『翻訳語成立事情』柳父章 | すっぴんマスター

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■『翻訳語成立事情』柳父章 岩波新書

翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)/岩波書店
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「かつてこの国に『恋愛』はなかった。『色』や『恋』と区別される“高尚なる感情”を指してLoveの翻訳語がつくられてから一世紀ほどにすぎない。『社会』『個人』『美』『自然』『権利』『自由』『彼・彼女』などの基本語が、幕末から明治期の人びとのどのような知的格闘の中から生まれ、日本人のものの見方・考え方をどう導いてきたかを探る」カバーより







平野啓一郎が講談社から『私とは何か』という新書を出した。内容はこのひとが小説作品を通して提唱している「分人主義」というもので、抜群に説明のうまい平野啓一郎でもあることだし、すぐ読めてしまえそうなおもしろさだったが、ふとあとがきのあたりに目を向けたときに参考文献としてあがっていた本書と『明治生まれの日本語』という本をまず読んでみようかと手に入れた。翻訳語に関しては何年か前に加賀野井秀一の『日本語の復権』を読んでからずっと留意してきて、こんな本を探していたんだと感動したが、冷静に考えると本書で重要な概念となっている「カセット効果」を僕は加賀野井教授の本を通して知っていたし、あるいはあれも本書を参照して書かれたものだったのかもしれない。


現在わたしたちが日常的につかっている日本語、とりわけ熟語のなかには、かなりの量、西欧のことばを翻訳したものが含まれている。「社会」とか「理念」とか「恋愛」とか「自然」とか、もとは仏教用語だったり、あるいは、「存在」みたいに「存」と「在」をあわせたものだったり、ともかく、こういうことばのつかわれかたは、明治以前にはなかった。そのことばが翻訳語であるかというのは、たとえば広辞苑をひけばその旨が記されているし、そうでなくても、翻訳語のもつ独特の、本書でいうと「効果」を観取できれば、直観的に識別できるなんてこともあるかもしれない。ただ、日本語にはそれよりずっと以前に漢語を輸入してやまとことばと混交させている歴史がある。日本語の構造は言語学では膠着語というらしく、「 」は「 」である、というようないわゆるテンプレートをそなえたものであるから、よく意味のわからないことばもそのままに投入しやすい。というより、そういう文化の輸入の歴史があるために、ことばの構造がそのようになっていったというところなのだとおもう。文法の形成の歴史も、海にかこまれ、すぐ近くに中国という超文明大国をおいた日本という国の形状が要請したものだったのだ。


いずれにしても、幕末から明治の文明開化にかけて、福沢諭吉をはじめとした当時の最高の知性が、西欧の概念をどのように日本に、ということは日本語に導入していくか、さまざまに苦闘していったわけだが、本書では十のことばに絞って、慎重にその経緯が洗われていく。


本書でキーワードとなるカセット効果というのは、以下のようなものである。(ちなみにこの「である」というのも翻訳の経験で生まれてきたものである)



「カセットcassetteとは小さな宝石箱のことで、中味が何かは分からなくても、人を魅惑し、惹きつけるものである。「社会」も、「個人」も、かつてこの「カセット効果」をもつことばであったし、程度の差こそあれ、今日の私たちにとってもそうだ、と私は考えている」37頁



