今週の刃牙道/第6話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第6話/予感





2話掲載2本目。片腕をなくした愚地克己と達人・渋川剛気が、神心会の道場で対峙している。克己が残った左腕で達人の襟をつかんでいるが、どちらもそっぽを向いて殺気も感じられない。ほとんど意識の向きの感じられないナチュラルな状態から、克己が右の上段廻し蹴りをくりだす。達人は合わせて肩を回転させて襟をつかむ手をはずし、克己を転ばせるが、転びつつ右の横蹴りが達人の頬をわずかにかする。落ち着いたやりとりで、彼らくらいナチュラルな気分で、意識を散らした状態でたたかえると、バキの0.5秒拳も通用しないかもしれない。空手の組み手のときも、なるべく相手の目は見ず、胸のあたりを漠然と見るように教わる。一点に集中しすぎてはいろんな方向からくる攻撃に対応できないのである。その意味で勇次郎はふつうよりあれがききやすいタイプだったのかも。


腕を失ったことを克己は「隻腕というオリジナル」と呼んでいる。それがどういうかたちに実を結ぶかまだわからないが、完成しつつあるようである。


稽古を終えて、ふたりは館長室でお茶を飲みながら雑談。こう見ると、ふたりがしゃべるところを見るのははじめてな気がする。そうじゃないかな。なにか悟空と餃子がしゃべってるような違和感が。


克己はあの親子喧嘩以降、特訓を続けているらしい。肉体を酷使していないとなにか落ち着かない。もちろん、彼は鍛えることが人生なので、訓練はいつもしているが、特別にきつい訓練をしている、という意味での特訓だろう。


渋川のはなしでは、それは克己だけではないらしい。まず第一に克己の父、愚地独歩が滝浴びなんかはじめたらしい。「いい歳して」と達人はつけくわえる。最大トーナメントでたたかってから、ふたりはかなり親しくしている様子である。おもえばだからいま克己が達人の相手していたんだな。

そして本部以蔵、彼も「いい歳」のはずだが、山篭りなんかして汗を流しているらしい。克己がなにもいわないので「だからなんだ」みたいな顔をしているように見える。

鎬兄弟も同様、昂昇はサンドバッグを切り裂く日々で、スーパードクターの紅葉は本業そっちのけで筋トレの毎日。ジャックもストレスや憤りを解消するかのように摂取する薬の量が増しているという。烈のことはアメリカにいるからわからないらしい。むしろジャックの日常のほうが知るのが難しそうだが、となると、新聞やなんかに出るような結果はまだ残していないということか。「範馬刃牙」ではけっきょく描かれないままに終わったボルト戦は、まだ行われていないか、あるいは負けてしまったのかも(勝っていればかなりの事件なので)。とりあえずそのガッツポーズなんだよ。


アメリカからの連想か、克己がオリバの名前を出す。渋川の受け持つ警視庁の門下生のはなしによると、刑務所でいちばんの重労働をしているそうである。といっても、それは以前からそうだろうけど。100キロくらいありそうなバーベルでアームカールしてる。なんというか、基本からつくり直しているのかもしれない。変化なしなのは渋川の知る限り花山薫のみ。


ではその渋川じしんはどうなのか。克己はそう問うのだが、渋川はその問いには直接答えない。そして、例の達成、「危うきに近寄れず」という達人の領域について語る。事前に危機を察知する、いわゆる予知能力的なもの。護身もきわめると、その危ない場所に向かうことじたいが困難になるというアレである。克己もそれを持っているのかというとそうでもないとおもうが、「理解(わか)る」という。そういう感じを知らないでもないということだろう。そこから、どうはなしがつながるのかよくわからないが、渋川は笑い、じぶんたちがなにかを予感しているというのだった。


