今週の闇金ウシジマくん/第321話 | すっぴんマスター

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第321話/フリーエージェントくん①



基本的に各エピソードごとにきっちり完結していくウシジマくんには珍しく、引きのようなものを見せて終了した中年会社員くんに続くのは、フリーエージェントくんということである。いかにも僕の苦手な用語という感じなので、事典やネットなどで調べてみると、フリーエージェントというのは要するに組織に属さず、組織が当然要求する制約のいっさいから解放された状態で働くことを意味するらしい。僕なんかでは、フリーエージェントといえば野球というイメージだが、野球でも基本的に意味は同じである(といっても野球のことはなにも知らないのでこれもググったのだが)。日本の野球では、大リーグにならって、一定の条件を満たして資格を得ると、どこの球団とも自由に契約できる、そういうシステムをいうようである。「フリーエージェント」ということばには、組織に所属していない「自由」の響きと、そのことによって生じる選択の広がりのようなものが同時に含まれているのである。


まだわからないが、今回の主役は仁(じん)という青年のようである。見たことない男におもえたが、これはどうやら、ヤンキーくんに登場したマサルの友達らしい。白豚じゃないほうだ。白豚は、髪のうえのほうを染めていたが、彼は逆にしたのほうが金髪になっていた。それが、髪が真っ黒になって、しかもちょっと男前になっているのでわからなかった。

仁は日雇いの人材派遣の仕事をしているらしい。日雇いでは、電話連絡を非常にこまめにしなくてはならない。作業終了時に仁は「もしもし仁です」と電話しているのだが、仁というのは名字なのだろうか・・・。知り合いの会社というわけでもなさそうだし、仁じしんも意外とチャラついた感じはないので、これはちょっとへんな気がする。ゴミを片付けられない不良少年で、かといって愛沢にさからう度胸もなく、マサル殺害未遂に加担してしまうようなハンパ者だけど、白豚をかばったり、本質的に悪いやつではなさそうという感じは、ヤンキーくんのときからあった。


時給900円、一日8時間の肉体労働。仁も生活に不安を感じている。はぶりのよさそうな正社員や街の広告、高級車なんかを見て渇きのような感覚を覚えはするものの、悩んだところで手に入らないというあきらめが習慣になっているのか、すぐに視線をそらしてしまう。ぎりぎり、生活と給与で現状維持は可能かもしれないが、人間というのは機械ではないし、社会もそうした人間で構成されている。維持しているつもりでもどんどん堕落していく、そういう時代だと、仁は考えている。生きている理由も見当たらず、夜はひとりで泣きながら丸くなって眠る。なんというか、実に身近な、直視しがたい不安感である。


マサルと仁、それに白豚こと健介が、いつものコンビニ前で久々にたまっている。たぶん、いつか描写されたコンビニとおなじところだろう。ちらかしたままのゴミを「またあのくそガキどもが」っていいながら店員が片付けてるから。丑嶋が店員から回収しにあらわれて、そいつを「たまちゃん」にしていったところだ。読み返すと、その場面でマサルたちに対し、兄から聞いたことだが丑嶋にはかかわってはいけない、といっていたのが仁である。それから何年くらい経っているのだろう。あのときはまだ、仁や健介は高校生だったはずだ。最低でも2、3年はたっていると見ていいだろうか。健介はケータイ専門の金融屋で働いているということだが、仕事のはなしになると仁ははなしをそらす。


マサルは愛沢に会ったのだという。愛沢のはなしになり、仁も健介も気まずくなって顔をふせる。愛沢のもとにマサルを連れていったのは彼らであり、また彼が殺されそうになっているのを傍観していたのも彼らである。その後、追い詰められた愛沢がカウカウ襲撃を企て、あの迷彩服の3人組とともに柄崎や加納を襲い、マサルたちを拉致したときも、彼らはいやいやながらちからを貸していた。そりゃー気まずい。というか、マサルは実はぜんぜん許していない。あのときにマサルは、彼らや、丑嶋への復讐を心の底で誓ったのであり、またそれが、マサルの裏稼業的強さの源ともなっている。


