『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』 | すっぴんマスター

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■『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』  集英社新書





荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)/集英社
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「荒木飛呂彦がこよなく愛するホラー作品の数々は、『ジョジョの奇妙な冒険』をはじめ、自身が描いた漫画作品へも大きな影響を与えている。本書では、自身の創作との関係も交えながら、時には作家、そして時には絵描きの視点から作品を分析し、独自のホラー映画論を展開する。巻頭には「荒木飛呂彦が選ぶホラー映画Best20」も収録。ホラー映画には一家言ある著者の、一九七〇年代以降のモダンホラー映画を題材とした偏愛的映画論」Amazon商品説明より







ジョジョの奇妙な冒険の荒木飛呂彦によるホラー映画論。前々から、特に短編などで、ホラー、というかスティーブン・キングが好きなんじゃないかなという感じはあったので、すごく納得の1冊。


映画論といっても、ガンツの奥浩哉のものと同様、そんなに硬いものではなくて、さくさく読める映画の紹介のようなもの。ただ、その評価の基準が、実作者らしいもので、こう見るとホラーならなんでも好きなようでもあるけど、たとえば邦画は演出がちんたらしていてあまり好きではないとか、そういうのもあって、やっぱり独特の1冊だとおもう。書き方も先生らしく、ジョジョのセリフとかは記憶に残る名言が多いが、名言集に書いてあったことだが、これらは即興で書かれることが多いみたいで、あとで読むと文法的におかしいところがあったりするのもそういうのが理由らしく、しかしあえてそれが残されたりしているわけだが、本書でも、「ん・・・?あの映画そういう展開だったっけ?」みたいなところがわずかに見られて、たぶん勢いにのせておもうままに書いたものではないかと推察される。それだけにたいへんな読みやすさと迫力、訴求力である。好きなものを紹介しているときの人間の上気した様子が伝わってくる、そういう文章だる。読んだひと誰もがあれも見たいこれも見たいとなるにちがいない。

僕もホラー映画はかなり好きだけど、偏りがあるんじゃないかという不安はあって、特に古いものはあまり知らないので、そのあたりを考えると「ホラー映画好き」と大きな声でいえない感じもあるのだけど、本書に登場する映画はすべて荒木先生がホラーにはまって以降、具体的には1973年の『エクソシスト』以降ということになっている。そんなことを記して本人以外喜ぶひとなどいないわけだが、僕では紹介されている映画のほとんどを見ていて、この手の本はいろいろあるけれど、ここまで「ほとんど知ってる」ということは珍しく、これは「荒木先生と趣味が近い」というようなのどかなはなしではなくて、『ジョジョの奇妙な冒険』が僕の人生におよぼしている影響、というふうに見たほうがいいだろう。最近になってやっとジョジョも1部2部と読んだのだけど、おもえばそのころのジョジョは吸血鬼やゾンビがばんばん出ていたのだ。僕が熟読していたのは4部以降なのだが、それでも、そういう、ものの好みというか、美的感覚においてかなり荒木先生に影響されているんだとおもう。


ひとはなぜホラー映画を見るのか、悪趣味としかいいようがない血みどろの殺戮とか乾いたゾンビの群れとかをなぜ好むのか、いろいろな考えがありうるとおもうが、荒木先生の端的な解釈としては、「癒し」ということになっている。




「恐怖映画は一見すると、暗くて不幸そうで、下品で、そのうえ変な音楽まで流れていてレベルが低そうであり、異様な雰囲気さえ持っています。しかしすぐれた恐怖映画は、きちんと観てみると精神の暗部をテーマにしていて挑戦的な映画とも言え、どの場面もカット編集や変更ができないほど脚本や演出も完璧なまでに計算構築されています。そして本当にすぐれた作品は何よりも――これが大事な要素なのですけれども――「癒される」のです」226頁 あとがきより




この直前に、東日本大震災直後(あとがきが書かれたのは2011年5月)、「地震ごっこ」で遊ぶ子どもたちについて触れ、大人としてそれにどう接すべきか、ということが書かれている。つまり、果たして不謹慎だとしかりつけることは正しいのだろうかと。あれは子どもたちが本能的に選択した「癒し」の行為ではないかと。これは、フロイトが想定した死への欲動(タナトス)によく似ている。


「フロイトは、人間は生の欲動(エロス)だけでなく、原初的な無へと戻ろうとする無意識的な死の欲動(タナトス)にも動かされていると考えるのである。この欲動は、死の準備をさせることによって、主体を強烈な刺激から守る役割をはたしているのである」フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』光文社古典新訳文庫 315頁 中山元による解説




フロイトは孫のエルンストルがしていた遊びや、第一次大戦後、復員した兵たちがトラウマ的事態を反復的に想起する、快感原則に反する事例を踏まえて、タナトスを想定した。エルンストルは糸巻きをベッドの向こうに投げ、また引き寄せる、という「オー(いない)」と「ダー(いる)」の反復を行っていたが、フロイトは留守がちな母親に注目し、母親がいなくなって孤独になるという受動的な状況を、主体的に、みずから選択してそうなっているのだというふうに書き換える行為なのだと考える。兵隊たちの神経症も、次にまた同じような事態になったときに備えて、本能が、タナトスがそのように選択させているのだと考える。「地震ごっこ」もまさにそのような行為のようにおもえる。


しかし、じっさいのところ、そういう解釈はあとづけというか、ホラー映画が「悪趣味」であるがゆえに考えられた仮説、という感じもする。もちろん、美しいものをなぜ人間は好むのか、という考察も数多くあるとはおもうが、ホラー映画とかゾンビ映画ほど深刻ではないようにおもえる。美しいものが好まれるのは、美しいからだ、というトートロジーが、常識の範囲では許されるからである。その理由づけ、つまり批評的態度というのは、ホラー映画とそれを愛好するものの悲しい宿命かもしれない。

しかし、ではなぜ「悪趣味」なのかというと、当然、「死」のあつかいにかんする事柄が問題なのだろうとおもう。だけど、生を賦活するためにこそ、死を、また恐怖を反復することは不可欠なわけである。ゾンビをぽんぽん殺していくからといって、ゾンビを、つまりひとを安く見ていることにはならない。もっといえば、死をモノあつかいしたとしても、死をモノあつかいしたことにはならないわけである。しかし、これでいいのだろうとおもう。つまり、抑圧がひどくならないかぎりで、「悪趣味」でありつつ、愛好者は批評的態度を起動させ、いろいろ理由をつける、この状況で、正しいのだろうとおもう。


とりあえず、本書で紹介されたもので見ていないもの、そしてこれは見たいとおもったものは、『ファントム』『ディセント』『ファイナル・ディスティネーション』『ウェイヴ』『ザ・チャイルド』『ナインスゲート』『ファニーゲーム』、といったあたりだろうか。それからオリジナルのロメロの『ゾンビ』も、かつて深夜に放送されたものを途中から見たきりなので、また見たい。というのは、レンタルのお店ではなぜかどこにもおいていないからである・・・。もうこうなったらアマゾンで買うしかないのか・・・。






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