- 『エリザベート ―愛と死の輪舞―』 [DVD]/宝塚クリエイティブアーツ
- ¥8,640
- Amazon.co.jp
■主演・・・明日海 りお、蘭乃 はな
『エリザベート-愛と死の輪舞(ロンド)-』
脚本・歌詞/ミヒャエル・クンツェ
音楽/シルヴェスター・リーヴァイ
オリジナル・プロダクション/ウィーン劇場協会
潤色・演出/小池 修一郎
[解 説]
上演回数799回、観客動員数192万3千人――今や、宝塚歌劇を代表する人気ミュージカルとなった『エリザベート』を、宝塚歌劇100周年を記念し上演します。一人の少女がオーストリア皇后になったことから辿る数奇な運命に、黄泉の帝王という抽象的な役を配した独創的なストーリーから成り、美しい旋律で彩られたミュージカル・ナンバーは高い音楽性を持ち、多くの人々を魅了してきました。世界各地での海外上演に先駆け、1996年に宝塚で初演されてから、今回で8度目の上演となります。花組新トップスター明日海りおがトート役を演じる大劇場お披露目公演です。
以上公式サイト より。
花組東京公演エリザベート観劇。2014年10月24日13時半開演。
明日海りおの本公演お披露目は名作エリザベートとなった。
エリザベートといえば1999年の姿月あさと率いる宙組での公演が僕のなかでは正典となっている。もちろん、その前後にも数度の再演があり、それぞれに観客には思い出深いものになっているとはおもうので、個人的な評価にすぎないし、だいたい僕はそれ以外では瀬奈じゅんトートのものを見たきりなので、少なくともこれは相対的なものではない。僕個人の書き物のスタンスからしても、そういう評価の仕方は避けたいところではある。しかし、ちょっとあれ以上のものは考えられないんじゃないかという感想が根深くあることは事実である。そう考えているひとは案外多いようで、今回の感想ツイートなどでも比較をする意見が多く見られた。なにしろあの姿月あさとの歌唱力である。うたの上手さということでいえば、宝塚の歴史は長いので、多くの歌い手が存在するのだが、あの明朗な声とどこまでも伸びていくようなパワーはなかなか比較の対象すら出てこない。ソニー・ロリンズというジャズのテナーサックス奏者のコンサートにいったとき、その時点で70を超えていたとおもうのだが、非常にヴィヴィッドでパワフルな音色を保ちながら、ひとつの曲について底の見えぬアイデアの波を即興で20分も30分も見せつけられて驚愕したが、音色といいパワーといい、姿月あさとのうたを聴くとこのときのソニー・ロリンズのことがあたまに浮かんでくる。うた尽くしのエリザベートを姿月あさとで実現できたということは、できたばかりの当時の宙組では最大の収穫だったんではないかとおもう。花總まりのことは正直あんまり好きではなかったが、その実力を認めないわけにはいかないという存在だった。そして、はまり役というのもあんまりだが、和央ようかのでくのぼう感。強烈な個性を要求するルキーニには湖月わたる・・・。あるいはトップが姿月あさとということで、組全体の平均的な歌唱のレベルが目に見えないレベルで底上げされていたという可能性もある。当時はまだ15歳くらいなわけだが、何べんも見に行った記憶がある。
そういう思い出深い公演なので、宝塚から離れていた期間も瀬奈じゅんのものだけは見に行ったのである。その10年くらいの間、春野寿美礼や彩輝直、水夏希による公演も実現しているが、きれいさっぱり離れていたせいか、そもそも情報が入ってこなかった。いや、知っていたかもしれないが、意識のうえにのぼらなかった。瀬奈じゅんにかんしては、ミーマイやギャッツビーの再演も前後にしているので、そういう理由もあるかもしれない。