とはいえくちではむかしのことだということにしており、いちおう会話は続く。マサルはべつに愛沢の見舞いにいったわけではない。街を歩いているところを偶然見かけたのである。ろれつがまわっていなかったといっているので、話しかけはしたのだろう。けども、むかしの、滑皮、鰐戸三蔵と並んで「地元で関わってはいけない三人」に数え上げられていたようなおそろしい不良の姿はもうどこにもない。滑皮に脅されてトラックの前にとびでた後遺症なのか、それともまだ完治してないのか、松葉杖をついてよぼよぼ道をいく愛沢はほとんど老人である。


丑嶋とかかわってはならない、という仁の兄のことばは本当だったのだ。よく続いてるなと、そういうことを仁にいわれると、マサルの表情が変わる。マサルがもっとも強く復讐を誓っていたのはその丑嶋なのである。


三人とも貧乏な家に育った。貧乏というか、金もないが、同時に教養もないし、そういう状況に対し自責的になろうという気配すらない、思いつきもしない、つねに他責的な言葉遣いで、クレーマー的解釈でみずからを幼児の位置におこうとする、そういう家庭に育った。マサルの母がそうだった。金をつくるためにマサルの時計を勝手に質屋にもっていき、それがニセモノで恥ずかしかった、というようなことを平気でいうような母親だったのである。たぶん三人のなかには、そういう過去のじぶん、またそれを形成していた幼児のような親たち、そういうものに対してのリベンジの感覚が強いのだろう。貧乏のはなしになると自然三人の口調はとげとげしいものになる。たぶん、とりわけマサルにおいては、そういう過去のイメージは、踏みつけ、永遠に厭うべきモデルなんだろう。


仁はこれから家呑みしながらゲームでもするかと誘うが、ふたりは会社の先輩とご飯を食べてキャバクラやソープということだ。家呑みしながらゲームって、すごい楽しそうだけど、たぶん、それもまた過去のイメージなのかもしれない。といってもふたりはべつにそれを嫌がっているわけではなさそうだけど。仁から離れていくふたりが月収のはなしをしていて、マサルが80万、健介が50万とそれぞれ申告している。カウカウ入社当時、マサルの月俸は25万だった。そこから愛沢は、柄崎が40万くらい、加納が35、高田が30、小百合が25・・・というふうに推定していた。もし80万というのがほんとうだとすると、カウカウじたいがあの当時よりそうとうに儲かっているということになる。そんな極端に儲かっているという印象はないので、これはマサルのはなしでもあるし、副業こみか、あるいは単純に見栄をはったのだろう。


この会話はたぶん仁にも聞こえている。そうでなくても、裏稼業とはいえ、金を稼いでふつうに生活しているオーラがふたりにはあった。スシ食ってソープだもの。友人ふたりと再会し、仁はなつかしさよりもそういう落差、悔しさとか嫉妬とか、そういう感情のほうを強く覚えたようである。


今日はビルの壁にでっかい広告を貼り付ける仕事である。それともこれは、窓掃除してんのかな。いずれにしても、こんな危ない仕事が、日雇いで、しかも時給900円なのかよ・・・。

不安定な毎日で、明日は仕事がない。ちゃんとした仕事探さないとやばいという焦りだけが募っていく。そこでアウトローの仕事にいかないというのが、仁の良識でもあり、また同時に臆病なところなのかもしれない。

「簡単 楽 金儲け」というワードで調べた結果表示された人物は天生翔(てんじょうかける)という人物である。今日仁がビルで見た広告の男だ。それを見た仁はうさんくささを感じていたはずだが・・・。


