愚痴の構造 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

いろいろ書きたいこと、書かねばならないことはたまっているのだけど、なかなかできないでいる。休みの日は、誇張ぬきで寝てばかりいる。ほんとうに、一日中寝ているのである。愚痴になるが、もうかれこれ2年、2連休以上の休みをとっていない。前の前の正月に谷中に猫を見に行って以来連休がないのである。たぶん、とろうとおもえばとれるのだけど、そうすると当然誰かの休みをつぶすことになるし、僕より休みはあってもけっこうぎりぎりなところで活動しているほかのひとたちのことをおもうとそんなことは頼めないし、というかそれ以前に、じぶんのいない勤務先の店というのがもはや想像できない。一日休むだけでも心配なのである。僕個人は、とろいし、記憶力が抜群に不調なので、ひとより仕事ができるということはないが、じぶんのような原理的な視点で店を見ている人間が店長含めうちにはひとりもいないとはおもう(というのは、まさに、みんな僕より鋭敏で記憶力がよいために、目前の仕事に忙殺されてしまうのである)。接客業にはさまざまな不如意がまぎれているので、マニュアルではスルーできない事項もけっこう多いのである。


社会保険やなんかは、よくわからないが、いろいろ支払われているようだけれども、所詮は主任パート、正社員ではない(ボーナスもないぜよ)。だから、むかしの店長や、お世話になった社員さんなんかに、いまのこの店から離れられない状況を「あまりよくないねぇ」といわれることはけっこうある。気質的に「心配しすぎ」なぶぶんもある。複数の人間で仕事をするばあい、そのひとがやむをえず仕事を離れなければならなくなったとき、その途端にすべてがまわらなくなってしまうようにつくられているチームというのは、あまりよいチームではない。仕事に生き甲斐を求めることじたいは決して悪いことではないが、仕事のみで他者からの承認願望を満たしている傾向があるとき、ひとは、「じぶんがいなければこの仕事はまわらない」という状況に周囲を設計しがちである。じぶんが休息知らずの苦労人で、周囲が仕事のできないバカばかりであってくれれば、じぶんはつねに他者から必要とされる存在になることができるからである。ブログでもツイッターでも、あるいはふつうの会話、飲み会とかでも、「仕事の愚痴」というのは慎むのが常識というような傾向があるが、それはたぶん、こういうところに由来している。「愚痴」そのものの効果は明白である。よい点としては、誰かにそれを聞いてもらうことで、ストレス解消になるはずだし、悪い点としては、聞き手としては「そんなことには興味がないしせっかくのいい気分を台無しにするな」というのがある。だがおそらく「愚痴の禁止」には、もっと深い、人類学的な抑制のようなものがある。つまり、たとえば「バカばっかりでじぶんの仕事がぜんぜんすすまない」という愚痴をくちにしたとき、彼は、周囲の人間を「バカ」の枠内におしこみ、そのかわりに苦労を買ってでているじぶんをより具体的に認識してしまうのである。わたしたちは「愚痴」を通して、「他者から必要とされているわたし」というものを表現しているのである。現実にその周囲の者が「仕事のできないバカ」であるかどうかはここでは意味を失い、それらはただ、彼の「必要とされている具合」をあらわす装置になってしまう。そして、そうした状況をくちにし、みずからの耳に入れることで、「ああ、おもったとおり、おれってこんなに必要とされていたんだなぁ」ということが再認識され、ばかりか強度を高めてしまうのである。しかし、そうした認識は、集団で仕事をするときは、あまりすすめられたものではない。というのは、それが仕事の動機として勧奨されてしまえば、その集団に属するものはじぶん以外のものみんなを「バカ」とみなしていることになってしまうからである。個人でそのように感じることは自由であるが、それを現実界に実際に持ち込んではいけない、そして、「持ち込む」とはどういうことかというと、それがおそらく「愚痴」なのである。だからわたしたちは、「ストレス解消」とか「ネットマナー」とかはむしろ後付けで、無意識に「愚痴」を禁止しているのである。


ということを書くと、まるで僕が周囲を「バカ」といっているみたいだが、そうではなく(パートさんたちはみんな僕の3倍くらい仕事ができる)、「心配」をしてしまうということじたいのなかに、そういう承認願望にまつわり深い病理があるのではないかと、そんなふうにもおもえてくるのである。なんだかんだことばを積み上げても、意識していない底の底ででぜんぜん信頼してないんじゃないのと、そんなふうな疑念が湧いてくるわけである。


しかし、以上のことはある意味思弁的なゲームであって、僕の心配はじつは仕事のできるできないという次元のはなしではない。たんじゅんに、うちはヤンキー客が多いから、女性ばかりでは心配だということなのである・・・。ヤンキーはマナーが悪くてもまれに心優しいものもいるからまだマシなほう、特に中高年に多いのは、女性だからといってなめてかかって、些細なことで恫喝するようなタイプの男性である。いまは男性スタッフが僕だけなのだが、ちょっと前には体操の選手でもあった非常にガタイのいい、しかも真面目であたまのいい、理想のバイトくんがいたのだが、彼とふたりで入っていたとき、来店するたびに100%なにかしら難癖をつけて恫喝していくお客さんがやってきたのである。僕はそのときはじめてそのひとを見たので、どんなヤクザものなのかといろいろイメージしていたのだが、やってきたのはふつうの小柄な中年男性であった。バイトくんには事情を含ませてあったので、かなり緊張しながらふたりで接客をしたのだが、見事になにも起こらなかったのである。そのとき、僕はすべてを悟ったのである。


なんのはなしだったか、そう、疲れがとれないというはなしである。若いころは寝ないまま何日も遊び歩くことができたものだけど、やっぱりそういうところから年齢が出てくるのか、ごく微量の疲れが解消されぬまま毎日蓄積されて、身体の働きを鈍くし、それがまた疲れを呼んでいると、そんなふうな図を想像してしまう。来週からバキが復活するし、来月からは、蘭寿とむの退団という複雑な事情はあれ、宝塚ライフも再開する。どうにかして持ち直したいところである。