第339話/フリーエージェントくん⑲
成り行きで天生の生誕祭のチケット売り上げで清栄と勝負することになった仁。勝者が、天生のいうビッグビジネスのパートナーになれる。
まともにやったんでは勝ち目がない。経験も環境も人脈も知識も、ぜんぶ清栄が上回っている。というわけで仁は、売り上げで競うのではなく、まず彼の足を引っ張る戦略に出る。しんこchをつかって詐欺師だという噂を流すのである。
そうこうしてるうちに、あっという間に仁が清栄をぬいて売り上げ暫定1位になった。ただ足を引っ張るだけではない。仁のほうでも売りにかんして勝負に出ている。というのは、苅ベーをつかってきたのである。仁の教えをまちがって受けてしまった苅べーは、ツイッターやフェイスブックで盛大にやらかし、炎上してしまった。しかし仁はそれを逆手にとる。話題になったあのバカどもが天生の生誕祭にくるかもしれない、的な文句でチケットをさばくのである。たしかに、常軌を逸して知性の欠落した彼らが、うさんくさいとはいえ著名人である天生のパーティーに集団で顔を出したらどうなるのか?曙対ボブ・サップ的な意味で興味が湧いてくる。しかし、この方法では、やはりチケットそのものの価値はべつのものに変わってしまっている。たぶん天生はそういうしたたかさを好むタイプだろうから笑って認めるだろうが、「方法はどうあれともかく売る」ということに仁は徹しているのである。だって、その「バカども」を見に集まってくる連中は、たとえば天生と交流したいとか、また金持ちになりたいとか、多少そういう動機が含まれているとしても、全面的にそういうタイプではないわけである。なにかこう、形式主義というか、帳簿主義というか、たとえばいついつまでに100個の商品を用意しなくてはならないとなったとき、間に合わずとりあえず空っぽのダンボールを組み立てて依頼主の前に100個並べた、みたいな空虚さを感じないでもない。重要なのは、100個の商品を用意してなにをなそうとしているかなのだが、その場をのりきることをとにかく考えたとき、そんなことはどうでもいい。このチケットにしても、生誕祭の目的がなんなのか、ひとを多く呼ぶことでなにをなそうとしているのか、まずそういうところから考えてチケットを売らないと、チケットそのものの価値が半減してしまうが(天生の信者を増やすという意味合いであるなら、誰でもいいわけではなく、できることならやはりその手の商材に近しいものを集めたいはずである)、競争がまず第一の仁にはそんなことはどうでもいいのである。
仁の裏切りを知って激怒、さらに逆転もされて意気消沈の清栄は、塾女系デリバリーヘルスで傷を癒す。仁の裏切りについて愚痴るのだが、相手の女はどこまではなしを理解しているのか。
清栄もまた金持ちなので、やれるだけの女ならたくさんいる。けれども、心から気を許せる人間はいなくなってしまった。清栄の本音っぽいが、女がてきとうな返事をするので我に返ったか、彼女を罵って追い出し、シャワーを浴びながらひとり泣く。時間いくらの女がいう「私がいるじゃない」ということばが、むしろ孤独をつきつけるのである。
苅べーとモエコが平和にゲーセンで遊んでいる。そこにマサルがやってくる。苅べーたちがあまりにもアレなので、まともに取立てできるか心配だったが、そこはもう、拳をつかっていくらしい。基本的に闇金そのものは違法なのであるから、相手に「もうどうでもいいや」とおもわせないさじ加減が重要である。だから、ほいほい殴っても仕方ない。丑嶋も手を出すことはあっても、すべてがそうであるわけではない。その境界線はどこにあるかわからないが、まあ、苅べーくらいになったらもうそれしかないかもしれない。はなしても意味わからないだろうし。
苅べーの友人の淀チンもぼっこぼこに殴られて、とりあえず利息ぶんだけ払ったらしい。淀チンはもう警察いこうみたいなことを言っているが、苅べーは丑嶋のことを気にしている。マサルくんはどうでもいいと。正面きって逆らえるような相手ではないが、丑嶋と比べたらマサルもまだ小物あつかいである。その丑嶋についての噂は、楽園くんのハブについてのものである。ヤクザをフルボッコにするような男の金踏み倒したら、マジでやばいと。丑嶋はべつにハブをフルボッコにしたわけではない。たしかにぶっ飛ばしたし、ヤクザに手を出したのはあれが初めてだったから僕もびっくりしたが、百戦錬磨のハブは特段ビビッてはいなかったし、そこから多少の小競り合いはあったけれど、ふたりとも五体満足で帰宅した。ただ、「ヤクザをぶっ飛ばした」という事実の破壊力は、アウトローに生きるものたちにとっては大きいのだろう。ハブにつけねらわれるという危険を背負うことにはなったが、それじたいがまたはなしのリアリティを強め、丑嶋にとっては「暴力の気配」を強烈にして仕事をやりやすくする、いい伝説になったかもしれない。
ともかく、そろそろ金を用意しないとまずい。というか、仁の言うとおりしていれば儲かるはずじゃなかったか、というのが彼らの本音だろう。だいたい、いま仁が成功しているのは、じぶんたちが商材を買って、また村上塾を宣伝したからではないかと。スプレーで落書きをしていたフードの男、毎回あやしげに登場するが、今回初めて顔の下半分が描かれている。
