- 「ベルサイユのばら-オスカルとアンドレ編-」(月組)
- ¥10,500
- 楽天
■主演・・・龍 真咲、愛希れいか
宝塚グランドロマン
『ベルサイユのばら』-オスカルとアンドレ編-
~池田理代子原作「ベルサイユのばら」より~
脚本・演出/植田紳爾 演出/鈴木圭
月組東京公演『ベルサイユのばら オスカルとアンドレ編』を観にいってきました。3月1日13時半開演。
ビデオ時代も含めるとかれこれ20年くらい宝塚に接して生きてきたが、信じられないことなのだが、僕はこの、宝塚を代表する、というか、たぶん一般のイメージで「宝塚歌劇」と聞いてまず浮かぶイメージそのものといってもいい、このベルサイユのばらという作品を、生ではもちろん、ビデオでも、ほとんどまともに見たことがないのである。理由については、正直いってよくわからない。植田紳爾先生と寺田瀧雄先生という、なんというかオーソリティーな、かつての王道的組み合わせにおそれをなしていたのかもしれないし、たんじゅんにどこか感じられる古臭さに「まあ今度みればいいや」というふうに毎回なっていただけかもしれない。しかしどうだろう、今回はじめて観劇してみて(といっても新しい試みもかなりされているようで、厳密にはべつの作品といえるのかもしれないが)、僕は劇中の音楽のほとんどすべてを歌詞まで知っているし、セリフの大半もなぜか記憶にあるのである。たとえばTCAスペシャルの一場面だったり、スカイステージやむかしの(いまも?)WOWOWやなんかで流れた映像をぼんやり目のなかにいれていたり、状況はいろいろ考えられるが、ともかく、この作品は、意識して見ようとせずとも、宝塚ファンであればほとんど血肉化されている、母語のような作品なのである。
そういう、原点、というのとはちがうのだが、少なくともいまわたしたちがみることのできる宝塚歌劇団の姿の芯をなしているような作品の、何回目かわからないが再演なので、演じるほうではたぶん、すさまじいプレッシャーであろうとおもう。しかも、月組は前回同様、トップの龍真咲と明日海りおでオスカルとアンドレを役替わりで演じるという、素人からすれば暴挙としかおもえないスケジュールで上演するのである。宝塚大劇場のほうでは花組・蘭寿とむや雪組・壮一帆が日替わりでアンドレを演じられて、そういうパターンは以前にもあったとおもうのだが、ほぼ主役であり、じゅうぶんに役柄を練って臨まなければならないものをふたつ同時進行で、かつ同居させなければならない、日によって切り替えなければならないというのは、くりかえしになるが僕のような素人には、どういうふうに気持ちを整理して行えばいいのかさえわからない。おそるべきことに、2回公演の日の前半と後半でちがうことさえあるのである。そのうえプレッシャーの大きいベルばらなのである。それはスタッフもそうかもしれない。僕の観劇した回では、なぜか音響関係がいやに不安定だった感じがした。オープニングの壮麗な登場シーンで、いきなり明日海りおのマイクが壊れてしまったのである。明日海りおはすぐに目立たぬよう一瞬引っ込んで手持ちのマイクに切り替えていて、まったくなんの問題もないかのようにうたい続けたが、普段稽古していないそういう状況というのは、大変なストレスである。だって、たとえば右手にマイクをもったまま同じ手でマントを広げることはできないわけで、滑らかに違和感なくふるまうためには、うたいつつ、次の動きでどんな振りをするのであったか、いちいち考えつつ手探りで行動していかなくてはならないのだから。まあ、あっさり乗り切った明日海さんがすごいということなんだけれど。それ以前から、オリジナルを知らないだけになんともいえないぶぶんはあるのだが、ベース音が「これであってるのかな?」という感じで微妙に聞き取りづらかったし、2幕でも、たんに声の大きさの問題かもしれないが、オスカルからアンドレにうたをつなぐ場面で、妙に明日海/アンドレのうたごえが小さかったのである。なにかこう、全体的に、スタッフも含め、そうとう疲れてるんじゃないかな・・・というふうに感じてしまったことは事実である。
というわけで、超人的にエネルギッシュな龍真咲や、おそろしくあたまのいい明日海りおであっても、果たしてどのようなものになっているのだろうかと、どきどきしながら劇場にむかったのだが、しかし、結論からいって、僕のはじめてのベルばら体験は月組でよかったというふうにおもう。
ともかく本作は音楽がすばらしい。何度もすりこまれるように聴いてきた音楽ばかりのはずだが、改めて聴いてみるとほんとうに美しいものばかりなのである。かなり最初の場面でうたわれるアンドレの「心のひとオスカル」で、物語への感情移入もくそもなく、僕はほとんど意味もなく泣きそうになってしまった。
