■『影をなくした男』シャミッソー著/池内紀訳 岩波文庫
「「影をゆずってはいただけませんか?」謎の灰色服の男に乞われるままに、シュレミールは引き替えの“幸運の金袋”を受け取ったが―。大金持にはなったものの、影がないばっかりに世間の冷たい仕打ちに苦しまねばならない青年の運命をメルヘンタッチで描く」Amazon内容紹介より
昨年やっと読むことのできたホフマン『砂男』だが、そこに同時収録されていた「大晦日の夜の冒険」という、砂男に負けず劣らず印象深い短編にペーター・シュレミールというなぞめいた人物が登場する(じっさいに、モデルではなく、本人として登場する)。註によれば彼は当時話題を読んでいた『ペーター・シュレミールの不思議な物語』の主人公ということであった。本書のシャミッソーとは共通の知人ということになるか、ホフマンの最初の伝記を著したヒッツィヒによれば、ふだんは模倣などを嫌うホフマンもこの物語をいたく気に入り、「影を失う」という状況を「鏡像を失う」というものに書き換えて物語にする誘惑を抑え切れなかったということである。
というわけで、比較的新しい翻訳でもあり(1985年)、すぐに手に入れた。ごく短く、すいすいはなしが進むのであっさり読める。
筋としては単純なもので、ひょんなことから無限に金貨の湧き出る金袋と引き換えに影を売り渡したシュレミールという男が、金以外のすべてを失う、あるいは保持することが困難になり、人生の不幸という不幸をすべて経験するというようなおはなしである。やがて彼はこれまた偶然から一歩で七里を進むという魔法の靴を手にいれ、植物学者として名をなすようになる。影と金袋を交換した男はどうも悪魔のようであって、シュレミールが最初に彼と出会うきっかけとなった富豪もすでに手中にしている。そして、影がないということがどれだけ生きにくいことであるか身をもって知ったシュレミールは相手に返してくれと懇願するのだが、相手は、それはかまわないが、そういうことであるなら死後の魂をじぶんに預けるという契約書にサインしてくれと涼しげにいうのである。シュレミールはそれだけは断固として拒否する。影を売り渡してしまったときのじしんの軽薄さが思い起こされるのかもしれない。いちおう、それを最後にシュレミールが悪魔の誘いにのることはないのである。町を追い出されたり、失恋したり、信じていたひとから裏切られたり、たいへんな目に合いつつも、シュレミールは魂だけは売らない。やがて相手がホンモノの悪魔だということがわかると、相手を呼び出す手段でもあった金袋を大穴に投げ捨ててしまい、悪魔との関係もいっさい断ってしまう。そうしたのちに魔法の靴を手に入れ、また以前まで唯一信頼することのできたベンデルや生涯の恋人ミーナなどの真のおもいも知ることができ、社会から外れた位置に立つことになったとはいえ、いちおうの安定的幸福のなかに物語は終わる。
おもしろいのは、「大晦日の夜の冒険」でもそうだったけど、影を失うことがどうしてそんなにひとびとの嫌悪感を生むのかということである。解説に詳しいが、シャミッソーじしんがその生い立ちからして「祖国」をもたない人物だった。フランスにいけばドイツ人あつかいされ、ドイツにいけばフランス人あつかいされる、そういう生涯であった。だから、一般的な読みとしては、「影」を「祖国」の比喩とするものが多いようである。しかし、そうした議論はシャミッソー存命時代からあったそうで、どうもそれだけとはおもえないという向きもあり、「影とはいったいなんなのか?なにを意味するのか?」という問いはシャミッソーじしんにも向けられていたらしい。それに応えてシャミッソーは、じぶんは影をもっている、なくしたりはしないと、そのようにいうのである。訳者はこれをことば通りに受け取るべきだとする。要するに、影は影であり、なんでもない。シュレミールは影を失ったが、じぶんにはある、もちろんそこに「祖国」を見出したりもしていないと。僕としてもその読みに賛同したいところである。というのは、「影とはなんなのか?」という問いがあまりにも魅力的すぎて、いくらでもこたえが出てきてしまうからだ。しかし、この問いの周辺の事項ということになってしまうが、僕がそれよりもっと気になるのはその、「なぜみんなそんなに影がないことが気になるのか?」ということである。いや、影や、あるいはホフマンの「大晦日の夜の冒険」のように鏡像を失ってみたことはないので、こんなことをいっても意味はないかもしれないが、それほどまでかと感じることも事実である。じっさい、影や鏡像がないひとに遭遇したら、それはもちろんたいそう驚愕することだろう。なにか邪悪なものの気配を感じ取ってこわくなることもじゅうぶん考えられる。けれども、そのことで相手に対して攻撃的になり、迫害するような意識が出てくるようにはどうもおもえない。この点については、たとえば現代ではメディアや通信の機能が発達しているということがまずあるだろう。異様なひとがあらわれて、恐怖を感じたとき、それがじっさいに危害を加えてくるものならまたはなしは別だが、そうではないとき、わたしたちにはそれを多くのひとたちと共有する手段がたくさんある。要するに、いまと比べて当時のひとびとはそうした不可解な出来事を個人や小さな共同体で抱え込まなければならない度合いが強かったのである。また宗教や民族的な事情もあったかもしれない。そうしたある種のフリークスは、保守的なひとびとからすれば異端となる。フリークスの感情に接近するようなしぐさは、むしろ進歩的なのである。