ともかく、仁は天生の演説の動画を見る。格差社会、法人税減税と消費税増税。貧乏はより貧乏に、金持ちはより金持ちに、そういう時代であると彼は語る。もしあなたが望まない生き方をしているとして、99.9%の大貧民と0.1%の大富豪、どちらを選ぶか。そう天生は問いかける。これはあれじゃないのか、洗脳くんで神堂がいっていた、選択肢をふたつにして判断を誤らせるという・・・。

じっさい、仁もその問いかけそのものに驚いて、目を見開き、引き込まれている。世の中をそのようにばっさりと二分し、選択できるもののようにする語法そのものが、たぶん新鮮で驚きなんだろう。

天生は、あきらめないで、と動画の視聴者に語りかける。そして、企業や国にいくらかで人生を売り、子どものために我慢をして近所の病院で死んでいく、この国のほとんどの人間がとっている生き方を、気づきも発見もない生殺しだと断ずる。



「さて、ここからが本題です。


貴方が生まれてきた意味はなんですか?」



会社に嫌われたくない、という依存の人生は「やばい」と天生はいう。でももしあなたに一歩踏み出す勇気と、それから「天生翔のフリーエージェント育成プログラムのノウハウ」があれば、月収1億は夢ではないと、彼はそのように断言するのだった。



つづく。



なにか初回からずいぶんいきいきとしたはなしだな。かなりおもしろくなりそうな予感。


よぼよぼの愛沢や、当時は名前もなかったマサルの友人たちまで出してきて、これは正統的な「ヤンキーくん」のその後ということでいいかもしれない。というのは、ヤンキーくんというのはアウトロー的な生き方をしている、あるいはそういう生き方にあこがれている、またはそういう生き方に支配されているものたちの物語だったとかんたんにいえるとおもうのだけど、このアウトローということとフリーエージェントということは、形状としてはよく似ているからである。どちらも、既存のシステムや法に身をゆだねることをよしとしない生き方のことなのだ。

今回の、コンビニ前でのゴミの放置についてもそうである。ああしたふるまいに対し、「そうしたゴミを片付ける人物がいるということにおもいが至らないほどあたまが悪い」というふうに解釈をすることはできる。しかしこれを、「ヤンキーくん」総体の行為のいちぶとしてみたときは、どんなときも必ずゴミを放置し、駐車場の線に対しては律儀に斜め停車を心がけ、静かにふるまうことが決められている箇所では決まって大声を上げ、制服を着るとなれば必ず着崩す、そういう、「法」に対する反動としてのふるまいとしてとったほうがよいようにおもえる。制服を着崩すときにそれを正そうとする教師や親の行為は労力という視点ではまず考慮されない。「あたまが悪い」かどうかは無関係なのである。「法」があってこその「ヤンキーくん」である。学校の制服も、制服でなければ意味がない。いくらとび職の作業着みたいなボンタンを好んでいるとしても、だからといって作業着を着てしまうわけにはいかないのである。「法」というのはべつに「法律」に限らず、おおくのひとが当然守るべきものとして特段反省することなく常識に登録しているような項目、こうしたものも含まれる。要するに「コード」である。


形状としてはよく似ていても、もちろん、ヤンキーとフリーエージェントではぜんぜんちがう。ちがうけれども、おそらく、「ヤンキーくん」だったものには、馴染み深い思考法なのではないかということはいえるのではないかとおもう。

今回の天生翔のはなしでは、やや説明がたりないぶぶんがある。それは「フリーエージェント」を選ぶ動機である。これから格差はどんどん広がっていき、貧乏はどんどん貧乏に、金持ちはどんどん金持ちになっていく。それでいいんならそれでいい。しかしそれがいやなら、あなたは金持ちになりたいですよね?そのように、彼はいう。というか、視聴者に気づかせる。神堂並みに相手を引き込むことに長けた演説の達人である。金持ちのほうがいいという価値観そのものは、あくまで視聴者の側からわいてきたものである。それであるから、ここまではなしを聞いて、金持ちになりたいとおもってしまったじてんで、視聴者はもう否定的に彼のことばを聴くことはできなくなってしまう。まあそれはいい。

