『邪悪なものの鎮め方』内田樹 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『邪悪なものの鎮め方』内田樹 文春文庫





邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)/文藝春秋
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「「邪悪なもの」と対峙したとき、私たちの常識的判断や生活者としての論理は無効になってしまう。そんな「どうしていいかわからない」状況下でどう適切にふるまうか?霊的体験とのつきあい方から記号的殺人の呪い、災厄の芽を摘む仕事の方法まで―“人間的尺度を超えたものに”に対処するための知恵の一冊」Amazon商品説明より






「内田樹の研究室」コンピ本、文庫新刊。


おもにブログの記事や短い書評などをまとめたこの手の本はもうこのひとではたくさんあるが、だいたい震災以降、原発、9条、秘密保護法等々、心持ち硬めな、要するに政治的な話題が続いていて、それだけ重要なことだから書かれているわけであるのだし、それもまた刺激的ではあるのだけど、それだけに、生活実感に基づいたなにかしらについての意外な視点だとか、レヴィナスにかぎらない哲学的なおはなしや、村上春樹に限らない文学的なおはなしが減ってきている印象もあって、本書は久々の、そうしたある意味雑多な1冊である。(といっても単行本が出たのは2010年だけど)


いろんなおはなしのつまった、ちょうど「街場の現代思想」に近い印象であるとはいえ、タイトル通りに「邪悪なもの」に対して人間はどう反応すべきなのか、ということがいちおうテーマになっている。そのように主題をひとつに定めないと、ただのブログの書籍化になってしまう。そこで、いちおうはそのようなテーマに基づいて集められたものであるのにもかかわらず、個人的には内田樹の本領発揮ともおもえる「様々な質問に対する鋭利な即答」が感じ取れるということは、そもそも「邪悪なもの」に対応する、そのしかたの研究が、このひとの畢生の大仕事ということなのかもしれない。げんに、合気道にせよレヴィナスにせよ、本書を読んでいるとそうとしかおもえなくなってくる。だから、「街場の現代思想」と同じく、はじめて内田樹を読むというかたにもおすすめかもしれない。


「邪悪なもの」とは、神聖な/呪われた、という、日本語では両義的なラテン語のsacerに近いと、あとがきには書かれている。つまり、人間の感覚では知覚できない、計測できない、「人間のスケールを超えたもの」のことだという。そういう、日本語以前の地点でsacerななにごとかが、そのときどきで、神聖なものだったり、邪悪なものだったり、特別の名前で呼ばれることになる。そして、そういう、計測ができず、共感ができず、身体感覚の相似形として想像を伸ばしていくこともかなわないとき、わたしたちはどのような対応をすべきなのか。もちろん、「そういうテーマがある」といっても、まずテーマがあって、それを前提にぽつぽつと記事が書かれていったわけではなく、だいたいそんなようなことが書いてあるものが集められているわけだから、そのように大上段な感じはないのだけど、ともかくそういうことが書かれている。書かれているというか、その「書く」という行為そのものが、「邪悪なもの」、転じて「答えのない問い」への「即答」になっているのである。つまり本書は、ある意味では、sacerなものごとに対したときの内田樹の実践的対応、その履歴ということなのである。内田樹の読者ならみんな知っていることで、筆者じしんもあとがきに書いていることだが、特別本書には、「・・・について質問される。よく知らないことだけど、次のように即答する」というような言い回しが頻出する。それが教師にとって必要な能力だ、ということはこれまでもあちこちで語られてきたので、特に気にしていなかったのだが、ふと考えてみると、これはそういうことなのではないかと。


さらにおもしろいのは、教師として、昨日いっていたことと今日いっていたことが異なっていてもいいというのである(「原則的であることについて」)。次の教師にパスをすることが教師の仕事だからと。これはべつに、その言説について無責任である、というようなはなしではない。これはたぶん、次から次へと「いつものはなし」をブログに更新し、書くそばから忘れて、書籍化し、じぶんでびっくりするという、内田樹の執筆スタイルにかかわる姿勢なのではないかとおもう。じっさいのところ、内田樹の読者というものは、4、5冊読んだあたりでかなり内田樹の思考法とか文体を修得してしまう。少なくとも僕はそうである(とおもう)。仮にじぶんで実現できなくとも、読んでいる最中は「ああ、いつものあの理路だ」ということが想起されて、すらすらとその先の展開が見えてくるのである。といっても、予想できるということではなく、毎回その鮮やかさに驚嘆するのではあるのだが、だからたぶん、よく聴きこんだジャズミュージシャンの即興演奏を聴いているような同期感に近いかもしれない。僕はもう20年くらいチック・コリアというひとのピアノを聴き続けていて、細かなフレーズの分析はできなくとも、その感覚そのものは身体に染み付き、「修得」しているのである。だから、「次の小節はこんな感じだろうな」と予想できるわけではもちろんないのだが(そんなことになったらたぶんジャズはすごくつまらない音楽になってしまうだろう)、その瞬間に誕生した音に触れても、「知っている」ともちがうが、じぶんの身体の微妙なある箇所にはじめて触れたり、数枚の鏡をつかって普段見れない箇所を見たときのような、「知っていたことに気づく」ような感覚になっているのである。内田樹の文章がもたらすドライブ感も、特に内田節を「修得」したファンにとっては同様なのである。


どうしてそのようなことになるのか、考えてみると、内田樹の代表作とはいったいなんなのだろうかと。もちろん、『日本辺境論』も『私家版・ユダヤ文化論』も、またレヴィナス関連の論文も、どれもおそるべき傑作ではあるのだけど、長さという点、つまり労力という点を除いて、なにかこうしたブログ記事と等価であるような印象も受けるのである。これをもってして内田樹の書き手としての価値が定まる、とされるような絶対的なテクストがないのである。それは「書き捨て」というようなものともちがう。そのひとつひとつが、緊急的に、「即答」されたものなのである。そもそも「正答」のない、こたえのない問いに対する応答なのであるから、「これが定番」となりうるような回答はあらわれようがない。じっさいには内田樹の考えは一貫しているから、「あのときといっていることがちがう」という経験はほとんどないのだが、しかし次々と「いつものはなし」が独特のドライブ感とともに放出され、本となり、しかも「定番の名文」にならない、「この本にいつもの『あのはなし』が集約されている」ということにならない理由は、こういうところにあるのではないかとおもうのである。


「邪悪なもの」は、手持ちのものさしで測定することのできない現象を指している。だから、それに対したときとるべき行動も決まってはいない。けれども、霊感にしたがって「即答」しなければならない、そういう状況の連続が、ひとつひとつの状況は小さなもので、予行演習的なものにすぎないとしても、実践的に書かれているのである。内田樹の突飛なアイデア、論理的な架橋、それじたいが、「邪悪なもの」に対するときのいわば模型的なお手本なのである。そして、そうしたとき「とるべき行動」には「正解」はありえない。というか、「正しいこたえの導きようがない問い」のことを、たぶん「邪悪なもの」と呼んでいるのであるから、その「即答」が絶対的な、権威的な「名文」になることもまたありえないのである。内田樹の「次から次へと『いつものはなし』を等価にしつこくくりかえす」という執筆スタイルは、「邪悪なもの」「こたえのない問い」に対応する日々の連続で生まれてきたものだったのである。