こうしたことで説明は可能かとおもわれるが、もうひとつなにかひっかかる。というのは、本作を書き換えたホフマンもまた、同様にして鏡像を失ったことで迫害される人物を描いているからだとおもわれる。ホフマンがこの小説のなにに感動したのかというのが、「理不尽に迫害される」こと込みだったのではないかと推測されるのである。ラカン的な意味では鏡像はじしんをひとつのイメージに収束させる最初の鋳型である。影も同等のものと考えていいだろう。たんにそれを失うとひとはどうなっていくのか、ホフマンの書評で僕は他者への感情移入が困難になっていくというように書いたが、おもえばホフマンはそこにとどまっていないのである。「そんなにまで気持ち悪いものか」と、現代人が訝しくおもうほどに、両者は迫害されるのである。ホフマンもシャミッソーも、あるいは、たんじゅんに、保守的なひとびとに対面したときのある種グローバルな異端者のありようを描いただけだったかもしれない。あるいは、物語としてそうすることで流れが生き生きと躍動するから採用したと、それだけのことかもしれない。しかしここでは、ホフマンのところでも書いたように、作中の人物が自覚できないところの不気味さというものを見出したい。
「砂男」においては、恋するオリンピアが自動人形だったということに主人公のナターナエルが気づかないという筋があるが、このぶぶんでもっとも不気味なのは、それ以外の多くのひとびともそのことに気づかなかったということである。「不気味の谷現象」を持ち出して考えたように、現代であっても、ふつうに接するうちに相手がロボットであるかどうか見抜くのは難しいことではない。少なくともたいへんな違和感を覚えることはまちがいない。加えて「砂男」は200年前のおはなしなのである。にもかかわらず、ふつうにダンスとかするオリンピアがロボットだということにだれひとり気づかない。当時すでに現在以上の技術が存在していたのだ、というはなしにもならない。なぜなら、ただ文章を読んでいるだけでオリンピアの言動のぎこちなさは明白だからである。それが異様なのである。ホフマンの物語の内側では、「現実」と「妄想」が相対的な概念として入り乱れる。ホフマンにおいてはその両者は等価であり、それが共存する世界が、どうも名作『黄金の壺』などでは探究されているようである。作中で妄想的世界は、現実の秩序や原則を経由し、それにあてはまらないという点で異様さをかもし出す。ところが、そもそもその「妄想」を規定する「現実」じたいがあぶなっかしいものだとしたらどうだろう。わたしたちが「不気味の谷現象」を知覚するのは、「現実」によく知った人間の動きがあって、その差異において違和感を覚えるからである。しかし「現実によく知った人間の動き」というのが一定でなかったら、果たしてわたしたちはぎこちないロボットの、それでいて精巧なつくりに不気味さを感じるだろうか。
同様の考えを鏡像や影についてあてはめると、まず影を失うという事態そのものが「妄想」である。現実には決して失うことがありえない、という原則がまずあったうえで、わたしたちはそれを現実のものではない、つまり「妄想」的なものであると片付ける。けれども、そこから生じた理不尽な迫害が、「現実」の出した解答だとは言いがたい。たとえばシュレミールは湯水のように金貨をばらまくわけだが、現代人の感覚からすると、そこまで金をばらまくことに抵抗のない富豪であるなら、影がないことなんかどうでもいいとおもいそうなものである。しかしそうならない。ひたすらに「妄想」を拒むことで現実に立脚している。この原理のうえでは、「現実」と「妄想」は正しく別れ、交じり合うことがない。けれども、小説の外のわたしたち(厳密にはわたしだけかもしれないが)は、そうした理不尽な迫害をどうも「現実」としては受け止められない。作中で「妄想」を規定する「現実」と、わたしたちの知っている現実が、なにか微妙に重なりあわないような感じがするのだ。そこに、少なくともホフマンでは、現実への不安感が呼び込まれる。そうしてたしかにあるように描かれている現実が、それじたいたいへん不安定な足場にあるものであって、妄想を規定するにたるものであると誰にもいえないものになっているのである。そして、だとするなら、わたしたちじしんがその生活でもってたしかにあるように思い込んでいる「現実」についても同様のことはいえるのである。それが、全体の不気味さを呼ぶ。たぶんホフマンのばあいは、そうしようとして書いているというより、ホフマンじしんの世界のとらえかたに依っているところが大きいだろう。そういう世界の認識のしかたじたいが、わたしたちには不気味であり、不安を呼ぶものなのである。
ではシャミッソーではどうなのかというと、魔法の靴があるいはそうしたことの表象であるかもしれないが、現実との折り合いをつけようというようなところがあるかもしれない。彼らの蒙った「理不尽さ」というものは、おもえば、作中の保守的な、善良なひとびとが、じぶんたちの属する「現実」をたしかなものだと信じ込んでいるがゆえに起こったことである。誰がどうこういったって、げんに彼は影を失ったのであり、それは現実のはずなのだ。だから、シュレミールはある意味、彼ら善良な人々の属する「現実」と「妄想」の互いに規定しあう世界よりひとつ高い次元に立ったのである。それは、じぶんたちの信じている「現実」は、ほんとうにゆるがぬ現実なのだろうかという懐疑を宿すということだろう。そうした悟りが、彼に魔法の靴を与えた。みずからの信奉する価値観を検証するためには、そうではない価値観に触れるほかない。彼のばあいは、ひとにぎりの例外を除いてひとに触れることはなかったが、文字通り世界を股にかけて旅をする姿はそうしたことを示しているとおもわれるのである。