いっぽうでバキの落書きハウス。喧嘩を売るどころか前にも立つことのできない連中が、バキに隠れてこっそり罵倒の文句を記していくのである。前からこんなにあっただろうか。親子喧嘩を経て増えたんじゃないか。バキの家やその周辺だけでなく、近所の家の壁にまでされていて、バキは周辺のひとたちの気まずいだろうな。


その家の地下で、いつものようにバキがトレーニングを終えたところである。ふつうではない量の汗を撒き散らし、力尽きて部屋の真ん中にへんなかたちに倒れている。器具類はいっさいない。バキが力尽きるくらいだから、勇次郎かピクルとリアルシャドーをしていたのかもしれない。

その状態で、身をゆさぶるみずからの鼓動を楽しんでいるなかに、じぶんのものではない巨大な鼓動が聞こえてきたのである。




つづく。




サービス回だった。独歩やオリバがまだ強さをあきらめていないらしいというのは非常にうれしい。特にジャックは、心配していたので、描写があってよかった。正直薬で到達できるレベルを彼はすでに超越しているようにおもえるので、「量」に走るのはどうかとおもうが、これらの描写はべつに強さを得るためになにが合理的かとかそういうはなしではなくて、えたいの知れない衝動に突き動かされる「強いんだ星人」たち、というところだろう。

彼らはあの親子喧嘩を見てから、じっとしていられなくなって特訓をはじめたということである。あの超人的なたたかいを見て、超えられない差を知るのではなく、ナニクソとなるところが彼らのすばらしいところだけど、しかし、渋川の言い方だとそれだけでもないようである。彼らは、なにかを予感している。ちょうど渋川が敵の強さを感じ取ってそこへたどり着けないように、強さを求めるものがみんなある程度は身につけているらしい、「危機の兆しを感知する能力」が、彼らを突き動かしている、からだを鍛えろと命じていると、どうもそういうことらしい。もちろんそれは宮本武蔵のことだろうとおもえるのだけど、しかし、武蔵創造と親子喧嘩はどのように関連してくるだろう。つまり、ひとことでいって、親子喧嘩がなくても武蔵がつくられていたなら彼らは同じ予感を覚えたのだろうかと、そういうはなしである。武蔵のクローンじたいは、ひとつ前の記事で見たように、かなり前から構想されていたようである。つまり、「武蔵のクローンをつくろう」というアイデアが光成個人のものだとして、彼がそれを思いついたのは、べつに親子喧嘩を見たからではないということである。要するに、親子喧嘩と武蔵創造は表面的には無関係である。けれども、グラップラーたちはその両方から刺激を受け、鼓動を感じ取っている。

武蔵の誕生そのものは人為的なものなので、たとえば極端なはなし光成が「やっぱやめた」と途中のどこかの段階で考えたなら、彼はつくられなかった。それが「人為的」ということであり、クローンが反道徳で世界中でタブーとされている理由のひとつだろうとおもわれる。生物の存在する権利が個人の判断に委ねられる、それがクローンという状況だろうとおもわれる。もちろん、わたしたちはふつうの生活でも避妊をするし、環境が許さなければ中絶することもある(避妊や中絶を認めない文化もあるけれど)。しかし、同様の文脈でいうと、クローン作製ではある個人がある人物をつくろうとしたとき、「その人物ではない人格」をすべて捨てていることになる。今回でいえば、宮本武蔵をつくるということは、宮本武蔵ではない人間はつくられないということである。そのときに、誕生する人間が個人の価値観によって「選別」されている。腕を組んでしばらく考えてみたが、クローンの道徳上の問題というのはとてもひとことで語りつくせるようなものではなさそうである。だから、とりあえずこの文章ではそういう理路をとることにしよう。その意味で赤ん坊というのは授かりもので、どのような人間が生まれてくるか、どういう人生を歩んでどういう人格になるか、親のわたしたちにもわかることはできないし、それを買い物でもするみたいに選ぶことはできない。つまり、クローン技術に手を伸ばし、それを普遍化するという行いは、世界の「わからないぶぶん」に手をのばすということなのである。たぶん、人類学的な意味で見ても、これはタブーに登録されるべき事項なんだろう。というのは、人間の世界というものは、「わからないもの」によって力強く駆動されているからである。世界はわからないものであると、そういう認識が、わたしたちを他者に向かわせ、当の科学を発展させる。クローン作製は、全体ではないにせよ、世界のあるぶぶんを人為的に制御するということにほかならない。それは、世界を情報量でカウントするような、輪郭の想定可能なゲーム的世界に変えてしまう、文明的な停滞への第一歩なのである。