なぜこういうことを書くかというと、あるいは今回の花組のものは宙組のものを超えたかもしれないと感じたからである。というのは正確ではなく、くりかえすようにそもそもそうした相対的評価を好まない方針できているので、要するに、少なくとも「宙組以上のものは考えられない」ことから派生して、エリザベートを観劇する際にどうしても生じてしまった比較の呪いから今回解放されたかもしれないということである。端的にいって非常に感動した。なんか、こんなに、贔屓目もフォローもなしにすばらしかったといえる作品に出会うことが減ってきていたので、衝撃的だった。エリザベートじたいがおそろしい傑作で、うたづくしで全曲名曲といっても過言ではなく、さらに加えて観客はそこに個々人の歴史的な感傷まで覚えているわけだが、そういうのを考慮してもたいへんな出来であった。知っている、というか熟知しているミュージカルなので、全体としてひとつの曲みたいなものというか、ある音楽が開始される前のセリフややりとりですでにその曲に感動しているようなもので、結果として文字通り全編とおして鳥肌たちっぱなしだったわけだけど、しかし音楽というのは時間の表現なので、原則的にいまこの瞬間と、まだ鳴っていない音(無意識に感知している音の先取り)や鳴り終えた音との関係性によって成立しているので、この感動のしかたは音楽的に正しいはずである。
エリザベートは現実問題としてもうた尽くしで、なおかつ、作品としても演者に徹底的にそれを要求するところがある。まあ、プロの世界なのだから、それはごく当たり前のことなのだが、演目以前にまず劇団と出演者が想定されている宝塚の文脈からするとやや異質である。ひとことでいってうたえないとはなしにならないのである。物語の重要な展開や細かな設定まで、よく注意しないと聞き取れない合唱で説明してしまったりするような、芝居の言語の文法が音楽理論であるような作品なのであるから、うたえないというのは、通常の芝居でかみかみであるとか、声が小さすぎて聞き取れないとか、そういうレベルのことになってしまうわけである。じっさいは見ているほとんどの人間が内容を熟知しているとかそういうことは問題ではない。作品がそういうマナーを要求するのである。作中を自由自在に動き回る超越者のルキーニにしても、教科書的な上手さは求められなくても、少なくともうたに基づいた強い個性が要求される。
その意味で、実にすばらしいタイミングで今回の公演は実現したものである。再演ものではたいていみなさん「いまのこの組でしかできないものを」という言い方をされるが、これほどこの言葉があてはまる演目がかつてあっただろうか。というのは、これを最後に、桜一花、蘭乃はな、大河凛は退団することが決まっており、さらに現役のタカラジェンヌで最強の歌い手である望海風斗は雪組に異動してしまうのである。逆にいえば、この公演中は彼女たちがまだいるのである。長い間歌い手としては勉強中の感が否めなかった蘭乃はなはともかく、桜一花もなかなかの歌い手だし、大河凛の、姿月あさとを彷彿させる明るい声など心温まるものがある。望海風斗は、少なくともうたに関しては、すべてを任せておいて問題ないという種類の信頼できるかたなのである。トップの明日海りおは、セリフをかみやすいぶぶんが、うたにおいてはリズム感に影響している傾向があるのだが、声量は申し分なく、なにしろこのひとは声がすばらしい。かなり張り上げても丸みを帯びたままの耳に優しい声質であり、非常に中毒性が高いのである。だんだん、聴いているうちに、やや鈍く感じられる滑舌とそこから生じてくる独特のリズムのとりかたもこのひとのうたにおいて欠かせぬ要素のようにさえ感じられてくる。この手の木管楽器的な声質のひとはぴったりしたパートナーが見つかればハーモニーでもしっかり聞かせることができるようになるはずである。
それに加えて専科からは北翔海莉が参加している。このひともまた、とにっかくうたが上手い。うたの上手いひとというのはもちろん音楽を制御しつつ言葉を発していくので、自在に崩したうたいかたを自然と行っていくものである。しかしこのあたりは繊細で、オーケストラとインタープレイをするわけでもない舞台上では、芝居の時間感覚の基本から浮いてしまうような歌い方は観客の感覚を狂わせることにもなり、そこのさじ加減が抜群である。
こういうメインキャストを、仙名彩世や菜那くらら、羽立光来といった、非常に音楽的基礎体力の高いかたが随所で脇をかためていく。とにかく、花組は基礎体力が高い。こういう言い方は感傷的すぎるとおもうが、蘭寿とむが残していった組の財産ではないかとおもう。
