『ゾンビーノ』アンドリュー・カリー監督 | すっぴんマスター

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これはちょっと、久しぶりにすごい映画を観たって感じだ。ゾンビの世界観を継承した自由な解釈の物語という点では、僕的にはショーン・オブ・ザ・デッド以来です・・・とおもったら、こういう比較のしかたをしているひとはけっこういるみたい。要するに、たんなる素材にはとどまらない、つまり、ゾンビ映画をつくるために召喚されたゾンビというものにとどまらない、ゾンビという造形についての抑え難い愛情が噴出している、そういう種類の映画なのです。基本的にシリアスな表情が魅力的な『マトリックス』のトリニティ役で有名なキャリー=アン・モスが、この、製作者(および鑑賞者)のある種の歪みに、自信というか強さというか、必然性のようなものを加えていて、非常にいい配役だとおもいます。


放射能の影響で死者が生き返るという現象が多発し、通常人類は存続の危機においこまれたが、装着すればゾンビの食欲をおさえることができるという首輪が発明され、ゾンビは労働力として人類のなかに息づくことになった、そういう世界観です。ゾンビにかかわるすべての事業はゾムコンという会社が独占していて、このゾンビ現象が世界のどこまで広まっているものかよくわからないが、まあ、ロボコップでいうとオムニ社みたいなもの、世界をコントロールし、ことの是非を判定する権利はすべてゾムコンに帰属すると、そんなような感じ。通常人類の住む町は大きな柵でかこわれ、ほとんどのゾンビたち、および、秩序を乱す、あるいは乱したとみなされた通常人類たちはみんなこの「ゾーン」と呼ばれる柵の外に追い出される。

ゾンビはかんたんな仕事のほとんどをこなせるので、牛乳配達だとか単純な運搬だとかはぜんぶ彼らがやる。くわしい説明はないが、もちろん給料もいらない。彼らの労働エネルギーが無限とはおもわれないが、少なくとも首輪のないゾンビがひとを食べている以外のエネルギー補給の場面はなく、ある意味無限の労働力なのかもしれない。ふつうこういうことが起きると多くのひとびとが職を失うことになるわけだが、彼らは給金を必要としないから、労働と賃金を交換していることにはならず、ある意味では農業の発想に近いかもしれない。

主人公の男の子、ティミーの家でも、このたびゾンビを飼う(雇う?)ことになる。父親がゾンビ嫌いなためにこれまでは飼ってこなかったのだけど、近所にゾムコンの警備主任が引っ越してきたために、ご近所づきあい的そうせざるを得なくなった・・・。そうして、このティミーと、彼が「ファイド」と名づけたおじさんゾンビとの愛と勇気の物語がはじまるのである・・・。


ティミーは、変わった子というか、思慮深いというか、ふつうはゾンビに名前をつけたりしないらしい。「ゾンビと親しくなりすぎてはいけない」とそのゾムコンの社員はいう。緊急時に殺せなくなるからだ・・・。


わりと展開がはやく、ちゃっちゃとすすむのもよかったのだけど、かなりはやい段階で、ファイドは首輪がとれて、近所のおばあさんを食べてしまう。このとき、ティミーにも危機がおとずれるわけだけれど、まあ、「いつかファイドが首輪なしでティミーを食べることを選択しないときがくるんだろうな」ということは、たぶん誰もが想像するとおもうけど、あそこの段階でそれをしなかったのは、よかったとおもう。


なにがおもしろいかというと、凡庸な感想ですが、リチャード・マシスンの「アイアムレジェンド」にも通じるはなしなのだけど、けっきょくのところどちらが正常で、どちらが狂っているのか、それを判定するのはなんなのかという問いかけが、なんということのない親密な(ゾンビこみの)家庭のなかに描かれているということなんですね。だって、仮にゾンビが人間しか食べず、それがないならないでなにも食わずに生きていけるなら、しかも赤ん坊のようにある意味では生まれたばかりの彼らでもある程度の労働がこなせるのなら、すべての人類がゾンビに「更新」されたとき、一種の平和がおとずれるのではないかと想像できるからです。もちろん、ゾンビは汚いし、くさいし(たぶん)、いろんなものを垂れ流しているけれど、それを否定するのはわたしたちの価値観なのだ。リチャード・マシスンはたしか、吸血鬼が鏡を見れない心理学的理由を、変わってしまったじぶんの姿を直視できないから、というふうに分析していたように記憶しているけど、意識された描写かどうかわからないが、ファイドは鏡のなかのじぶんを認識しているのである。つまり、この意味で彼は自己肯定的なのだ。


さらに、人類の町が柵でおおわれ、その外を「ゾーン」と呼んでいるのも、しかたのない自衛の策とはいえ、ちょっと滑稽だ。鳥瞰したとき柵に追い込まれているのは、むしろ彼らのほうなのである。



旧世代の大人の男たちがゾンビと親しくすることを嫌うのは、それが、みずからのこれまでの積み重ねを否定するものと感じられるからかもしれない。しかし、ティミーにはそういう感想はないのであって、無邪気に「ファイド」(ウィキペディアによるとこれは犬の名前らしい)と名づけ、「ゾンビ」という概念のなかから彼の個性を掬い出すのである。結果として、ときとばあいによるが、ファイドは首輪をとってもひとを食べなくなる。特に、家族はぜったい食べない。これはつまり、ファイドじしんのなかで、彼自身が「ゾンビ」のなかから掬い出されたようにして、彼の家族の個性をたよりに、食欲の対象としての「人間」のなかからティミーたちが掬い出されたということにほかならない。「親しくすること」、つまり、相手を交換不可能であると認めること、「君でなければだめなんだ」と告げることで、ゾンビは「人間」のなかから彼にとって必要不可欠で換えがたい存在を見つけ出したのである。(おなじことは近所に住むゾムコンのもと社員のところでも起こっている)



けっきょくのところ、ゾムコンのゾンビ対策は、ひととゾンビの溝を深めるばかりで、そのことで、ますますゾンビの食欲は促進されていたはずだ。ゾンビの食欲は「人間」の個体認識ができないときに起動する。そしてその個体認識ができるかどうかは、こちらが彼の名を呼べるかどうかにかかっている。ゾンビの食欲は生理的なものではなくて、むしろ構造的なものだったのである。




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