というのがいまてきとうに考えてみたところだが、いずれにしても、クローン作製が「神の領域」であるということはまちがいないだろう。そこへ、光成とホナーは手をのばした。では彼らは神なのかというと、そういうことでもないだろう。厳密ないいかたをすれば、世界に「わからないぶぶん」が流れ続けるのは、神がそのように配剤したからではなく、逆で、そのような領域のことを仮に「神」と呼ぶのである。人類は、文明的回転を続けるために、本能的に、無意識に、クローンをタブーとするかもしれないが、宇宙的に見ればあるいはごく当たり前の科学的発展と割り切ることも可能かもしれない。つまり、極端な言い方をすれば、世界を統一的に語ることが可能であると、そのように想定されうる「神」というものの価値が縮小しつつあるということなのである。世界の「わからない」という感覚が徐々に失せ始め、世界が既知に埋め尽くされかけ、多くのひとが重度の「退屈」を患った結果の、「神の領域への侵入」なのである。もちろん、バキ世界で「すべてを統一的な一言語で語ることが可能」なものというのは、範馬勇次郎のことである。ひとことでいって、神とは範馬勇次郎のことだったのである。ところが、世界は親子喧嘩を経験することによって、そのバランスを崩してしまった。勇次郎は、超えることのできない、すべてを情報としてカウントし、文学的に説明し、科学的に解析することのできない、塗りつぶすことのできない他者として存在していた。いつでも、すでにわたしたちは勇次郎のふるまいを復元しているのであり、交換可能であると、彼によってつきつけられてきた。わたしたちにできて勇次郎にできないことはない、そういう存在だった。そしてわたしたちにはできないが彼にできること、これが、いわば世界の「わからないぶぶん」であった。勇次郎が絶対であるというのはそういうことである。この「わからないぶぶん」があるかぎり、わたしたち、というか作中の戦士たちは「強さ」を求め続けることが原理的に可能だった。

けれども、あの親子喧嘩を世界は経験した。これは構造上の問題なので、じっさいに目撃したかどうかは無関係である。結果としてわかりやすい勝敗の理屈で語ることはできないものとなったが、それでも、バキによって、勇次郎のほんとんどすべてのぶぶんは「語る」ことができるようになった。じっさいにはバキもまた超人であるのだが、結果として、物理学でいう「世界を統一的に語ることのできる理論」が、ひとつでなければ意味のない理論が、ふたつ同時に成り立ってしまったのである。そのことで、ふたつの理論は反証しあい、矛盾し、意味を失ってしまう。


そうして、神は縮んでしまった。この理屈でいくと、戦士たちはむしろトレーニングをやめてしまいそうである。だがそうはならなかった。彼らが生身の人間であるということが見えたというのも大きかったとおもうが、崩れたバランスは、もとの位置に是正されるまで逆の運動を続けることになる。くりかえすように武蔵のクローン作製じたいは親子喧嘩よりだいぶ前にはじまっていたらしい。だから光成の動機じたいはこれとは別のものである。が、鼓動が、戦士たちには届き始めている。武蔵の目覚めは近いようだが、それというのがつまり、崩れたバランスを正し、再び世界の「わからないぶぶん」をとりもどそうとする、世界のもっと大きな意志なのかもしれない。戦士たちはたぶん、自然の、世界の、そういう、ある意味で「反動」がくることを察知しているのである。






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