■『OVER HEAVEN』西尾維新 集英社
- JOJO’S BIZARRE ADVENTURE OVER HEAVEN/西尾 維新
- ¥1,470
- Amazon.co.jp
「"VS JOJO"第2弾が幕を開ける! 描くのは"西尾維新"、そして主人公は"DIO"!! 」Amazon商品説明より
何年か前、ジョジョのノベライゼーションに関しては乙一のものが出版されたことがあった。深く知った作家ではなかったのだけど、まあ、書店通いをしているにんげんなら誰でも知っている有名なかたであったし、じっさいに読んだデビュー作も、たいへんな才能を感じさせるしろものだった。
その乙一が書いたものが『The Book』という、第四部杜王町を舞台にしたもので、これもまたおそろしくおもしろかった記憶がある。もちろん、このひとの天才性も非常に大きいとはおもうけど、そこではなにより、ジョジョという物語そのものの深みが、その才能というものを刺激して、筆を動かせたのではないかとおもう。
本書は、これもまた、泣く子も黙る人気作家・西尾維新の手によるもので、これ以前には上遠野浩平による『恥知らずのパープルヘイズ』が出版されており、たしか舞城王太郎のものも出る予定だったはず。この手の作家たちは、僕のカバーしている読書範囲からははずれており、どなたのものも読んだことはないのだが、僕みたいな無知にもその名が届くほどに、人気作家ではあるわけで、そうしたひとたちの作家の本能みたいなものを突き動かす解釈可能性みたいなものが、この世界にはまちがいなくあるんだろう。
さて、本書だが、主人公、というより語り手は、あのディオである。
僕は、じつはジョジョの原作は第4部からしか読んでいない。そこからジョジョリオンまではコンプリートしたのだが、第1部から第3部、つまり、まさにこのディオが登場し、じっさいの登場人物として動くところを読んではいない。だから、僕の知っているディオというのは、後世の人間たちが、その彼が残したさまざまな痕跡に対して「あのディオ」と語るときの、崇高な、あるいはおそるべき横顔だけなのである。カリスマ的ラスボスといっていいとおもうが、まさにそのカリスマとしての面だけを、僕は知っているわけである。
そして、だからじっさいのところ、このカリスマ性が、第1部から通してあるものなのかどうか、そこのところは、僕にはわからない。本書を読むにあたり、たいした長さではないのだから、先に原作を読んでしまおうかとも考えたのだが、あるいはこのままのほうが、固有の楽しみ方ができるかもしれないともおもい、手は出さなかった。
内容としては、第6部ストーン・オーシャンで、プッチ神父が求めていた、ディオの記したノートの、そのままの「復元」ということである。ディオのノートは、それを読んだ承太郎が焼却してしまった。そこには、「天国へ行く方法」が書かれてあったらしいと知ったプッチは、彼の初期のスタンド、ホワイトスネイクという、にんげんの記憶と魂(スタンド使いならスタンド)をディスクにして抜き取る能力をつかって、それを読んだ唯一の人間、承太郎の記憶を奪おうとするわけである。本書の成立としては、昏睡状態の承太郎の回復の一助になるのでは、というスピードワゴン財団の依頼により、「著者」が、焼却されたこれを復元し、解読したものということである。つまり、「著者」が本書を脱稿したのはまさにプッチが天国にいこうと四苦八苦しているときということになるわけだが、いずれにしても、このようにして、ディオの生のことばが記されたノートは、復元されたのだ。
プッチの実現した「天国」とは、時を加速し、宇宙を一巡させ、世界は一度、はじまりからおわりまですべて「体験」され、未知を埋めて、すでに知っているデジャヴュのような現在の連続とし、そこに「覚悟」をほどこすということだった。天国に行くにはどうすればいいか、そもそも「天国」とはなんのことなのか、ディオは幼いころからのこの悩みに、おそらく原作に沿うかたちで、徐々にこたえを与えていく。しかしその過程は決して一直線ではなく、ディオは過去のジョースター家との因縁を思い出したり、現在こちらに接近しつつある承太郎たちのことを分析したり、あるいは動揺をそのままにうつすようにこれらを交互に語ってみたり、驚いたことに、ぜんぜんカリスマ的ではないのである。いや、というより、そもそも、「生の声」が記入され、人に読まれるという事態そのものが、「カリスマ」にはあってはならないことなのだ。ディオのような存在は、他人に対してデジタルでなければならない。偉大にみえることそのものが偉大さを醸成するようなありかたでは、表層的な人格と日常的な人格がアナログに通じ合ってはならない。端的にいえば、生活感が出てはいけないのである。デジタルに、偉大な表層そのものが際立ち、なおかつ、その背後にあるものが見えない、そのことが、彼の可能性の無限を知らせ、ひとをひきつける。くりかえすように、第3部以前において、ディオがどのような描写のされかたをされていたのか僕にはわからないのだが、少なくとも一般論として、そうしたことはいえるとおもう。
