というわけで、ぼちぼちブログ納め。
とはいえ、もう書くことはほとんどない。このブログをはじめた当初は、映画や音楽の記事が非常に活気があったのだが、最近は、映画はともかくとして音楽には疎くなってる日々で(再生装置がパソコンとそこから落として使う携帯用のやつしかない)、記事も減ってしまって、年末のこの手の記事でまとめることもなくなってしまった。触れてないし、記事にもしてないから、どうしようもないのである。で、今回は筋トレの記事を立ててみた。それだけ筋トレが生活のいちぶになってきているということである。筋トレはもともと好きだったが、まさか読書や宝塚と同列の位置づけになるときがくるとはおもってもみなかった。筋トレにかんしては、空手の経験を通して知ったことなので、補助というイメージが強い。じっさい、空手の稽古でも、師範の稽古のときなどは、基本稽古、移動稽古、型、ミット、スパーリングなどひととおりやった最後に「補強」という名のもとに拳立て100回などをやっていた。僕はただの色帯、しかもサボりまくりで、強くもなんともない、「習い事」を出なかったということは、むしろ僕自身の名誉のために何度でもくりかえして主張するが、そういう、アウトラインというか、見識のようなものは、10代の経験でそれなりに培われてきたのではないかとおもう。というか、10代のころはわかっていなかったが、いまおもうとあれはこういうことだったんだな、というしかたで理解されることが増えていったということである。
とにかく、筋トレは補助のイメージが強く、だから空手の技に有効でなければ意味がないし、見せることに特化した筋肉なんてただ飾りだと、それくらいには考えていた。中高の男子にありがちな、融通のきかない偏屈さである。ウェイトなんてつかうと筋肉がかたくなる、筋トレは自重がいちばんだと主張する先輩がいれば、そうだそうだと同意する、そういう10代だったのである。いまでも基本的にそういう考えは変わらないが、ただ筋肉を大きくするだけでも奥が深いのだということもよく見えてきた。そして、空手にせよ、あるいはただの腕力にせよ、有効かどうか、そういうことのみを基準にするのも、なんかつまらないかもしれないと、そんなふうにさえおもうようになってきた。だって、げんに僕は、どれだけ腕を太くしたって、空手をやってるわけでもないのだからつかう予定もないし、いくらゼクシィの束が重いといったって、日々のたゆまぬトレーニングが必要不可欠、というわけではないのである(まあ、じっさい本がみっちり詰まったダンボールというのはクソ重いので、腰をやっちゃう書店員というのは知り合いのなかにも年にひとりくらいはいるのだが)。
筋トレの記事で書いたように、もともとは目的があった。しかしいまでは、そういう意識は薄れてきて、ただ鍛え、大きくする、それじたいが、かなり楽しくなってきている。よく集中して筋トレができた夜はほのかにその箇所が熱をもってだるく、翌日、あるいは翌々日はびきびきの筋肉痛になるが、それが心地よいのである。時間は有限なので、目的意識は重要であるのだが、その行いの内側に、ちょっとずつ、達成可能な程度の目標があるくらいでもいいのではないかともおもっている。
ただ、筋肉というのは落ちるのもはやいようで、そのあたりがこの趣味にかんしては強敵だろうとおもう。つまり、忙しくて筋トレができなかったりしたときに、ひどく焦ってしまうのである。そうして睡眠時間を削ってむりにねじこむということもしているわけだけど、そういうとき、いったいおれはなにを目指しているのかという気分になる。落ちてしまったら落ちてしまったでしかたない、また後日取り返せばよい、そのくらいの気持ちになれば、へんなストレスからも解放されて、小さな目標の達成回数も増えていくのではないかとおもう。
この、筋肉が落ちることへの焦りは、たぶん、その筋肉を身につけるために費やした時間が無意味になる、そういう感覚からきている。でも、そういうのは、僕らくらいの世代以降の人類が幼いころからゲームや漫画で叩き込まれた、身体を数値化して把握する思考癖で、それが悪いということではないが、たぶん筋トレそれじたいが、ちょうど音楽や芝居のように、時間的経験であり、その経験が人生を豊かにしている、そういうふうに理解できるようになれば、そういう焦りもまた消えていくのではないかとおもう。ある日の筋トレで10の筋肉をつけたが、何日かサボってしまったために5の筋肉が落ちてしまった、だからその日の筋トレの半分は無駄になってしまったと、そういうふうに考えがちなのだが、でもこれを日常すべての項目にあてはめていくとかなりたいへんなことになる。そうではなく、仮に筋肉を数字であらわしたとしても、その「+10」と「-5」は交換不可能なのであり、足したところで「+5」にはならないのだと、そういうふうにおもえれば、筋トレは続けられる。
また筋トレのはなしをしてしまった。
僕も今年で30歳になった。そのころに、30歳になったという、自虐的な笑いをこめた記事でも書こうかとおもっていたのだが、ふつうに時間がなくて、しかもそのうち「べつにおもしろくもなんともないな」というふうにおもえてきて、書くのをやめてしまった。とはいえ、それは身体感覚で、ことばとして「30歳」というのは、じっさいのところかなりリアルである。ちょっとオレ、いくらなんでもこのままではまずいな、という感想もいやでも出てくる、そういう響きである。まだぎりぎり、小さい子どもに会計をやらせるお母さんとかには「ほら、お兄さんにわたして」といわれるが、当の子どもからすればただのソース顔のおじさんだろう。でも、当たり前だが、誰でも生きていれば30歳になる。ソース顔のおじさんでけっこう、とおもえなければ、生きにくいだけである。できれば「ソース顔のムキムキのおじさん」と、そうおもってくれればうれしいなと、そんな程度である。
ブログにかんしては、今年は闇金ウシジマくんの洗脳くんの効果もあって、かなりアクセス数が伸びてくれた。じっさいのところブログは僕の人生においてかなり重要な要素になってきている。いきなり管理会社が倒産したりしたらこの記事の蓄積ってどうなるんだろうと、そういう不安もあって、ミラーブログというのか、もうひとつバックアップ的なブログもつくりたいとずっと考えているのだが、記事のコピーなどなにやらややこしい、というかめんどうくさくてやっていない。アメブロはPVの判定が甘いということで、僕の見たサイトによれば、ちゃんと読んでくれている可能性のあるアクセスというのは5分の1くらいになるそうである。となると、現状2000から3000だから400から600ということになる。しかしまあ、まさかこれくらいの数字が出てくるとはおもってなかったし、うれしいかぎりである。ほんとうにありがとうございます。
こんなところかな。毎日ばかみたいに忙しかったけど、どうにか無事に年を越せそうで、それは幸福なことだとおもう。一年間ありがとうございました。皆様もよいお年をお迎えください。