とりあえず、苅べーが、仁と同じことをしないと儲からないということに気づいた。いちおう、気づきの形状としては、仁と同様である。仁もまた、清栄たちにされたように苅べーにすればいいと気づいて調子がよくなりはじめたのだから。
そして、苅べーは「苅べー激アツメソッド」を考え出し、仲間に売らせることにする。売れたらなんと報酬80パーセントだということである。すぐさまサイトも立ち上がる。「秒給4万8000円」だという。それを竹山が見ている。懲りない竹山は、このバカよりじぶんのほうが稼げるはずだしと、4万8000円の商材を買ってしまう。高校時代、超成績優秀なある友人は、「問題集を大量に買うやつはバカだ。1冊をやりこめ」と僕に教えてくれたよ。
しかし、秒給と商材の額がいっしょなのが気になる。トータルでいくらとか、それを秒で割っていくらとかではないのである。商材の額がそのまま秒給なわけである。
苅べーと淀チンは気の弱そうな少年をつかまえてまた卵を投げつけている。卵にはいったいなんの意味があるのかわからないが、ともかく、この少年に親のクレジットカードをもってこさせた様子である。しかし、これは恐喝ではない。彼ら的には商材を売りつける営業である。
そうして商材を「購入」した竹山や少年のもとに、宅急便でガチャガチャのケースに入った紙切れ一枚が届く。そこには「金持ちに成りたいなら俺と同じことをしろ」と書かれているのである。
つづく。
仁は炎上をうまく利用したが、苅べーの暴走はとまらない。マルチ商法とネズミ講の境界線というのは、難しいところのようだが、ひとことでいってあいだに媒介となる商品があるかないかということのようである。どんなにうさんくさくても、買い手がそれをほしいとおもって購入した商材を経由するのであれば、マルチ商法は、推奨される方法ではないとしても、厳密な意味で違法ではないと、そんなことだったとおもう。ネズミ講というのは、金の流れにひとを組み込み、勧誘という労働に対して報奨の支払われるシステムである。いずれにしてもこれらのシステムは、成功者を出すために必ず失敗者を出さなければならないという必然にある。もちろん、世界に存在するお金の量がつねに一定であれば、数字による交換の原理からして、どこかで儲かればどこかで貧しさが生じているわけだが、世界というのは貨幣のみで構成されているわけではない。貨幣というのは、ただのしるしである。価値あるもののかわりにつかわれている概念である。たとえば農業では、ひとつぶの種から数万の新しい苗が誕生しうる。農業の労働ひとつとっても、それは等価交換ではない。だいたい、ひとつぶの種を植えるという労働と、200年後に同じ畑で収穫されているものとの関係性を交換の文脈で語ることにまずほとんど意味がない。等価交換というのは、人間にとっての理論上の幻想みたいなものなのである。だから、人間どうしのものの等価交換の原理では、世界に存在する資本の量は一定だが、自然を経由したとき、それは増えたり減ったりするわけである。
しかし、マルチ商法やネズミ講では、完全にお金の運動のみが問題とされているわけである。仁の態度からもそれは明らかである。というか、そうである以上、仁は実に正しくこのシステムを理解しているのである。天生の生誕祭のチケットが仮に1万円だとして、それはひとによって高く感じられたり安く感じられたりするわけである。天生と近づけるなら1万円なんか安いものだというひとは、そのぶんいくらかもうけているのだ。そういう、自然物としての人間のわずかな価値観の振動が、べつの価値に変換されて、実を結ぶ。しかし仁にとっては、重要なのはただ金の動きだけであるから、どんな方法であれとにかく売ればいい。その後に生じる問題はまたべつのことである。先週も書いたが、清栄の足を引っ張るという行為は、じつは天生の価値を貶めるものでもある。清栄とじぶんとの差は歴然、だから、彼に勝つためには、なるべく彼にチケットを売らないでもらいたい、つまり、全体で見たとき、あまりチケットが売れないでほしいと、清栄の邪魔を始めた瞬間から、仁はそのように構造的に願ってしまうことになるのである。けれども、チケットそのもののもたらす意味は彼には重要ではない。ともかくそれを売る、そして清栄に勝つ、重要なのはそれだけなのである。
いずれにしても、苅べーの方法はずいぶん危険なものだ。だって、やっていることは、弱いものをおどして金をもってこさせ、「ほかのやつを恐喝してくれば損しないよ」といってるのと同じなのである。まあじっさいネズミ講というのを極限まで単純化したらそうなるのかもしれないが、ふつう、もう少し工夫するわけである。少なくとも卵を投げつけてほぼ強制的に金をもってこさせたりはしない。ガチャガチャのケースだろうとDVDだろうと、相手に「買いたい」と思わせなければ、マルチ商法にはならないからである。
苅ベーたちがじっさいに生誕祭にあらわれたら、いったいどんな事態になるのだろう。もしなにか問題が発生したとしても、それは苅べーたちの問題というよりは、手段を選ばなかった仁の責任になる。傍目にはおもしろいことになるかもしれないが、仁としては笑えないことになりそうである。
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