■『大人のいない国』鷲田清一・内田樹 文春文庫
- 大人のいない国 (文春文庫)/文藝春秋
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「『こんな日本に誰がした』犯人捜しの語法でばかり社会を論じる人々、あらゆるものを費用対効果で考える消費者マインド、クレーマー体質…日本が幼児化を始めたターニング・ポイントはどこにあったのだろうか。知の巨人ふたりが、大人が消えつつある日本のいまを多層的に分析し、成熟への道しるべを示した瞠目の一冊」裏表紙より
また内田樹の対談本。といっても、本書で対談に割かれているのは最初と最後だけで、中盤はそれぞれのブログ記事程度の長さの小論がかわりばんこに載っていて、非常に読み応えがあった。
鷲田清一というひとは、平川克美の著書で対談していたのを見たことがあるけど、哲学者ということで、対談内容も非常に高度でスリリングだった。いつものことだが、内田樹の著書というのはおなじはなしのくりかえしだから、特に難解ということはなかったけれども、なにか本書にはこれまでとちょっとちがった魅力を感じたので、そこのところはたぶん鷲田清一のもたらしているものだろうとおもう。
おもしろいのは、日本の大人たちがみんな幼児化して、それにもかかわらず、社会はそれなりには回転していくという点で、それというのはつまり、日本の社会が成熟していくにあたって目標としてきたものが、操作するもの、うえにたって指示するものが子どもであってもそれなりに動くようなそういう社会だったということなのである。だから、大人が存在しない社会というのは、ある意味で社会ぜんたいが目指してきたところの達成なのである。身勝手なクレーマーやモンスター・ペアレンツだとか勉強しない子どもだとかはいってみれば副作用みたいなもので、それはそれで、たいへんなことなのである。子ども店長でもどうにかほんらいの働きを失うことなく活動できるシステム・・・、先進国として、そういうシステムを現実にしたというのは、世界でもまれに見る成果なのだ。けれども、問題なのは、そのシステムが壊れてしまったときや、システムで覆いきれない他者的な不如意の事態がおとずれたとき、誰がそれを補い、修繕するのかということである。子ども店長は、ただ座っておればよい。けれども、いきなりレジスターや電話機が故障し、修理は当然できず、マニュアルも読めず計算機のつかいかたもわからないとなったとき、いったいどうするのか?ことはそういうビジネスに限らず、政治や福祉や、通常の、わたしたちが意識することなく通過している日常を形成するシステムについてもいえるのである。
鷲田清一というひとは、哲学者ということもあってか、先日更新した岡田斗司夫とはまた異なるアイデアを多く抱えていて、そのあたりも非常におもしろい。このひとは「臨床哲学」ということばをつかってみずからの仕事を表現するらしく、ものごとの根底から、内田樹のことばでいえば「ラディカル」に考えることに優れて、というのは哲学者であれば当然のことなのかもしれないが、たぶんそこに「臨床」という姿勢が効いてくる。たぶんそれは、内田樹がじしんの著書につけくわえる「街場の」という形容文句とも通じ合うもので、思弁的戯れというよりは地に足ついた「わたしたち」のおはなしから哲学が出発するのである。だから、哲学的に優れていながら、難解ということがない。もちろん易しいということではないし、僕としてもこのひと(たち)の書いた事柄のすべてをすみからすみまで理解できているというわけではないけれども、「なるほど」と頷き、読みつついろいろ発見してしまうのである。哲学書が難解なのは、いってみれば「地についた」言葉遣いでは普遍性を損なってしまう可能性があるからだろう。どんなときでも、どんなひとに対してもとりあえず納得せざるを得ない世界の原理、そういうものを探求する学問なのであるから、あまり「わたし」にこだわりすぎてもいけないし(たとえばそれを読んだ地球の裏側に住む哲学青年からすれば「わたし」の事情など知ったことではないのである)、この時代にのみ有効な語法をつかっては、30年後にもその作物が読まれているということは難しいのである。30年後に読まれていないような哲学書が、果たして世界の原理を解き明かしているものであるといえるだろうか。それだから、学問的な必然として、哲学の言葉遣いは、論理に支えられた、平板で、形而上学的な、つまり普遍的な概念として回収されうる、生活から乖離したものとなりがちなのである。
ところが、このふたりの言葉遣いはそういうものではない。それはたぶんけっこう危ういことなんだろう。けれども、不思議なことに、ふたりのことばはむしろそのことで哲学的な価値を増しているようにおもえる。たぶんそこには、いくつかの理由がある。たとえばこういうもの。
「すべての言葉はそれを聴く人、読む人がいる。
私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する『敬意』がなくてはすまされぬのではないのか」内田樹 91頁
内田樹はたびたび「リーダブル」ということばをつかう。本書では見られなかったとおもうが、これは、ロラン・バルトの難解な語り口を受けてのことだったはず。内田樹のブログ、「内田樹の研究室」に該当する記事があったので、リンクを貼っておく。
・エクリチュールについて(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2010/11/05_1132.php
・リーダビリティについて(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2010/11/06_1744.php
・無垢の言語とは(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2010/12/03_1027.php
文脈もあるとはおもうが、記事内では、思想書の難解さについてこう書かれている。
「思想書がむずかしく書かれているのは、「それが読める人間と読めない人間」を差別化し、「読める人間」に文化資本を傾斜配分するという社会的要請が現に活発に機能しているからである」無垢の言語とは
哲学書の難解さは学問的必然ではなく、その社会的価値をそれじたいでメタ的に表現しようとする学問としての無意識が働いた結果だというのである。
リーダブルであるということ、受信者に敬意を払うということ・・・本書含め、内田樹はたびたび書いていることなので、それをまとめるのは僕の手にあまるし、調べてもらいたいが、ともかく、本書においておふたりが「街場の」「臨床哲学」を実践しながら、哲学的に有意な議論になっているというのは、ここらへんに理由があるのだろうとおもう。