『フリークス』綾辻行人 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『フリークス』綾辻行人 角川文庫





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「「J・Mを殺したのは誰か?」―巨大な才能と劣等感を抱えたマッドサイエンティストは、五人の子供に人体改造術を施し、“怪物”と呼んで責め苛む。ある日、惨殺死体となって発見されたJ・Mは、いったいどの子供に殺されたのか?小説家の「私」と探偵の「彼」が謎に挑めば、そこに異界への扉が開く!本格ミステリとホラー、そして異形への真摯な愛が生みだした、歪み真珠のような三つの物語」Amazon商品説明より






新年一発目はこのごろ町田康が続いていたけど、たまには毛色の異なったものを、ということで、綾辻行人。この界隈でこのひとがどこまで大物であるのか僕にはわからないが、まあ巨匠といっていいのではないかとおもう。少年時代、僕では島田荘司がヒーローだったが、続いて本格ミステリにくわしくなってにつれて、このひとや、我孫子武丸、法月倫太郎、歌野昌午といったあたりを知っていくようになった。いまでは歌野昌午も法月倫太郎もかなりの大物作家になっているとおもうけど、特に好きだったのは我孫子武丸だった。最近聞かないけれど、かまいたちの夜みたいなゲームのシナリオも書いていたから、そっちで活躍してるのかな。

なぜこのひとたちのほうに進んでいったかというと、どのかたもすべて(だったとおもうが)デビュー作に島田荘司が推薦文を寄せていたからである。くりかえすように、当時の僕において推理小説というのはかなり大きいぶぶんを占めていて、そのなかでは島田荘司が神だった。そんなひとが推薦する作家なのだから、下手なものが書かれているはずもないのである。「新本格」みたいな作風の傾向ではなくて、特にこの4人をひとまとまりに見る向きというのは、あったのかなかったのか、よくわからないが、少なくとも僕のなかではなにか島田荘司の弟子、と書くとばかみたいだが、その本格志向を継ぐ若手代表4名、みたいなイメージで、たぶん、どなたかの小説の誰かの書いた解説でこの4人が同時にあげられていたみたいなことだったとおもう。もちろん、そうではないわけで、『本格ミステリー館』だったかな、島田荘司との対談において、綾辻行人がわりとぴりっとした、否定的な反論もさらっとくちにするのを見て、ちょっとびっくりしてしまった。作家どうし、よほど年が離れているとかでなければ、創作者としては対等なわけで、いまおもえば当たり前なんだけど、以上のような思い込みがあったせいで、驚いてしまったわけである。

その当時はたしか、歌野昌午はまだ講談社文庫から、「家」のシリーズと、誘拐のやつの4冊しか出していなくて、我孫子武丸も腹話術のやつが文庫で出始めたころだったかな、そんなだったから、冊数からすると、結果としては綾辻行人がいちばん読んでいたかもしれない。つまり、新潮文庫から出ていた霧越邸殺人事件や、講談社文庫の、いまでも続いている「館」シリーズである。館シリーズは僕は当時出ていたすべて、「黒猫館」まで読んだのだが、ここまで書いておいてアレだが、そんなに、衝撃的なほどの印象が残っているという感じはない、と書くとミステリファンに笑われるとおもうが、島田荘司はともかくとして、たとえば我孫子武丸の「8の殺人」とか「0の殺人」、歌野昌午の「長い家の殺人」、このあたりは、トリックの様子までおぼろげながら覚えているのだけど、館シリーズは名探偵にあたるひとが折り紙が得意だったことしか思い出せない。たぶん、いまおもうと、ちょっと難解だったのかもしれない。トリック、仕掛けそのものもそうだったような気がするし、「十角館」とか「迷路館」とか、これらの奇妙な館はすべて中村青司という天才建築家の建てたもので、その幻想的な雰囲気も、ガキだった僕にはようわからん、という感じだったのかも。(しかし名探偵の名前は思い出せないのに、中村なんとかという名前はいますっと出てきて、ググッて確認してびっくりしてしまった。あるいは、そのわからないなかにも、なにかいまのじぶんでは理解しきれないなにかしらがあるということは感じ取っていたのかもしれない)