どうもすっきり意味はわからないが、なんとなく高尚そうな感じがする、翻訳語には、少なくとも当時、あるいはいまでも、そういう効果があったのだという。こういう状況は、じつはいまでも変わっていない。加賀野井秀一だったか内田樹だったか、あるいは冷泉彰彦だったか、誰かも指摘していたとおもうが、カタカナ語の乱用もそうだ。「コンプライアンス」がどうだとか、「サブプライムローン」がなんだとか、あるいは短縮して「ステマ」がどうしたとかいわれても、英語に熟達したものでなければ、初めて聞いたときにはまずすっきり意味がわかるということはないだろう。しかし、これを膠着語としての日本語の、しかるべきテンプレートに投げ込み、ぺらぺらとくちにされるのを聞くと、どことなく知性の程度が高いような感じがして、わからないわたしはなんだか居心地の悪い、じぶんがばかみたいな気分になってしまう。もしほんとうに、こうした日本語の膠着語としての姿が、外部からの文化の輸入をくりかえしてきた歴史の要請するものだとしたら、日本語人としてはたぶん、そうした反応は正しいのかもしれない。あらわれては消えてゆく流行語というのも、基本的には同じ仕組みのもとに生成されているものだろう。流行語というのは、それを知っているものと知らないものの二者が存在してはじめて「流行語」としての価値をもつ。誰かに不安になってもらわなければ、あるいは、少なくともそうした立ち位置が想定できるものでなければ、流行語が流行語たる意味がない。日本語の構造が新語を前にした日本語人にもたらす不安感というものを逆手にとったのが、流行語という現象なのだ。

加賀野井教授の指摘では、そのカセット効果のもたらすところで、翻訳語、あるいはカタカナの外来語と対したときはどこか思考停止のような状態になってしまい、話者も聴者もはっきり意味を理解しないまま会話がすすんでしまうということだったとおもうが、そういう問題意識はいまはおいて、とにかく、日本語というのはこうした構造にあるのだ。


非常に興味深いはなしの連続だったが、本書においては、ただたんに、あれはこれの翻訳である、というようなことが情報として辞書的に羅列されてあるのではなく、それが当時、また現在どのようにつかわれ、どのようにずれているか、語の現象という面で、新書ながらたいへん刺激的な考察が展開されている。さっき書いた「である」についてもそうだし、三島由紀夫が「美」ということばからあえて意味をぬきとり、ここでいう「カセット効果」を利用している、というようなところなど、目からうろこだった。また、著者の創見ということではないが、「自然主義」に関するところもおもしろい。「自然」はnatureの翻訳語だが、それ以前にも日本語のなかに組み込まれている語でもあった。



「・・・natureは客体の側に属し、人為のような主体の側と対立するが、伝来の意味の「自然」とは、主体・客体という対立を消し去ったような、言わば主客未分、主客合一の世界である、といえる」133頁



翻訳語として動きだしたあとの「自然」は、このふたつの意味を同時に、というよりは混合させている。しかも、当時の文学者をしても、そのことを自覚できなかった。ゾラの「自然主義」は、当然「naturalism」として、「自然」科学の方法をもちこんでなされたものだという。だが、これが日本に輸入され、「自然主義」と理解されることで、「naturalism」とは異なったものになっていく。「自然」は、「natural」のようなつかわれかたをされる、だが、その意味内容は、わたしたちが「ありのまま」というときのような、伝来のものである。しかしそれは歪みと処理されることはなく、というか自覚されることすらなく、不思議な均衡をもって、徐々に新しい意味を担っていくことになる。たしかに、「ありのまま」主義というのは、なにかおかしい。意識をもって主義化したじてんで、果たしてそれはありのままといえるのか。そこには意味上の矛盾が生まれるが、それを補うようにして、新しい意味が、そこから生まれてくる。


終章の「彼・彼女」もおもしろい。日本語には英語のheにあたる語はなかったとされる。しかしそうではなく、そもそも必要としていなかったところに侵入してきたものなのだという(「彼」という単語そのものは、「あれ」というような指示代名詞としてもともとあった)。なにか語の構造のうちに欠けているものがあると感じられるのは、西欧のことばをモデルとして背後にあてているからなのであり、語がないというより、そういう文化がもともとなかったのである。そして、「恋愛」がそうであるように、それはつくりだされていく。今日、小説などでごくふつうに用いられるこうしたことばが、じつは歴史的には新しいものだと考えると、また読み方も変わってくるだろう。文中では田山花袋の小説が例にあげられているが、不確定なままに投げ込まれた「彼」は、次第に、当初予期していなかった動きを見せ始めたのかもしれない。翻訳語が文化に洗われて新しい意味を担いはじめるというのは、ことばが文脈にさらされて動き出していくのとよく似ている。明治時代の小説は、こうして見るとたいへん冒険的なものばかりなのだ。






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