はなしは続く。雇われ人であるかぎり、自己実現は難しいし、現状ほとんどのにんげんは金持ちにはなれない。しかし勇気と天生プログラムがあれば、月収1億は夢じゃないと、そういうはなしである。このまま会社や国に依存した人生を送っていてもしかたない、ごくわずかの人間しか金持ちにはなれない。でも天生プログラムなら夢じゃないと。雇われ人の位置から抜け、フリーエージェントになって金持ちになる、そういう可能性を保証するものが、彼のことばの説得性以外にないのである。たぶん、天生のいいたいことは、会社人では、仮にそうとうな金持ちになりえたとしても、自己実現はできない。だから、そもそも、会社に依存するというしかたじたいが、金持ち云々にかかわらず問題なのだと、そういうことなんだろう。金があり、同時に、じぶんが生まれてきた意味をまっとうするような、そんな生き方をするためには、組織に属するという常識を解除しなくてはならない。そして同時に、フリーエージェントとして稼がなければならない。たぶんそういうことなんだろう。


演説には語調とか、これは動画だから、表情や動きとかもある。たぶん仁は、組織に属することの問題を、表面的なことばの動き以上に感じ取ったはずである。そしてそれは、じつは彼は慣れ親しんだ思考法でもあるわけである。組織が要求するものはまず広狭両方のコンプライアンスなのだから。


現実的なフリーエージェントというありようについては、これから考えを深めていかなくてはならないけど、直観的には、なんとなしのうさんくささと、まあ時代なのかなーという感じがある。国や会社への信頼が損なわれている時代だからこそ、こういう思考法が登場してくるのも自然なことなのかもしれない。だが同時に、なにか不安も感じる。「自己実現」ということばである。組織に属さないという生き方じたいは、べつに珍しくない。だがこの語法では、結果として組織に属さないありようが選択されていた、というのではなく、ヤンキーくん同様、そういう生き方があるのだからこそ、そこに与さない生き方を選ぼうではないか、というようなものも感じる。しかし、たとえば作家なんかは、単独で考え、仕事を創出するけど、小説や漫画はひとりでにつくられるわけではない。編集がいる、担当がいる、掲載の許可を下すひとがいる、校正がいる、印刷・製本する会社がある、宣伝するひとがいる、小売店に卸すひとがいる、注文するひとがいる、レジで売るひとがいる、買うひとがいる、読むひとがいる、配達するひとがいる、感想を書くひとがいる、語り合うひとがいる、それを聞いて読んでみようかなとおもうひとがいる・・・。人間が文字通りの単独で存在するということは難しい。そうしようとしてもまずできない。山で自給自足の生活をしているひとでもそうである。彼が着ている服や食べているご飯は誰がつくりかたを教え、誰がそれを考案したか、またその技法を伝達することばを彼はどこから教わったのか、そのことばを用いた思考法はどこから授かったものなのか、そもそもそのたって歩く肉体はどこからやってきたのか。べつに僕は誰かを論破したいわけではない。ただ、「自己実現」というような語法のなかに、どことなくそうした逃れがたい関係性の原理が欠落しているように感じられる、そういう動物的な感想だ。「自己」が「実現」したことを認めるのは、いったい誰なのか。組織に属さない生き方それじたいは問題ないだろう。天生にかんしても、彼がどういうつもりでこうしたことをいっているのかはまだわからないし、そこについてはなんともいいがたい。だから「不安」なのである。






闇金ウシジマくん 2 (ビッグコミックス)/小学館
¥530
Amazon.co.jp


闇金ウシジマくん 3 (ビッグコミックス)/小学館
¥530
Amazon.co.jp





闇金ウシジマくん 29 (ビッグ コミックス)/小学館
¥580
Amazon.co.jp