だが、じつは綾辻行人はそれだけではなくて、ホラー作家というか、ファンタジーの雰囲気を帯びたミステリ的な構造のおはなしが抜群にうまく、僕はむしろそっちをよく読んでいた。つまり、「殺人鬼」のシリーズである。これは、たぶん中学生くらいにはなっていたとおもうけど、ほんとに衝撃を受けたし、何度も読み返したくらいおもしろかった。いまおもうと、ゾンビとかホステル的なスプラッタな僕の悪趣味的なぶぶんは、このひとが覚醒させたんじゃないのかとすらおもう。もちろん、ホラーとして描写が優れている、ということはまちがいなくいえるのだけど、それだけじゃない、というところがほんとうに衝撃だった。「それだけじゃない」というのは、まずホラー的小説があって、掃除機の先端につけるアタッチメントみたいにミステリ的要素が付着している、というようなはなしではなく、物語ぜんたいにわたってミステリ的な血液が流れていて、ホラー的、幻想的な筋肉で活力を生みつつも、そういう論理的な枠組みのなかにすっきりおさめてくる、そういう感じだったのだ。ミステリといえば、当然リアリズムの書き方でまとまっているもので、もちろん抽象的な、視覚の奪われた描写でつくられているということではぜんぜんないのだが、まず一般的に、わたしたちが日常経験可能な事物によって、構成されているものだろう。このことにはほんとうにびっくりして、いまおもうとこれはSF作家のしていることに近いのかもしれない。たとえば、ドラゴンボールみたいな漫画では、ある技術、心構えみたいなものを通して、指先にちからを、「気」をこめると、エネルギー波が撃てるわけだが、その、エネルギー波を撃つ前と、放ったあとでは、リアリズム的には断絶している。全国の子どもたちが実践して挫折したように、じっさいに亀仙人と同じ動きをして、セリフもまねてみても、かめはめ波は打てないわけである。それは、なぜそうすると「気」がためられるのか、リアリズム的な検証を経由していないからである。そこを、ある種のリアリズム的なSF作家は、理論で埋めて、説明する。僕はこのころマイクル・クライトンも好きだったのだけど、このひとなんかもそうで、『ジュラシック・パーク』なんかの「どうやって恐竜をよみがえらせるのか」という検証など、ほとんど意味不明でありながら、ひどく興奮したものである。

たほうで、現実との接続はおいて、未来や異世界の秩序をとりあえず成立させてしまい、そのなかで物語を展開させる、という方法もあるだろう。というか、たぶんほとんどのSFはそうなのかもしれない。「殺人鬼」のシリーズや本書では、これとよく似た手法がとられている。本書最終話の謎解きぶぶんで、「思念波」のようなワーディングの頻出する、現実とは考えがたいある文書を前にして、探偵役の男はこう前置きする。





「・・・云わずもがなのことかもしれないけれども、了解しておかなきゃならない条件というものがある。思念波に関する『わたし』の理論や体験、K

女史がもたらした情報、それに対して『わたし』が考えたり喋ったりしている内容・・・それらのテキストがすべて作中における“真”であると前提したうえで、ってことだね。でなきゃあ、そもそもこれを“問題”として扱う意味がないし、論理的にそれを解くなんて絶対に不可能だという話になる」288から289頁




物語は、現実のそれとは別の秩序、別の原則のもとに機能し、そのうえで論理が事件を解決する。たぶん、表層的には、そういう理解でよいだろうとおもう。つまり、わたしたちは、現実の世界から、地続きではないが、それじたいで完結しているべつの世界観を眺め、そのルールにしたがって、謎に直面し、それを解決しようとするわけである。このとき、作中の世界は「もの」になるのであって、わたしたちはリアリズムにかんして無責任になることができるのと同時に、作中で呈示された条件に則る限りで、ありえないことも論理的に考えるための要素として取り入れることが可能になる。

けれども、とりわけ本書では、そこでは終わらない。ミステリであるから、くわしいことは書けないのだが、当たり障りのないことを書くと、本書におさめられている三つの短編は、すべて「××号室の患者」という具合に、ある精神病院の患者が中心になっている。急にSFを持ち出したのはそれもあって、本書全体に通奏しているのは、「わたしのみているこの世界は、ほんとうに、ほんものの“世界”なのだろうか」という、現代的なSF小説には欠かせない疑いの感覚である。わたしが、リアリズムであれファンタジーであれ、完結した世界として認め、論理を適用したこの「世界」、しかし、これは、ほんとうに、完全に信用のいくものなのかと、そういう不安が作品内にも、ということは読者にもずっと流れているのである。不安と書いたが、ミステリであるから、完全に納得いくような仕掛けになっているので、そこは安心してもらってよいのだけど、だからこの「不安」というのは、作品の仕掛けとしての不安である。


殺人鬼よりもうちょっとあと、たぶん二十歳すぎてからだとおもうが、大人になってから読んだ『眼球譚』という短編集もすばらしい傑作で、本書はそれに似ているところもある。それは、異形のものへの執着だろうか。その探偵のことばで非常に印象深いのが、「多かれ少なかれ、僕たちはみんな畸形(フリーク)なのさ(313頁)」というものである。厳密な「ノーマル」などこの世には存在し得ない。人間というのは本質的に畸形であると。つまり、「ノーマル」や「フリーク」が、互いに対立することで規定しあう相対的な概念ではないのである。多くのひとは目がふたつある。だから目がひとつしかないものは「フリーク」ということになり、二つ目は「ノーマル」である。けれども、そうではないという。わたしたちがじぶんじしんを「正常(ノーマル)」だと考え、正常に見えているものとみなすこの「世界」、しかしそれは、ほんとうに正しい「世界」なのか? そういう、ある意味素朴な懐疑が、作品全体に流れ、ばかりか、重要な仕掛けとして働いているのである。








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