構成もかわっている。どういうかたちのノートだか知らないが、ぶつぎりの短いチャプターの連続であり、「まだ見ぬ信頼できる友」に見せるつもりのものでありながら、日記の域を出ないぶぶんもある。これが「解読」したものであるということにあわせたか、あるいはジョジョ独特の語り口に似せたものかもしれないが、文体も、ある意味では非常にいきいきとしており、感情的ですらある。テープレコーダーに録音されたものをそのままおこしたかのようだ。特に目立つのは、そして非常に興味深いのは、まるでじしんに言い聞かせるかのように、同じことば、ばいによってはまるまる同じ文章を、くりかえすぶぶんである。このディオには、生身の弱さのようなものが垣間見える。だが、それを彼は、一瞬たしかに見せながら、次の行にむけて全力で否定する。おそらく、このノートの読者としていちばんに想定されているのは、ディオじしんなのだ。そのようにして彼は、「カリスマ的ラスボス」としての、つまりわたしたちが「あのディオ」と語るときの崇高な面持ちを、保っていたのである。なにしろ彼は、承太郎たちに徐々に追い詰められ、同時に「天国」を模索する果てに、ジョースター家との和解すら、いちどは可能性にいれるのである。
そして、この不可避の回想と自己分析ののちでしか、「天国」への道はあらわれてこない。ただ方法だけ開示しても、たぶん意味はない。このノート、ディオの意志が継承されなくてはならない。すなわち、「天国」のなんたるかを誰かに明かすということは、彼のカリスマを崩すということにほかならなかったのである。
承太郎はこのノートを見て、焼き払ってしまった。彼とディオのじっさいの関係性がどういったものだったか、憎しみに満ちたものだったか、クールなものだったか、わからないが、いずれにしても、これを読んだ承太郎はなにをおもい、そして焼いたのだろうか。くりかえしディオじしんが語っていることだが、ジョースター家は「受け継ぐもの」たちである。承太郎という名前が、すでにそうなのだ。その家系のなかで「受け継ぐ」ということは、当然「与えた」ものがいたはずで、つまりジョースター家とは、パスの家系なのである。受け継ぎ、それぞれの個性が、与えたもの、受け継いだものが互いに、「あなたがいなければわたしも存在していなかった」と告げあるものなのだ。
たほうでディオは、ザ・ワールドのスタンド能力が示しているように、そうした、誰しもが多かれ少なかれ与している「パスの構造」を覆いつくし、ひとりだけそこの上位に立とうとするものだった、少なくとも第3部までは。彼は孤独であり、孤独であることのなかに、彼の「崇高な横顔」は宿っていた。不死身の肉体は、彼と他者を分節する「死」を遠ざけ、「世界」と彼を限りなく等しいものに変えていく。ジョースター家と「ディオ」は、ともに、その存在の構造上、対立が不可避なのである。承太郎もそんな気持ちでたたかっていたにちがいない。
だが、たたかいののち、ディオのノートを発見した承太郎は、ディオの生身を知り、同時に、因縁としかいいようのないしかたで、ディオのありかたとジョースターのありかたが表裏一体であることを悟ったにちがいない。「ディオ」は、この世の「パスの構造」の外部から飛来した、隕石的異物などではなく、ある意味では、ジョースターの一部ですらあったのである。ディオは、病的なほどに、ジョースターを意識する。その、朴訥な語り口のなかに、承太郎は、そのことを強く感じたはずである。いってみれば、ディオは、「パスの構造」の宿業みたいなものなのである。だが、それこそ不死身でもなければ、パスを拒否したこの存在は、持続することができない。持続可能なのは、意志として、継承されるときのみである。仮にこの継承のしかたが、ジョースターの「受け継ぐもの」としての仕事と同質なのであれば、ディオはこの時点でジョースターと同化できたかもしれない。だが、そこに見えるものは、過去から未来を一望俯瞰のもとに配置し、定められた運命を「覚悟」とともにむかえる、というものだった。それじたいの幸福論、天国の概念に関しては、どちらでもよい。ちょっと感動さえしてしまう。だけれども、そもそもそうした、彼個人の「天国」観のもとに世界を操作してしまうというところが、ディオなのである。たしかにプッチはディオの意志を継承した。だがそれは、ただプッチを媒介とするものであり、生きているものはやはりディオじしんの意志なのだろう。
承太郎はおそらく、このノートから、ディオという存在もまた、「正しさ」が規定されると同時に生成される、バランスの一端だと悟ったにちがいない。両者の対立は、おわることがないのだ。だから、これがただの日記なら、彼はむしろこれを大切に保存したかもしれない。だが、このノートそのものが、たんなる情報のいれものではなく、「天国」を完成させるしろものだった。これを読み、理解し、実行するものは、ディオの生身を知る、彼のかわりに動くものなのである。プッチを媒体としてディオの意志が完成したとき、両者の関係は対立ではなくなる。世界がディオの幸福に支配されるのと同時に、そこではおそらく、「パス」の意味もかわってしまう。この「天国」観には、ディオの激しい人生と葛藤、苦悩、たたかいが含まれている。そうして、「パス」は、互いの無二性を認め合うものではなく、ただディオの意志を広める手助けとなってしまうのだ。
いろいろと乱暴な仮説だけど、とりあえず、いまは第1部から第3部を読んでみようかなという感じです。
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