『宝塚式「ブスの25箇条」に学ぶ「美人」養成講座』貴城けい | すっぴんマスター

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■『宝塚式「ブスの25箇条」に学ぶ「美人」養成講座』貴城けい  講談社+α文庫





宝塚式「ブスの25箇条」に学ぶ「美人」養成講座 (講談社+α文庫)/講談社
¥590
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「宝塚歌劇団の“とある場所”に貼られていた「ブスの25箇条」。こんなことに思い当たったら、いますぐこの本を読みましょう。
●笑顔がない
●お礼を言わない
●おいしいと言わない
●責任転嫁がうまい
●なんでもないことにキズつく
●存在自体が周囲を暗くする
「清く、正しく、美しく」の教えが「男性にも参考になる」「就活で役立った」と大反響、現代人必読の一冊が待望の文庫版で登場!」裏表紙より





じき100周年をむかえる宝塚歌劇団のある場所には、「ブスの25箇条」なるものが列挙された貼紙があるのだという。誰がいつ貼ったのか不明だが、誰もがふと足をとめ、見入ってしまう。

それはたとえば、こんなようなものである。





1.笑顔がない

2.お礼を言わない

3.おいしいといわない

4.目が輝いていない

5.精気がない

6.いつも口がへの字の形をしている

7.自信がない

8.希望や信念がない

9.自分がブスであることを知らない

10. 声が小さくイジケている







「ブスの・・・」ということばはかなり強烈だが、見たとおり、じつはごく標準的な、しかしおもわず納得してしまうようなことしか書かれていない。こうした、まあ誰が貼ったかわからないのにこういうのも奇妙だが、ある意味伝統的な教えを、宝塚歌劇団宙組3代目トップスター、貴城けいが、じしんの体験を踏まえたエッセイ調で紐解いていったもの。僕の買った文庫の巻頭には、25箇条が一枚の紙になって、切って貼り出せるようになっている。




宝塚歌劇団では、舞台人として本格的に仕事をするようになる前に、音楽学校というところで2年間修行を積む。テレビの報道などでよく知られていることとおもうが、ここへの入学がまずたいへんなことなのであり、東大以上の倍率になることもしばしばだという。

そこでなにを学ぶかというと、歌やダンス、芝居は当然だが、「女性としての教養」を学ぶところでもあるという。これもたぶんよく知られていることとおもうが、音楽学校には「いったいなんの意味があるのか」とおもってしまうほど厳格「決まりごと」がたくさんある。廊下は一列になって進み、角は直覚に曲がる、上級生がドアのほうにむかっていったならば走って先にドアをあける、毎日年末の大掃除並みに担当の箇所をぴかぴかに磨き上げる・・・。

なかには、時代がすすむにつれて変化していく決まりもあるようだが、基本的に音楽学校というものが、舞台人としてのスキルを身につけるところである以上に、そういう軍隊並みの規律のなかに身をおくことそれじたいに意味があるようなところだと考えても、まちがってはいないだろう。

こういうもののうちいくつかは、もしかすると恣意的な、「規律のための規律」であるぶぶんもあるかもしれない。だがそれにしても、すべて無意味ということではなく、本書で貴城けいは、たとえば列になって歩くことは、混雑する舞台袖での作業をスムーズにするための技法だったんではないかと分析しているし、「意味もわからず一定の秩序のなかに身を投げる」というのは、教育というものが成立するうえでの基本的な思想であるともおもう。たとえば小学生に、「算数なんて習っていったい人生のどんな役に立つの?」と問われたら、「いいから黙って宿題やりなさい」というしかないだろう。どんな局面で役に立つのか説明してもしかたない。それを理解できないから勉強しているのだから。まさしくそうした疑問が立ち上がってくることそれじたいが、彼への教育の必要性を示しているのだ。






貴城けいは15年宝塚に在籍したそうだが、そのなかで経験こみで、ある意味ではこのひとの解釈として、25箇条がひとつひとつ紹介されていく。しかし、不思議なことに、項目ひとつひとつはそれとして成立しているのに、いま読みつつある文章が、いったいなんの項目に関するものであるのか、よくわからなくなってくるぶぶんがあるのだ。これは示唆的で、なぜ「美人の25箇条」ではないのか、というところにつながっていくとおもわれる。要するに、「ブスの25箇条」は到達点ではなく、あくまで「検査」を目的とした「心構え」なのである。「美人」になりたいとおもい、それが目的であるとしたら、「美人の25箇条」は、それを達成すれば意味を失ってしまう。個人的には、そもそも「美人」というものに絶対的な定義があるのかというふうにもおもうし、「解答」がないからこそ、ひとびとは日々琢磨して模索するのだとおもうが、とにかく、ここにあるのは「こうあるべき」ではなく、「こうあってはならない」という語調なのである。であるから、その解釈も当然一義的ではない。本書は、貴城けいの「ブスの25箇条」の解釈なのであって、原理的には、これをうけとめたすべての人物の手による、経験をもとにした「ブスの25箇条の解釈」は存在可能なのである。それを記した文章が、じっさいの項目をあまり想起させないものになっていったとしてもじつは不思議ではない。重要なのは「解答」としての「25箇条」なのではなく、そこから発生した検査、つまり語り・文章のぶぶんであるのだ。




うえにも書いたが、僕がいちばんインパクトをうけたのは9番目の「自分がブスであることを知らない」という項目だろうか。これは、「ブスの25箇条」に対するあらゆる反論を封じてしまう。貴城けいはこれをひととの距離感という視点で読むが、とにかく、これが25の検査項目だとしたら、まずはいったんそこに信頼を寄せなければならず、箇条書きとして成立するためにはとりあえず必須の項目だったんだろう。憲法の基本理念みたいなものか。

ひとつひとつの項目を見ていけば、あるいは反論があたまに浮かんでくることもあるかもしれない。しかしここで、この9番目が効いてくる。それはじぶんがまさしく「ブス」だからなのではないかと。べつに、「反論を浮かべるあなたはブスです」と告げてくるというわけではない。なんどもいうようにこれは検査項目なのである。「どうも納得いかないけれど、それはもしかすると、じぶんがいたらないせいなのかもしれない」と、“かもしれない”つきで考えることができれば、それでいいのである。




「ブスの25箇条」は、そうした女性のありようを戒める文句に満ちているわけだが、もちろん、読めばわかるが、これらは男性にも非常に有効である。「美しい化粧のしかた」とか「男を誘惑する足の組み方」とか、そんなようなことが書いてあるわけではないのである。男性もまた複雑な人間関係のなかで成長を強いられているのであり、むしろ、それなら、「美人」という概念がないぶん、男性のほうがこうしたことには甘くなりがちかもしれない。僕自身、耳の痛いはなしばかりだった。とはいえ、貴城けいもまた、これらの検査項目をもとにじぶんを磨き続けている人物なので、上からいわれてる感じがするとかそんな意味ではない。耳が痛い、思い当たるぶぶんがある、そうしたときに、すでに「ブスの25箇条」は起動しているのであり、検査は始まっているのだろう。