大形なセリフまわしなどは、やはり時代がかっているぶぶんもあるにはあるのだが、僕の観劇した龍/オスカル、明日海/アンドレのパターンでは、むしろそこのところはすんなり了解することができた。というのも、おそらく、このひとのばあい果たして意識してやっているものかどうか微妙なのだが、龍真咲じしんが、おもいきり「芝居がかった」芝居に徹していたのである。それはたぶん、ベルばらという作品の存在のしかたにかかわるものだとおもう。
くりかえすように「ベルサイユのばら」は、宝塚を象徴するというか、宝塚歌劇そのものといってもいいような演目である。宝塚歌劇をなんらかのイメージに付託するときには、それを看取するものをどのように設定するか考えなければならない。たとえば、ふつうの宝塚ファンでは、主観的には、宝塚を象徴するイメージというものは、各自固有のものをもっているはずである。しかしそこで、ベルサイユのばらは宝塚を象徴する作品である、とくちにし、また考えるとき、客観が挿入されてくる。その成立のしかたは、ファンどうしの会話で形成されていったものかもしれないし、メディアが無意識にそのように設定したものかもしれないし、なんともいえないが、そこにはいまは立ち入らない。重要なのは、げんにベルばらが宝塚を象徴しているかどうかということではなく、ベルばらが宝塚を象徴する作品であると考えられていると、わたしたちが考えるということなのである。
かといって、本作がいわゆる「外部」向きの作品であるかというと、空前のブームになった初演時ならいざしらず、そういうふうにひとくくりにすることはできないとおもう。では、わたしたちが無意識に採用している客観というのはどういう事態なのか、わからないが、たんに伝統派の武道的なものではなく、ファンもこみの様式美みたいなものがそこにはあるような気がした。たんじゅんに、演技者が、様式美に沿って、一種の「再現」に勤しみ、観客はその「再現」の具合を楽しむ、というのではないのである。宝塚歌劇の象徴としてのベルばらを見に行くという行為じたいに、すでに様式美的なものが含まれている、そういうふうに感じたのである。第一幕、プロローグでは、まだおりている幕に日本語で「ベルサイユのばら」と記され、人形のように、不思議に個性の剥奪された美しい小公子たちが物語のはじまりを告げる。そして幕が開き、これでもかというほど豪奢な衣装と装置で飾り上げられた舞台があらわれ、エトワール(愛希れいか)がうたいあげて、アンドレとオスカルが登場する。僕はこれをみて、なんでか不明だが、そしてことばが適当かどうかもわからないが、なにか「封印が解かれた」みたいな印象を受けたのである。宝石箱を開くように、またしまいこまれたカビのにおいのする古く重厚な本を開くように、「ベルサイユのばら」と記された物語の函が、荘厳にほどかれたと、そういうふうに感じたのである。
では、封印されていたとして、誰が、なにに対してしていたのか。ベルばらは宝塚の象徴だったはずであり、しかも、封印どころか、けっこうな頻度で再演している。とするならば、その封印というしぐさそのものに、大切にしまいこむという行為そのものに、すでにベルばら的なものが含まれているはずなのである。しばらくその意味はわからなかったが、今回最大の話題となったあの馬車の場面で、なんだか(個人的には)すっきりした。はじめての試みということでいいのだとおもうが、バスティーユが陥落し、物語の結末したあと、白い馬車にのったオスカルとアンドレが、オーケストラのボックスや、もしかすると銀橋までも越えて、客席側の中空にのりだしてくるのである。そして、まだフィナーレのはじまっていない、厳密にはまだ物語中であるというのに、馬車は上手下手それぞれのほうを向き、挨拶をするように停止し、わたしたちはそれに拍手を送ったのである。つまり、物語のなかに、わたしたちがフィナーレで出演者たちに送るような祝福の拍手が組み込まれているのである。あの拍手は、もちろん演じられたおふたりと、それから驚愕のあの装置にむけてのものなのだが、原理的にはまだあれはオスカルとアンドレのままであるはずなのだ。ではあの拍手は、「物語」のなかにくみこまれた祝福は、構造的にはいったいなにを意味するのか。死後結ばれたふたりへのものなのか。もちろんそれもあるとはおもうが、そしてじっさい僕もそういう気持ちで拍手していたとおもうが、もしかするとあれは、「アンドレ」と「オスカル」という、「宝塚を象徴する作品」の主人公たちにむけて、敬意をこめてなされたものだったのではないだろうか。