エリザベート上演が決定してからいちばん気になっていたのは、蘭乃はなであった。おそらくこのひとの地声はけっこう低いのである。もともと、低くつくりこむとはいえ女声である男役ありきの宝塚では、娘役というのは普段以上に高い声を出さねばならず、うたにおいては裏声をかなり多様する。厳密に検証したわけではないが、どうも蘭乃はなは、この地声から裏声に移行する頻度がひとより多いように感じるのである。宝塚の平均的な音域的にそうなるのかもしれない。そして、そのときに、ややはずれるのである。通してアニメ声みたいな地声でうたっているときは非常に生き生きとしており、そうしたストレスもあまり感じないことが多いのである。個人的には声質じたいが好みなので、多くのひとがいうほど感じないのだが、まあ、現実として、エリザベートをやるとなってまず第一にそのうたが気になったということはあるのだった。
しかし、贔屓目とみてもらってかまわないが、退団公演でじゅうぶんな歌い手に完成したと、そのように僕はおもった。これが世界最高のエリザベートだとはいわないが、なんというか、予想していた以上に仕上げてきたというふうに感じたのである。ご本人は花總まりをかなり尊敬しているようだし、その代表作であるエリザベートを自身もやるとなれば、喜びとともにそうとうなプレッシャーも感じていたことだろう。うたが苦手といっても耳が悪いというタイプではなさそうだったし、弛まぬ努力を重ねてこられたのだとおもう。
しかし、東京公演に関しては、あまりいいはなしを聴かなかった。それは、出演者の出来というより、おもにオーケストラのことだった。今回、トランペットが裏返る箇所などがあったものの、オケに関しては特に感じなかったのだが、最大の事件は芹香斗亜のルドルフのマイクが登場してすぐぶっ壊れてしまったことである。たんじゅんなマイクの故障か、あるいはそれを装着するにあたってなにか不手際があったのか、よくわからないのだが、とにかく、ルドルフが登場して歌いだすとなにやらひどいノイズが響くのである。そういうことはたまにあるので、たぶん見ているほうもそんなに気にしていなかったとおもう。しかしトートとのデュエット「闇が広がる」がはじまったあたりで、ちょっと洒落にならない雑音がうたに覆いかぶさっていったのである。僕もいままで経験したことのないレベルのノイズだったので、地震の揺れがだんだん大きくなっていくみたいに、激しく緊張して、やばいこれ芝居中断するんじゃないのとおもったほどだ。演じられているほうもなにが原因かわからないようで、明日海りおなどはさりげなくじぶんのマイクのあたりにかかっていた髪の毛を整えていたが、変化なし、どうやら芹香斗亜のマイクに原因があるらしい。大きな声を出すと割れるのか、それとも断線などして接触不良なのか、芹香斗亜もうたいつつ探っていたようである。やがてそもそも歌声を反映しないような瞬間も出てきて、結果として芹香斗亜はほとんど生歌をうたうような状況になってしまった。そのあたりはすべて音声さんが一括して制御しているのか、オーケストラの音も絞り気味になり、そのあとのエリザベートとのうたもそれでなんとか乗り切ることができた。僕は気づかなかったが真ん中から集音マイクが出ていたようである。とにかく袖に引っ込むことができればどうにかできるのだが、そのことに気づいたときはへんな汗が出たが、この場面、ルドルフはピストルで自殺するまで出っ放しなのだ。
しかし、それも込みでお芝居である。もちろんそうしたトラブルはないほうがいいに決まっているが、編集のきかない生ものである、そしてお芝居の役者は、それで舞台に出た以上、原則にしたがってやりきらなくてはならない。なぜなら、ルドルフの耳元にはじっさいにはマイクはついていないのだし、雑音も鳴っていないのだし、観客もいないからである。もし、たとえばルドルフがトートから目線をはずし、一瞬でも芝居をやめて、マイクの様子をチェックするようなことがあれば、その瞬間にルドルフはウィーンを遠く離れ、ただの「舞台のうえに立っているひと」になってしまう。不謹慎なことだが、この件を見て、あのかわいらしい芹香斗亜も立派な舞台人になったんだなと、逆に感動してしまった。ノイズが大きく入った最初の瞬間はやや動揺したようにも見えたが、動揺したのは芹香斗亜ではなく僕だったのかもしれない、通して、まるでなにも起こっていないかのように、ルドルフを熱演されていた。母・エリザベートに向かって、父を説得するよう、生歌で必死に訴えかけるルドルフ。観客としての無責任な言い方になるけれど、すばらしい熱唱だった。
