今週の範馬刃牙/第306話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第306話/対峙する相手



防御無視の自己の出し合い、ぶん殴りあいの果てに、範馬親子は溶け合うような状態になっていった。しかし今週は、喧嘩の描写はない。例のオーガ信仰の成り立ちについて、はじめて語られるのだ。それは「弱き民」たちだ。いわれてみれば、観衆のなかに増え始めているという外国人が、ふつうの白人やへんな中国人とかだったせいで気づかなかったが、前に歩み出て祈りを捧げたふたりは、黒人系であり、そしてたしかに、強靭な肉体でわがままを貫くといったタイプではない、信仰心の篤い人物なのだった。


そうした、弱き民たち・・・がりがりにやせ、恨みをこめてひとを見つめ返し、虫にまみれて倒れ行く人々。そんな彼らの前にたつ「鬼」がいた。それは背中に宿されたものであり、つまり、その人物は、ちょうど弱きものたちを守るようにして、前方に立つのである。


彼、範馬勇次郎の背後には、つねに弱者がいた。事実を記しているが、しかし説明としてはじゅうぶんではないかもしれない。なぜなら、勇次郎の行動の動機に、弱き民そのものは、ほとんど含まれていないからである。それは、ある意味では、たまたまなのだ。彼は、「弱き民」や「正義」の味方ではぜんぜんない、ただ、「強き兵士」と向き合った結果、そうなったということなのである。といっても、弱きもののために、自身の拳法の完成さえ後回しにしたアライのことを尊敬しているという過去の発言も考えると、「弱き民」という存在がまったく眼中になかったということでもないかもしれない。


勇次郎はみずからの立ち居地を強者の前と決めていた。正義も愛もない、ただ力だけが、解放される場所を求めて体内で荒れ狂っているのである。



(やがて・・・


巨大国家は


指導者(トップ)の眼前(まえ)

難なく辿り着く

この男を・・・


「鬼神(オーガ)」と呼び


心底戦慄(おのの)


“神”の陰に身を隠し・・・


莫大な“金銭(ドル)”で取り入った


迫害(おい)つめられる“弱き民達”は


強大国家にとっての


最大の“脅威”を


“神”と崇め・・・


“天使”のように愛した・・・)



つづく。



弱きものたちのオーガ信仰は、正確には信仰ではなく、オーガ個人に対する感謝と返礼の気持ちのあらわれだった。

オーガの背後に立ってこれを讃える図は、ピラミッドの壁画にも見えたものである。そのひとつまえの壁画にもあったように、国家レベルの武力を全投入してやっと均衡を保つような存在は、現行の世界を保つのにはもはや不可欠のものとなっている。僕の仮説として、その構造そのもの、現象じたいが「オーガ」なのであり、三枚目の壁画や、いままさに行われている喧嘩はその継承の儀式だとすれば、父の側だけに立つ信者たちは、まだ信仰としては未熟な段階にあると推論した。なぜなら、肉体はいつか朽ちるのであり、とりわけ継承の儀式において片方の側に立つというのは短期的思考であって、「オーガ」というシステムの全貌が見えていないのである。

だが、今週ではなしはそれとは異なるということが判明した。祈りは、オーガ、というより、範馬勇次郎個人に向けられたものだったのだ。

そもそも、強い弱いという相対的概念を持ち出して世界をはかるとき、強者と弱者はつねに対峙している。強者どうしが無人島で対決している際も、彼らを強者であると規定するものは弱者の架空の目線であり、原理的なおはなしだけれど、両者は互いに強者を強者、弱者を弱者たらしめているのだ。

しかし、強者を求めることそれだけをほとんど唯一の欲求として生きてきた男からすれば、そうした単純な二項対立もシリアスな真理となる。強者の前に立つ、そのことをくりかえし行い、習慣とするうち、その強者の強者たるゆえんが行使される場所で、結果として弱者の盾のようになることもあったのである。勇次郎がその構造についてどこまで意識的だったか不明だが、しかしアライの件から、ある程度わかっていたものとおもわれる。アライでは、勇次郎とは逆に、弱者の前に盾になるということが、初期衝動としてあったはずである。そしてオーガは、それが強者の前に立ちはだかるということにほかならないことをよく知っていた。要するに、動機は異なれど、結果としてやっていることは同じだったのである。これは気づかなかった。

そして、守られた側からすれば、守ることじたいを動機に含んでいない勇次郎の行動は、ほとんど無償の愛に近い。彼のほうでは、弱者たちに弱者であること以外なにも求めないのである。

信仰心は、みずからの合理性をはみ出ていくなにか巨大なものごとから意味を汲み出す行為のなかに宿っていく。勇次郎は実体だが、現人神みたいなものとも異なるだろう。強大な行動の結果から意味を汲み出す行為のあとにとられるしぐさは、だから神に対した祈りとよく似ている。しかしじっさいには、彼らの感情のかたちは、感謝とか返礼とかに近いんではないかとおもう。

そして、ここで壁画のことをふりかえると、こうした事態そのものは、やはりむかしから連綿と続いてきた風景なのだ。祈りそのものは、構造ではなく、勇次郎個人に向けられる。勇次郎のような存在、すなわち「オーガ」という現象は、ずっとあったのであり、つねに強者を求める「オーガ」は、いつの時代も弱者の前に立って盾となり、弱者はそこから「見返りを求めない愛」をくみ出し、祈りをこめて、彼を讃える。彼らの祈りまで含めて、これらは歴史的に定型的な、反復的な出来事だったのだ。


さて、ではそんな彼らにとって、バキのような存在はなんだろうか。彼らはオーガを応援するものではないだろう。祈りは感謝の気持ちのあらわれであり、また、ひねくれた見方をすれば、ひれ伏すことで弱者でありつづけることを証明し、つねにオーガの背後に立とうとするものかもしれない。その意味では、彼らの祈りは後手であって、祈りは、もらいっぱなしの「愛」をお返しとして完結させようとする衝動のことだ。だから、彼らとしては、愛するオーガの身を心配することはあっても、利害関係ということはないので、どうこうということはないかもしれない。彼らはただ、直接にせよ間接にせよ守られた、探し続けていたオーガがいるという情報をうけてかけつけたのであって、それ以上の意味はないのかもしれない。

しかし、つねに強きを求める最強者が構造的に弱者の味方であり続けることはまちがいないのであり、やはりこの喧嘩は、彼らの信仰の対象が受け継がれる現場でもある。このあと彼らがどのような意識に目覚めるか、あるいは壁画に、続きとして描かれているかもしれない。





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