第296話/努力しても・・・
バキの猛攻を受けて勇次郎がダウンした。それも、うつぶせに、顔を地面につけて倒れているのだ。かつてなかったことだ。
顔をふせたまま、勇次郎は両手を動かせて地面をつかまえ、からだをあげる。だが、そのまま上体を起こして膝に手を置いて立ち上がる、なんていう当たり前の起きかたはしない。スピードをつけている様子はない。勇次郎はそのまま両手で体重を支えたままゆっくりと浮かせた足を前方にひきつけ、体操の技みたいに、両足をV字型に立たせるのである。さらにそこから、いちど前方に移動させた足を後方にもどし、からだを伸ばして逆立ちをする。ただ起きるだけならV字に足を伸ばしきる必要はないし、逆立ちしなくてもよい。ダメージがない、少なくとも、深刻なダメージではないということの表現、アピールなのである。では誰に対してのアピールなのか。観衆たちはその動きをむだなものとはとらえない。これまでの彼らの無責任な鈍さからすると、なにを無意味なことやってんだくらいにおもってもいいとおもうが、彼らはそこに「ダメージなし」という、ただ実際の身体の状態にとどまらない、勇次郎のメッセージを受け取っている。つまり、ここで観衆は、「必要に迫られたものではない無意味なふるまい」を目にすることで、そこに、「『ダメージがない』ということをこの男は表現しようとしている」と感じ取っているのである。勇次郎の「ことば」を聞き取っているのである。そこには「解釈」の入る余地がある。極端なことをいうと、ここで「なにを無意味にかっこつけて逆立ちしてんだ」とくちにすることは可能なのである。つまり、勇次郎のふるまいが、ここでは一義的なものではないのだ。
勇次郎は逆立ちのまま3メートルくらいとびあがり、着地して笑顔を見せる。どんな表情なのかと期待していたが、それは心の底から楽しそうな、うれしそうな笑顔なのである。
こころのなかで、親子というのはいいものだと考えていた勇次郎は、そのまま「なァ」とバキに同意を求める。バキは「なにが“なァ”だか知らんけど」といいつつ、じぶんたちの親子としてのつながりを確認し、勇次郎もそれを認める。まじりっけなしの範馬だと。
「嫌じゃないさ
範馬を生きることは」
バキがイメージの世界でからだを溶かしはじめた。もうこれをゴキブリダッシュと呼ぶ意味はないかもしれない。バキはその動きのなかにすっかりこの方法を内面化してしまっているのだ。
あまり動いているように見えないが、バキは地面を砕きながら急発進、父の胴体に閃光のような一撃を刺し込む。手首あたりまでめりこむようなおそろしい一撃だ。
瞬間、衝撃波なものが広がっていく。遠くにある植物が散っているので、イメージではないらしい。
範馬とはなにか?少なくともバキには、じぶんがまぎれもない範馬の子であると、ことばにされる以前の地点で理解している。
「努力しても
努力しても
努力以上が
手に入っちまう
だからもう・・・
諦めたんだ・・・
親父の面倒は
俺が見る!!!」
つづく。
勇次郎がうれしそうでなによりである。
これまで、じしんの飢餓感を満たしてくれるようなものに出会うことはまれだったろうから、喜びを表現するのが勇次郎は苦手なのかもしれない。
笑顔というかなんというか、顔全体が引きつっている。笑っていることはまちがいないのだが、どこか彼自身が背中に宿している鬼の顔にも似ている。顔も鋼の筋肉でできているかのような表情である。じっさいそうなんだろうけど。
また例によってバキの言い回しは晦渋で、よくわからない。
どれだけ努力しても、努力以上が手に入ってしまう。
つまり、ある面では、努力以下のものを彼らは望んでいる。
こんなにがんばったのに、これしか達成できない。そうした困難を、範馬は望む。望むのは、現実にはそうはならないからである。これは先週の「栄光」に関する勇次郎の語りとおなじことをいっているのだ。
なんらかの達成を目指して努力をしても、彼らではそれ以上のものが手に入ってしまう。
どうにか達成の困難な目標をたて、また「努力」というふるまいをしてみても、けっきょくはそれをも超えてしまう。
これは、あとから勇次郎を追う立場であるバキにおいての、範馬の表現だろう。
バキは勇次郎を追う立場である。だから、努力は必然だった。
だがそのふるまいの連続のなかに、つまり「追う」というじぶんの動きのなかに、バキはじぶんのなかの範馬を発見したのだ。
こんなことをふつうのにんげんがいえば顰蹙を買うし、まず傲慢というところでまちがいないだろう。
勇次郎の「栄光」への渇望とバキの「努力」についての実感には、最終的には範馬しか応えることができない。
それを補い、与えるものは、互いに範馬、つまり親子でしかありえなかった。
ふたりはこの親子喧嘩でそのことをはっきりと確認したのである。
そうして、バキでは、父親の苦悩に応えるものはじぶんしかいない、つまり、親父の面倒を見るものはじぶんしかいない、という結論に到達したのだ。
経過は異様であるのに到着するところがふつうの息子の老いた父に対するものとよく似ているというのはなんだかおもしろい。
バキでは面倒を見るものが「ほかならぬわたし」でなければならないのと同時に、勇次郎ではバキに面倒を見られるのが「ほかならぬわたし」でなければならない。
両者はお互いがありきの存在になりつつあるのであり、これは勇次郎が勇一郎を「対極」と語ったことと近い。
勇次郎は父を「対極」とし、これを否定することで、最強の自我を獲得し、保存する。
勇次郎の「ほかならぬわたし」は、勇一郎の存在を、ぬりつぶすのではなく否定することで、成立していたものだったのである。バキは範馬の継承者としての道を正しくすすんでいるのかもしれない。
勇次郎が観衆にもどのようにでも解釈可能なメッセージをしのばせたことも、はなしが動きつつあることをしめしているだろうか。
たしかに観衆は、さまざまに解釈することのできる立場から喧嘩を眺めることで、勇次郎の絶対性をいちど括弧にくくっていた。
しかし、今度はそれを勇次郎のほうから示していく。それはおそらく、バキが彼の苦悩を拾うほどの存在になっていることと無関係ではないだろう。バキの存在が、勇次郎の無限性みたいなものを抑制する。そうして、先週の彼の語りに引き続き、彼は明らかに、「ダメージがない」ということを表現する動きというものを、今度は現実に見えるレベルで、演じてみせたのだ。そこにはそれを受け取るもの、つまり観衆が想定されている。メッセージを受け取ることを想定されているものは、発信されるまでは、もちろんメッセージを受け取っていない。だから、「メッセージを受け取る前のもの」と「メッセージを受け取った後のもの」のあいだには差異がある。そこの落差には、勇次郎のなかでの他者の萌芽を見ることができるだろうか。バキのほどこす有限性が、世界を分節し、彼のなかから他者をはじき出そうとしているのかもしれない。
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