エリザベートは表層的には、皇后エリザベートのタナトスの物語である。時間軸的には、すべてが終わった100年後に、煉獄にとどまったルキーニが半生者としてことの顛末を語る構成になっている。それ以外の登場人物はそのときには一人残らず死んでいる。ルキーニはエリザベート殺害の犯人で、煉獄の番人みたいのがその動機を問いただしているのである。しかしこの番人にはトート閣下は見えないようで、魂の所在としてはやはり半生者、半死者というところのようだ。だから、番人の目線はそのまま生者の目線とも重なり合う。ルキーニは彼に向かって、皇后は「死」と恋に落ちていた、じぶんはそれを手伝ったのだと訴えかけていることになるのである。だから、表層的な構造としては、エリザベートが抱えていた「死にたい」という願望、死への欲動を満たすまでの道のりが、本作ということになる。しかしフロイト的な意味でのタナトスはふつう満たされることがない。生を賦活するエロスでは説明できない精神的現象、たとえば、戦争から帰還した兵士が、思い出したくもない戦場での出来事を夢で反芻するというようなことを説明するために仮構した欲動なのである。エロス以外のなんらかの欲動がなければ説明できない、そういう流れでタナトスは立てられたのである。僕の理解では、それは一種の防衛本能のようである。死への恐怖が根本にある人間が、それを反復することで、乗り越えを目指し、ひとことでいって「死ぬ練習」をしているのである。エリザベートでいえば、あの転落事故の恐怖が、夢のなかに死、つまりトートを呼び出し、反復させ、それを乗り越えさせようとしていることになる。しかし、エリザベートは乗り越えない。それにとりつかれ、やがて受け容れてしまう。現実逃避などのエロスを批判するものとしての消極的タナトスの可能性を除いて、もしそういうことがあるとすれば、なるほど、それはたしかに死との恋といえるかもしれない。
本作は輸入作品で、オリジナルでは主人公はエリザベートとなるらしい。トートが主人公となるのは宝塚独自の展開のようである。そういう事情も込みで、しかし僕は、こうした構造はオリジナルのほうにはあてはまっても、宝塚版にまで広げるのは少し野暮かなと今回考えた。つまり、エリザベートとトートのやりとりを見て、「あれはエリザベートの願望の表現なのだ」ととらえることは可能ではあるが、それよりもトートは、死の概念を超えた、身体を備えた個人と見るのが正しいのではないかと。死とか愛とかが具現化して踊りだしたりするのは宝塚の十八番なので、よく見る光景だが、死に限っても、それは誰にも共通するものである。だから、「死」は、誰かを特別視したりしない。もしそう見えることがあるとすれば、それはエリザベートや、あるいはルキーニの願望がそう見せているのであり、一種のフィクションである。そうであるなら、タナトスの表現であるという見方はかなりあてはまる。このトートは主体にはなりえない。
けれども宝塚版のトートはそうではない。これも演じるかたによってかなり色が異なるようだが、原則的に彼らは血肉のかよった個人なのである。トートはエリザベートに、なにかの表現とか比喩とかではなく、じっさいに、本当に、恋しているのである。
また長くなってしまった。退団する蘭乃はなはファントムから一緒に見始めた相方ともども、もっとも馴染み深いトップ娘役だった。よく知るひとがいなくなるのかとおもうとさびしくてならない。桜一花も同様である、難しい役で花組を支えてきたすばらしい娘役である。またひとり、「任せておける」タカラジェンヌがいなくなってしまう。そして大河凛・・・。ちょっと男役にしてはキュートすぎたというか、学年的にも動機には芹香斗亜がいて、したからは柚香光が押し上げていて、なかなかうまくいかないところにいたのかもしれない。芝居ではチョイ役を除くと女役での退団となったが、非常に活発に、気持ちよさそうにうたわれていた。あの役って基本的に上品とはいいがたいわけだけど、あんなふうに躍動的にかわいらしくできるものなんですね。トップお披露目となった明日海りおも含めて、今後の活躍を期待しています。
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