『どうぶつの国』雷句誠①~⑤ | すっぴんマスター

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⑤巻まで一気読み。雷句誠といえば「金色のガッシュ!!」だろうけれど、こちらはまだ読んだことはない。最近漫画文庫化された。


というわけで、作家に対する予備知識はゼロのまま、そう自覚していたわけではないのだけど、たぶんなにか新しいものに触れたい欲求から、「どうぶつの国」を手にしていた。絵は独特で僕の経験にないものだし、ぱっと開いてみても、ギャグの雰囲気なんかはけっこうマイペースな感じで、直感は正しく、僕がぜんぜん読んだことのない種類の漫画だった。


だから、失礼なはなし、せいぜいがひまつぶしくらいのつもりで、買い置きしてあったものをだらだら読み始めたのだけど、けっきょく手元にあった五冊を一気に読みきってしまった。おもしろいのである。


①巻のあとがきに書かれてあることだけど、設定に関していえば、それはどうということのない思いつきかもしれない。地球ではない、ヒトのいない動物ばかりの星、というか国に、すべての種族の鳴き声を理解し、同時にすべての種族に通じる鳴き声を発するヒトの赤ちゃんがあらわれるのである。それを、一見するとチョッパー的なマスコットキャラみたいなモノコというタヌキが拾い、母親として育てていく。少年漫画的な思いつきといってもいいかもしれない。しかし、作者じしんがいっているように、この設定はおもいもよらない壮大な方向に、物語をおしすすめていくのである。

この漫画の味わいは、おそらくこの、タロウザもモノコも、作者ですらも予想していなかったほうに、必然性を帯びてはなしが広がっていく、その即興性にある。だから、もしかするとここで、この漫画はこれこれこういうおはなしであると説明しても、そのダイナミズムはほんの一部も伝わらないかもしれない。そういう漫画である。雑誌で連載されることでソリッドな単行本となる日本の漫画作品というのは、基本的に即興的であり、いきあたりばったりである。ある種の才能を除けば、尾田栄一郎とかがそうかもしれないけど、おおまかなプロットはたててあるとしても、モーツァルトみたいにあたまのなかで完全に作品ができていて、あとは書くだけという描きかたをしている作家は、それほど多くないのではないかとおもう。

なにがいいたいかというと、たぶん、特に漫画の業界では、即興性というものは、とりたてていうほどの特徴ではなくて、ごく自然に、接客業のにんげんが違和感のないスマイルを当たり前に身につけるように、作品に底流するものなんではないかということである。

しかし、そのなかにも、いくつか種類があるのかもしれないというのが、最近の僕の直観である。

浅見光彦で有名な推理小説の内田康夫というひとは、たいへんな大家だが、作品を書くときに、あらすじはともかく、具体的なストーリーの細部やトリックはぜんぜんきめず、いきなり書き始めるというのをどこかで読んだ記憶がある。

ジョジョの奇妙な冒険の荒木飛呂彦なども、この手の書き方をしていると僕は考えている。スタンド使いたちはその意味で、必然的にブリコルールにならざるをえず、成長がある種の宿命として、設定のなかに組み込まれているのである。

同様にして、とひとくくりにしていいものかどうかはわからないが、このひとのばあいでも、ひとつのおもいつき、ひらめきが、物語を膨らませるという過程のなかに、物語を語ると同時に、その世界に移入し、繊細な手つきで広げていく作者が、登場人物としてそこにいるのである。


そうすると、正論にみえる「みんながなかよく暮らす」どうぶつの国の理想像も、さまざまな意見と衝突し、対立することになる。作者の当惑は、そのままタロウザの当惑として紙面に表現される。考えてみれば当然な、自然にわいてくる反論、いずれにせよわたしたちはなにかを食べねば生きていけない、だとするなら、「みんなで仲良く」は死を選択するに等しく、したがって弱肉強食がもっとも根本的なこの世界の原理だとするなら、すべての動物の痛みや苦しみを「理解」してしまうタロウザは、存在してはならない、こうした意見に、作者もまた、驚愕の面持ちでぶつかるのである。

また、この世界では、異種族間ではまったくコミュニケーションがとれない。となると、接触をしていない動物たちのあいだなどで、「どんな動物とも会話ができる動物がいるらしいぞ」という具合に、タロウザのことがうわさになるということもありえない。タロウザはつねに、身体をはって、命をかけなければ、この事実を伝えることすらできない。

しかしそこには、恩着せがましい献身はなく、それはただ宿命として、そうせざるを得ないものとして、タロウザを動かせる。

そのさきになにがあるのか、タロウザにも、たぶん作者にも見えていないのだが、しか淡い確信のようなものはそこにある。これはある種の革命の物語だが、そこに権威的な手つきはあまり見えない。というのも、その革命の手段が、タロウザではこれまで誰もなしえなかった「対話」であるからである。「対話」は、ひとつの結論を導いてそこに統一的にひとびとの思想がむかう、というものではない。さまざまな考え方が、互いに敬意を払いつつ、自存していく状態だ。タロウザでは当為の文法、「こうあるべき」ということばは、あまり強く発せられない。彼が動物としては弱いからである。つまり、現行の原則、弱肉強食のうちでは、彼は尊大な調子で持論を語ることは原理的にできない。そのことが、逆に彼において対話をうながしているというところはあるとおもう。


いったいどう転がっていくのか見当もつかないが、ちょっときになる漫画をまたひとつ見つけてしまった。






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