仮にそうであるならば、そうした演出をした側にも「敬意」はあったはずである。ベルばらは、ブームによって宝塚を社会に定着させたという意味ももちろん含め、美しい音楽にせよ定式的でそれだけに不動の筋書きにせよ、「フランス」とか「貴族」とかいう定番の世界観にせよ、またオスカルという、男として育てられた女性という存在にせよ、なんというかその成立じたいがちょっと奇跡的なのである。だから、この作品に限っては、ファンでさえも、たんじゅんに受動的になるわけにはいかないし、また製作者も、能動的に支配することはできないのかもしれない。それは、ことばのそのままの意味で宝箱なのであり、宝塚にかかわるひとにとっての財産なのである。といっても、伝統芸能のように変わらなければよいというものでもなくて、今回のような批評的試みもあってもかまわない、オスカルのビジュアルだって、そろそろかわってくるんじゃないかとはおもう。出演者が誰であるかというのをぬきにしても、なにかイデアのような、誰もが了解可能な「オスカル」や「アンドレ」みたいな像が想定できる、ファンと製作者に共有されるようなしかたで存在する、ベルばらはそういう特殊な作品なのである。
さて、本作はフランス革命前夜、平民と貴族の対立を描いたものだが、こういう対立は、宝塚ではよくあるように見える。たとえばウエストサイドストーリー、およびロミオとジュリエットでは、家と家の対立、そして恋人たちにとっては公と私の対立、そういうものがおこっていた。ものすごいたんじゅんにいえば、それは、「おもいどおりにしたわたし」と「おもいどおりにさせない社会」という対立だった。それはミーアンドマイガールでもそうだし、というかまあ、基本的に全作品といっていいかもしれない。平民と貴族が恋に落ちれば、ふたりは必ず、それをはばむ「社会」のシステムに衝突する。宝塚ではそこにさまざまな解決を与えてきたが、原則的に、それは弁証法的なもので、どちらもそれなりに保存されたものであったとおもう。また、その恋愛模様にリアルな家の対立をからませた(といってもこれらはすべて輸入ものなのだが、宝塚が好むという程度の意味合いで)ロミオとジュリエットやウエストサイドストーリーなどでは、破滅をむかえ、それを通して和解が成立したりする。つまり、対立はするし、破滅することもあるのだが、原則的に対立そのものには否定的なのだ。しかしベルばらでは対立する相手を完全に打ち倒して結末をむかえている。毎回そうなのかどうかは知らないが、今回はマリーアントワネットなどは登場しないし、オスカルの葛藤はともかく、基本的に、平民は貴族やその慣習を打ち倒し、塗りつぶすことで勝利をつかむということになっている。要するに、対立は解消されず、たんに対立する相手がいなくなるだけなのである。ベルばらには「××編」というのがたくさんあって、フェルゼンやマリーアントワネット編というのも存在するのだが、おそらくそれはこうした理由によるのだろう。もっとも、たくさんのバージョンがあるからこういう描き方になっていったのか、こういう描き方だからたくさんのバージョンが生れてきたのか、それはわからないが、物語は、別のバージョンを見ることではじめて完成するようにできているのである。もちろん、ひととひととは、とりわけ階級の違うものどうしでは、真にわかりあうことなどできっこない。しかし物語はその「固有の事情」を描き出すことができる。貴族も、オスカルがそうであるように、すべてが無知蒙昧なひとばかりではなかったはずで、そこを描くことも可能であるのに、本作はおそらくあえて、対立を解消しないまま終わるのだ。というのは、あの結末は、アンドレを失ったオスカルの怒りがもたらしたものだからだ。オスカルじしんは、ああいう人柄なので、なにをいっても理解を示さないブイエ将軍のような人物に苛立ちながらも、最終的にははなしてわかりあえばそれがいちばんいいとおもっていたはずである。しかし、「愛あればこそ」、世界はひとつなのであって、それを目前で失ったオスカルが、「ひとつ」の世界を消失してしまったとしてもむりはないのである。あの結末は、アンドレの視力のことや、また身分違いなんかも含めて、現実には成立しないふたりの恋の結末がもたらした、必然なのである。
というわけだとおもうので、これもまた、物語じしんが完結しようと要請した結果、フェルゼンやマリーアントワネット編なんかが生成されていくのだ。僕はこれも当然みたことがないので、どのような「固有の事情」があったのか、それともそんなものはぜんぜんないのか、わからないが、いずれにせよこれもすぐに雪組で、しかも我らが壮一帆主演で上演されるので、それを楽しみに待ちたいとおもいます。