。ただ読んでいるだけでも逃げ出したくなるようなことばかりだった。しかし、これはフィクションではないのである。逃げ出したくなるような残酷描写の小説なら、読まなければいい。小説はほかにもたくさんある。けれども、これは現実に、いまの日本のどこかにある状況であって、わたしたちがいま呼吸した、この酸素を経由して、接続している同次元の出来事なのである。そうした事態を有責的に受け取るべきだ、というようなはなし以前に、本書が書かれたもっとも重要な目的として、そうした事態が不可視的であり、現状そのことが理不尽な差別を呼んでいるということなのだ。目をおおいたい、逃げ出したい、そういうしぐさそのものが、問題をよりいっそう深くする、そういう深刻な構造にあるのである。自分自身にも思い当たるぶぶんがある。僕は、毎週闇金ウシジマくんという漫画の感想を書いている。ウシジマくんは現代日本のリアルを抉り出す容赦ない漫画というのが一般的な売りで、そのことについては僕も異論はなく、じっさいの読みとはまた別に、これが日本の現実なのだろうなとぼんやり読んできた。しかるに本書を読んでショックを受けるとはどういうことか。信じられないことだが、僕にはまだよく見えていなかったのだ。ギャル汚くんのまいたんや、出会いカフェくんの冬実、またテレクラくんに登場する数々の人々、その他数え切れないほど登場するセックスワークに属する女性たち、このひとたちのことが、文字通り見えていなかった。シルエットと動作は把握していたが、その関係性について考えがおよんだことはなかった。彼女たちの抱える地獄を本当には理解していなかったのである。そうおもえば見えてくるものがある。たとえばテレクラくんの肉まんまは?痛みを知覚していないように見える彼女は、知的障害者ではなかったのか?一見弱弱しさがかわいらしさにも感じられるまいたんは、じぶんの置かれている状況を本当に理解しているのか?ウシジマくんは、文字通りに写実的な漫画だったのだ。
現代人には「自己責任」ということばが呪いとなっている。多くのセックスワーカーは生まれからして悲惨なもので、育児放棄や虐待、強姦などを経験して徹底的に当の自己というものをスポイルされてそうした生活にたどりついているわけだが、しかしここに「自己責任」ということばを持ち込むとどうだろう。同じように虐待にあい、あるいは同じようにセックスワークに取り組みながら、しっかり再生し、自立し、子供にはそうではない人生を歩ませようとする女性もいるわけである。そのことじたいはたいへんすばらしいことである。そうした事例があるのだから、再生することは不可能ではない、したがってどこかで彼女たちは怠けていることになる、責任をまっとうしていないことになる。事実そうなのかもしれない。彼女たちは、そうした自己責任論でいえば、責任を果たしていないのかもしれない。しかし、本書の中心にある、著者の優しく、そして怒りに満ちた視線が示すものは、そもそもがんばれない、努力を重ねることができない、そういうひとたちもいるのだということである。そういわれても、たいていの、といういいかたがまた差異化してしまうので問題ではあるが、「がんばれるひと」にとっては意味がわからないかもしれない。しかし、最初から「自己」というものの確立を阻まれ、まともな教養を与えられず、ということは考えるちからさえ獲得できず、孤独のなかである種のぬくもりを求めてセックスワークとそれを斡旋する地縁や機関に与するその流れを見て、そんなことは少なくとも僕にはもういえない。そもそも、生き方の指針というレベルでは、「自己責任」というのは他人に求めるべきものではない。「わたし」個人が、自身を練磨し、苦境に屈しないためにそうした標語を掲げるのはけっこうなことであるし、事実効果的だろう。しかしこれを他人に求めるということは、このルールが社会で当たり前に流通し、自分自身に向けて他人から要求されてもかまわないということに同意することにほかならない。これは老人や、あるいは若者を、「老いている」あるいは「若い」という理由で責めたてることと同形の、あまりに視野の狭い思考法である。老人を責めたてるわたしたちもいつかは老い、その世代特有の饐えたにおいを放ちながら、若い世代に向けて老いをふりまくことになる。僕もぐちっぽくなることもそれはあるが、やはり原則的に不可抗力であるところの「世代」に向けた責めは慎みたいという気持ちもある。いま中高年にあたる世代の、特に男性に見える幼稚さ、これを、世代的なものとしてあつかう限りで、その議論は翻って自分自身が中高年になった際に若者たちに与えるかもしれない僕世代特有の「なにか」を責められることを認めてしまうことになるのだ。「自己責任」も同様なのだ。(はなしはそれるが、ウシジマくんにおける丑嶋はアウトローとして生きるものの信条として「自己責任」ということをいう。そうした社会にそもそも与さない、法の外に生きるものとしての気概、これを端的に示したものかとおもわれる)
本書を読むうちにそうした考え方は自然にはずされていくとはおもうが、まず、その呪いのことばを解除することが、事態を直視するための第一条件であるとおもわれる。くりかえすように、個人が、自分自身を叱責するためには、このことばはある程度有効かもしれない。けれども、本書に描き出された女性たちをそうした目で見るだけでは、なにも見えてはこない。
テレビ番組などを通じて、「貧困」についてわたしたちは知りつつある。本書冒頭にも路上生活一歩手前の「貧困女子」は登場する。彼女たちは可視化されている。では不可視の、僕が本書を読んではじめて知ったと感じた、またウシジマくんを通して目にしつつもまったく認識していなかった、「見えない女性たち」、最貧困女子というのはなにか、そのちがいはどこにあるか。経済的にも精神的にも肉体的にも、現実には彼女たちは破綻しているのだが、文字通りその日暮らしに一日一日を乗り切るようなむちゃくちゃな生活を重ねて、破綻を隠してしまうというのだ。福祉や警察などの制度と接続することがあれば、それは可視化される。しかし彼女たちは育ちからしてそうした機関と相性が悪く、そこから離れていく「斥力」が強いのだという。ここに加えるなら、その「自己責任論」もけっこう強いんではないか。自己責任論者も、すべての貧困についてそれを適用しようとするものではないだろう。病気や事故など、不可避の貧困も当然ある。しかし最貧困女子においてはおそらく「自己責任」を適用したくなるようなところがあるのかもしれない。つまり、一般的に、当たり前に「がんばれるひと」からすれば「怠惰」にしか見えない兆しが感じられてしまうのである。
ともかく、こうした本がかたちになって出版されたことにはとても意味があると感じた。著者は、じっさいに現場に足を運び、最貧困女子たちに取材を重ねることで本を完成させた。その労力もさることながら、目を背けたくなる現実にしっかりと向き合い、思考停止して無責任に投げ出しても誰も責めないであろうところ、きちんと問題解決のための提案をするその姿はルポライターの鑑である。文章の端々からは人肌の優しさが感じられて、たぶんこのひとじゃなければこんな本は書けなかっただろうとくりかえしおもった。非常に重要な一冊です。